西暦 | 和暦 | 事項 |
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724 | 神亀元 | 陸奥国に多賀城をおく。 |
780 | 宝亀11 | 伊治公あざ麻呂が反乱を起こし、多賀城陥落。 |
797 | 延暦16 | 坂上田村麻呂、征夷大将軍となる。 |
802 | 延暦21 | 征夷大将軍坂上田村麻呂、胆沢城を築き、まもなく鎮守府を多賀城 より移す。 |
803 | 延暦22 | 征夷大将軍坂上田村麻呂、志波城を築く。 |
804 | 延暦23 | 鎮守府、胆沢城に移る。 |
850 | 嘉祥3 | 慈覚大師円仁、中尊寺(関山弘台寿院)・毛越寺を開山(寺伝)。 |
1051 | 永承6 | 源頼義、陸奥守となり、阿倍頼時を追討する-前九年の役起こる。 |
1056 | 天喜4 | 陸奥守兼鎮守府将軍源頼義に阿倍氏追討の宣旨下る。 この年、藤原清衡生まれる。 |
1057 | 天喜5 | 阿倍頼時傷を負い、鳥海柵にて死す。その子貞任・宗任が抗戦、 黄海の戦いでは源・清原連合軍に壊滅的打撃を与えた。 |
1062 | 康平5 | 源頼義・清原武則ら、阿倍貞任を討つ-前九年の役終わる。 清衡父・藤原経清処刑され、清衡母は清原武則の嫡男武貞に再婚する。 |
1063 | 康平6 | 二月、阿倍貞任・藤原経清らの首級、都に着く。 阿倍氏討滅の功により、藤原武則は鎮守府将軍に、源頼義は伊勢守、源義家は出羽守となる。 |
1083 | 永保3 | 源義家、陸奥守兼鎮守府将軍となる。この年、清原一族に内訌、清原真衡、
吉彦秀武・清原家衡・清衡らと戦う-後三年の役起こる。清衡28歳。 白河上皇、院政を始める。 |
1086 | 応徳3 | 清衡、乱ま渦中に妻子を殺害されれ、陸奥守源義家に与する。 |
1087 | 寛治元 | 源義家、清原武衡・家衡らの金沢柵を陥落-後三年の役終わる。 義家に協力した清衡、勝ち残る。 |
1089 | 寛治元 | 清衡、陸奥押領使となり奥六群を領し、豊田館に住す。 |
1091 | 寛治5 | 清衡、初めて関白藤原師実に馬を貢進し、中央に知られる。 |
1092 | 寛治6 | 清衡、陸奥守の制止にもかかわらず、合戦を始める。 |
1095 | 嘉保2 | このころ、あるいは康和元(1099)ごろに、清衡、豊田館から平泉に居館 を移す。 |
1105 | 長治2 | 清衡、中尊寺一山の造営に着手、最初院建立。清衡50歳。 このころ基衡生まれる。 |
1107 | 嘉承2 | 清衡、中尊寺大長寿院を建立(寺伝)。 |
1117 | 永久5 | このころ、紺紙金銀字交書一切経の写経始まる。清衡62歳。 |
1122 | 保安. | 中尊寺経蔵建立(棟札)。この年、秀衡生まれる。 |
1124 | 天治元 | 金色堂落成。清衡69歳。 |
1126 | 大治元 | 3月24日、中尊寺大伽藍一区画の落慶供養を行う(願文)。清衡71歳。 |
1128 | 大治3 | 7月17日、藤原清衡死去。73歳。 |
1129 | 大治4 | 基衡、異母兄惟常(これつね)と争う。 清衡一周忌。妻平氏施主となり追善供養に法華経写経する(日光輪王寺蔵)。 鳥羽上皇、院政を始める。 |
1138 | 保延4 | 5月、基衡、亡父清衡供養のため、法華経千部写経をすすめる。 |
1142 | 康治元 | 基衡、異母兄師綱(もろつな)と争う。 |
1151 | 仁平元 | 関白藤原頼長、陸奥・出羽押領使基衡に荘園料の増加を命じる。 |
1152 | 仁平2 | 基衡の妻(阿倍宗任の女)死亡か(近世建立の墓碑)。 |
1153 | 仁平3 | 基衡、荘園の年貢増徴の件で左大臣頼長と争う。 |
1155 | 久寿2 | 奉衡生まれる。 |
1157 | 保元2 | 3月、基衡死去。 |
1160 | 永暦元 | 秀衡の妹(あるいは秀衡の女)徳姫(剃髪して徳尼と号す)、白水阿弥陀堂建立。 |
1169 | 仁安4 | 秀衡五輪石塔を造立(現、釈尊院境内)。 |
1170 | 嘉応2 | 5月、秀衡、鎮守府将軍に任ぜられる。 |
1174 | 承安4 | 源義経(16歳)、平泉に下る。 |
1176 | 安元2 | 秀衡、亡父基衡の二十回忌を営み、写経する。 |
1180 | 治承4 | 8月、源頼朝、伊豆で挙兵。10月、富士川の合戦で平氏を破る。 義経、秀衡の武将を得て、平泉より出陣する。 |
1181 | 安元2 | 8月、秀衡、陸奥守に任ぜられる。このころ、秀衡、頼朝に背くとの風説流れる。 平清盛、死去。 |
1182 | 寿永元 | 4月、頼朝、鎌倉江ノ島で秀衡調伏の密議をする。 |
1184 | 元暦元 | 秀衡、東大寺の大仏修理料を献ずる。 1月、頼朝、平氏追討の命を受ける。2月、一の谷の合戦。 |
1185 | 文治元 | 2月、屋島の合戦。3月24日、平氏、壇ノ浦の滅亡。 すでに頼朝と義経の不和が決定的となる。 |
1186 | 文治2 | 8月、西行法師、東大寺砂金滅金料勧進のため、平泉におもむく 秀衡、頼朝と協定し、京都への貢馬・貢金を鎌倉経由とする。 |
1187 | 文治3 | 2月、義経、平泉に下る。義経の平泉行きが頼朝に知れる。 10月、秀衡、死去。 |
1189 | 文治4 | 2月と10月、藤原基成(平泉在住)と泰衡に義経つ追討を宣下す。 |
1189 | 文治5 | 義経、泰衡に攻められて平泉高館自害する。31歳。 泰衡、弟忠衡を殺害。23歳。 頼朝、勅命待たずに陸奥に出陣。平泉炎上。泰衡、比内郡において老臣河田次郎に殺され、 奥州平泉氏滅びる。 |
1226 | 嘉禄2 | 毛越寺炎上する。 |
1288 | 正応元 | 奥州藤原氏の百回忌供養として、執権北条貞時、金色堂覆堂の修理を 行う。 |
1337 | 延元2 | 中尊寺炎上(銅鐘銘)。 |