古代道路の特徴とその探し方

古代の道で主要な官道は幅が10メートル以上もあり、しかも極めて直線な形態を有する道であることが近年の調査でわかってきています。ここでは古代道のそれらの事柄とそれ以外の特徴を説明し、それらの特徴から古代道を探すことができることを紹介したいと思います。

側溝を持つ直線的な道からのアプローチの試み

古代の道でその代表的な駅路は直線的な形態で建設されていることがわかっています。そのことは現在の私たちが古代駅路を探す場合に極めて好都合であることが言えましょう。例えば素人でも現在確認されている古代道路遺跡から推定駅路の進む方向に延長線を地図上に定規でひいてみれば、おおよその道筋がつかめます。後はその延長線上に古代道に関係のありそうなもの(古い社寺や遺跡に古地名など)はないか探してみます。また、その延長線上に地割や現在の道はないかも確認してみます。

直線を意識して造られた道
古代駅路は直線を繋ぎあわせて都から地方へ伸びて建設されています。この駅路に関してカーブした道路の形態はほとんど見られないようです。道が方向を変える場合はある地点で突然折れ曲がる形態をとっているようです。そして折れ曲がった地点からその先はまた直線がしばらく続くといった具合です。

地域住民にとって非実用的な道
古代駅路は実は非実用的な道なのです。道の進む先に丘陵があろうが河川など低湿地があろうが、それがどうしようもなく高い山や深い谷でもないかぎり兎に角真っ直ぐ進む特徴の道なのです。そのことは駅路が地域の事情を無視して建設されているということがいえます。この道路が建設される前から土地に住んで生活していた人々の都合を全く考えずに、国の庁舎などを経由する以外は都までを最短で結ぶことを目的としている道なのです。
面白いことにそれが現在の高速道路のルートと極めて同じところを通ることが多いようです。

地図を使用
国土地理院の2万5千分の1地形図でも、一般道路マップでも古代駅路を探すことができます。現在確認されている推定駅路の遺跡などを地図上で見つけ、そこから駅路が進んだと思われる方向に定規などを当てて、その線上に直線的な道がないか探してみます。又地割りを示すものや行政境界線などが無いか確認します。

行政境界線から探す
行政境界線は古代の昔から道として利用されることが多いのです。これは中世の鎌倉街道などにも当てはまり、一度土地所有が認められると人はその権利にこだわり、それを崩そうとすると紛争がおこり、よって古代に形成された行政境界線は中世、近世、現在とそのまま受け継がれてきているものが大半だと考えられているようです。

もともと地形的に山河が境界線になることが多いのですが、平地で何も無いようなところに極めて直線的な境界線がある場合、そこは道として利用されていた可能性が考えられるのです。そのことを逆手に境界線から古代道を探し当てられた例は多いのです。

その代表的な例として筑後国と肥前国の境が直線になっている部分で木下良氏がそれを指摘して現地調査を行ったところ、幅15メートルほどの帯状の窪地や堤防状の地割りが認められ古代道であったことが確認されています。

関東では栃木県と茨城県の県境で面白い例があります。栃木県野木市・小山市と茨城県総和町・三和町の境界が途中でやや屈曲するものの、約9キロにわたって直線になっていて、部分的に現在も道になっていて、この境界も古代道ではないかと考えられているようです。

条里余剰帯から探す
古代の土地区画の方式として条里制というものがあります。条里地割は、「条」「里」「坪」といった単位に分けられ、それぞれに番号をつけ耕地は何条・何里・何坪というように示されました。
条里地割は一町方格の土地区画が基本になっているのですが、しかし条里地割の中で10〜20メートル程度の余剰部分が帯状に検出されることがあるそうです。その原因は幾つかあるようですが、余剰部分が道路の敷地であったものもあると考えられているようです。この帯状に検出された余剰部分を「条里余剰帯」とか「道代」などと呼び古代道路復元の方法利用としているようです。

静岡市の曲金北遺跡は東海道駅路の遺構として両側溝間の心々距離約12メートル幅の直線道路が延長350メートルにわたって検出され、また、この遺跡は条里地帯の中に位置し、道路遺構のライン上に約15メートルの余剰帯が検出され、この道路遺跡が条里余剰帯と古代計画道路の関係を実証したものだということで注目されています。

空中写真から探す
航空写真測量などで上空から地上を撮影した写真は、地図などには示されていない地上の様子を伺い知ることができます。空中写真では地図などからは省略されてしまう微細な道路や地割が写っていることがあるようです。古代道路の痕跡は、連続する帯状地割りや直線地割り、森林の樹の直線的な落ち込みなどが空中写真で見つけられることがあるようです。それらが古代道路の想定路線上に見つけられた場合は道路の跡と考えられ、路線復元の資料となります。

ソイルマーク
古代道路の研究書などを拝見しているとソイルマークという面白い現象を説明したものがでてきます。畑の中の地表に周囲と比べて黒く見える2本のラインが浮かび出て見えたりする現象です。これは古代道路の側溝が地中に埋もれていて、たまたま雨上がり後などに側溝と他の部分との表土の体積の違いなどでこのように見える現象だといいます。実際、群馬県新田町の大東遺跡ではソイルマークが確認されていて、その地点は古代道路遺跡のある矢の原遺跡市宿遺跡の間にあり、後に発掘調査が行われ道路遺構が確認された例で大変珍しいものだそうです。

地名・文献史料からのアプローチの試み

地名から探す
地名は古代道路を復元する手がかりになります。駅家に関連した地名としては、「ウマヤ(馬屋・厩など)」「マゴメ(馬込・馬籠・間米など)」などがあり、道路関係では「大道」「ツクリミチ(作道・造道)」「クルマジ(車路・車地)」「立石」「センドウ(山道・仙道)」「太政官道」「勅使道」などがあり、また駅路の馬家名が転化した地名と思われるものなども参考になります。

文献資料から探す
古い文献資料の研究はそれ自体が歴史学でありまして、私のような素人では古文書が読めないものですからなかなか研究が難しいものです。とりあえずは過去の研究者の報告書や説明書などから始めことになりますが、一応ここでは古代道に関係したどんな古文献があるのかだけを紹介します。

『延喜式』諸国駅伝馬条  『延喜式』は平安時代の延喜年間(901〜919)に編纂されたもので、式は律令格式の式で、行政法の施行細則です。諸国駅伝馬条は、兵部省関係の規定の一つです。駅家・駅路関係の史料とされます。

『和名類聚抄』  一般に『和名抄』と呼ばれ『延喜式』と同時期に編纂された辞典です。この中に、「国郡部」と「郡郷部」という全国の国・郡・郷の一覧が収録されています。写本として高山寺本や名古屋市立博物館本などがあります。

六国史  『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本三大実録』『文徳天皇実録』
六国史や『類聚三大格』という追加法令集の中に駅家の新設・廃止・再設置や、駅路路線の付け替え、駅馬数の改変などの記事が登録されています。

古代の風土記  現在残っているものとしては、常陸、出雲、播磨、豊後、肥前の各国のみです。風土記の駅家・道路関係記事と『延喜式』などと比べることによって、奈良時代初めと平安時代の間の変化を抽出することができます。

木簡や墨書土器などの出土文字資料  木簡には駅家名が記載されている場合があります。