東京都内のルート

東山道武蔵路のルートとして現在では東京都内のルートは、ほぼ確定しつつあるようです。下の地図は東京都内を通る東山道武蔵路のルートを赤線で示しています。同時に鎌倉街道上道の本道も緑線で示していますので、古代の道と中世の道の比較ができるのではないかと思います。左の地図からわかるように、古代道と中世道は、大きく離れることなく、都内を通っていたことが伺われます。

埼玉県側の東の上遺跡は古代官道としての遺構発掘の先駆けとなった遺跡です。東の上遺跡については埼玉県南部ルートで詳しく説明したいとおもいます。

国分寺市の恋ヶ窪より以北の東山道武蔵路は所沢市の東の上遺跡の道路遺構に繋がっていたと考えられていて、小平市の南側から推定路線上に道路遺構が次々と発見されてきています。

八国山緑地丘陵南斜面の遺構
八国山丘陵は東京都と埼玉県の境界線となっています。この丘陵周辺には鎌倉街道上道関連の史跡等が多く残っていて、新田義貞に関連した将軍塚や元弘の板碑所在地が丘陵の尾根上に存在しています。
八国山は平地から標高差が20メートルほでですが、傾斜は急で東山道武蔵路は当初は丘陵の東裾部を巻いて東の上遺跡の遺構へと繋いでいたと想定されていたようです。しかし、近年に東村山市の本町二丁目で道路遺構が発掘され、そこから東の上遺跡までの方向性や位置関係から、八国山将軍塚の西鞍部を東山道武蔵路が通ったと想定して丘陵の南から入り込む谷戸状の地点でトレンチ調査が行われました。その結果、切通し状の遺構が確認され、遺物として8世紀前半から9世紀中葉の須恵器や12世紀前半の陶器片などが出土しているそうです。
私は鎌倉街道が丘陵を避けるように東に迂回しているのに対して、東山道武蔵路はその直進性からあえて丘陵を切通しで越えているということを知り、あらためて、まっすぐに造られた古代の道に驚きました。

東村山市本町二丁目土方医院遺構
西武線の線路の近くで本町二丁目土方医院地点で、東西約14メートル、南北約16メートルの範囲で発掘調査が行われました。その結果調査地の東西端に南北に伸びる両側溝が確認され、東側溝は南北正方位から10.5度西に偏向し、西側溝は10.9度西に偏向していたそうです。ここで注目されるのは両側溝が側溝内土層の堆積状態から、人為的に埋め戻されていることがわかったといいます。側溝の埋め戻しは小平市の原島農園地点や上水本町地点等でも確認されているようです。

東村山市本町一丁目野口橋交差点遺構
小平市の小川団地内から検出された道路遺構を基に、そこより北方向の調査が何カ所かで行われ、東村山市野口橋交差点付近で二条の溝が確認されています。しかし、溝の深さや規模・形態などは、これまで確認されている道路遺構とは若干ことなっていたようです。そのため道路遺構と断定しがたいようでしたが、この地点が南側が空堀川に傾斜して行くところであり、低湿地に向かう地形の変化によるのではないかと考えられているようです。

小平市内の遺構
国分寺市の恋ヶ窪以北の東山道武蔵路はどのような経路をへて所沢市の東の上遺跡へ繋がっていたのかの調査が小平市内でも行われました。想定路線上で調査可能な9地点でトレンチ調査を行い、その結果、上水本町・小川二丁目(原島農園)・小川東町二丁目(小川団地内)の3ヶ所で遺構が確認されています。
上水本町では、当時の恋ヶ窪の遺構の北限から750メートルほど北の地点で、国分寺市との境界付近で、玉川上水が北側を流れている地点でした。東西23メートル、幅1.5メートルのトレンチ内で二条の溝状の遺構が確認され、更に方向性の追認のため二カ所のトレンチがおこなわれて遺構が確認されています。
原島農園地では上水本町の調査の結果に基づき、東西22メートル、幅3メートルでトレンチが設定され、その結果東西両側溝が確認され、更に側溝部を南に拡張して、南北18メートルにわたり硬化面が東西両側溝上に確認されました。
上水本町と原島農園地の調査に基づき小川東町の小川団地内でも東西両側溝の遺構が確認され、小平市のこれら3カ所の道路遺構は検出状況や土層の堆積状態などから、国分寺市で確認された道路遺構に連続する可能性が高いと考えられています。

国分寺市の旧国鉄中央学園跡地から発掘された全長340メートルにも及ぶ東山道武蔵路の遺構は現在アスファルト下の地中に保存されています。この遺跡についてはこちらのページをご覧下さい。 東山道武蔵路

武蔵国分僧寺と尼寺の中間を東山道武蔵路は南北に通っています。そもそも国分二寺は東山道武蔵路を基準に造営されたと考えられていて、国分寺のような官の施設よりも道路のほうが早い時代に存在していたわけです。


旧国鉄中央学園跡地から発掘された道路遺構は4期の変遷が確認されていますが、国分二寺の中間地点でも複数の道路遺構か確認されているようです。中には幅8〜10ほどで、その中に幅2.5メートルの硬化面を持つ道路が武蔵路の東外側に確認されていて、第4期の道路の延長ではないかとも考えられているようです。また側溝のない幅15メートルの道路跡が、武蔵路と方位を異して確認されていたりもします。

東芝府中工場内でも調査が行われていて、第2期の道路と思われる道路痕跡が西側溝上で検出されています。

武蔵国府と東山道武蔵路の関係
現在、武蔵国府の中心となる国庁の位置は、宮町2〜3丁目付近と考えられています。一方、東山道武蔵路は東芝府中工場内を南北に通り、そこから南は日鋼団地敷地内を抜け分倍河原駅の西側へ向かっています。分倍河原駅から国庁跡までは約1キロ離れていて、両者はどのように繋がっていたのでしょうか。
国庁域を示す区画溝の北側に、東西方向に通る道路跡が確認されています。この道路は約300メートルにわたり確認されていて、両側に溝を持ち溝間の心々距離は9メートルあるそうです。この道路跡は確認域から更に西に延びて分倍河原駅までは通じていたと考えられていてこの東西道が東山道武蔵路から国庁へ向かう道であったとされているようです。更ににこの道は東側にも延びていて、旧甲州街道に沿うようにして下総国府の方面へ向かったものと考えられているようです。この道は宝亀2年の所属替え後の武蔵国府経由の東海道駅路であった可能性も考えられます。

東山道武蔵路は分倍河原駅西側から更に道路が南に延びていたとされ、その先、多摩川を渡った多摩市の連光寺には打越山遺跡があり、近世、中世道路遺構の下に幅12メートルの古代道の遺構が確認されています。この分倍河原駅以南の道路は宝亀2年の所属替え直後の古東海道ないし東海道駅路から武蔵国府に連絡する支道であったと考えられているようです。

以上のように東京都内では東山道武蔵路は、やや弓なりに東に膨らんだような形で上野国へ向かっていたことが確認できます。