群馬県太田市で発掘された東山道跡
  群馬県太田市の推定東山道駅路跡・・・4 (巖穴山古墳)
東山道駅路の地図

巖穴山古墳(いわあなやまこふん)

大道西遺跡のすぐ北側にある巖穴山古墳の全景

今回の遺跡現地説明会では東側の鹿島浦遺跡と西側の八ヶ入遺跡から東山道駅路の遺構が見つかっていますが、八ヶ入遺跡と大道東遺跡の中間には大道西遺跡があり、その遺跡からも前年の発掘調査で東山道駅路の遺構が発見されています。大道西遺跡は今は埋め戻されています。

大道西遺跡のすぐ北側には上の写真の「巖穴山古墳」(いわあなやまこふん)があり、ひときわ目に付きます。左の写真は古墳を西側から撮影したものです。

巖穴山古墳は円墳のように見えますが実は方墳で、一辺が36.5メートルで、高さは6メートルあります。墳丘四辺の方位は東西南北にほぼ一致するそうです。発掘調査では幅7メートルの周堀が検出されていますが葺石や埴輪は確認されていないようです。墳丘南側には横穴式石室が開口しています。かってはこの古墳の周辺には十数基の古墳があったそうですが、現在では保存状態のよくない円墳が4基あるだけといいます。

左の写真は古墳南側の開口した石室の入口です。この古墳の築造時期は古墳時代末期の7世紀中頃で、東山道駅路が造られる少し前ということになり、あるいは東山道駅路と何らかの関係がある可能性も考えられます。古代駅路はこれまでの調査で、地域の古墳を避けて迂回する傾向があることがわかっています。今回発見された3遺跡の東山道の方位が、その西の牛堀・矢ノ原ルートと若干ずれが認められるのは、この付近の古墳を避けるためとも考えられないでしょうか?

右の写真は南側の閉口部から古墳の石室内を撮影したものです。説明板によるとこの石室は、複式構造をとる大型のものでチャートや凝灰岩の自然石を用いて築造されているそうです。現在する石室の全長は13.4メートルとあります。出土遺物には玄室内からは土師器片・人骨片・金環・刀装具などがあり、羨道から須恵器提瓶等があるといいます。古墳の石室というとキトラ古墳や高松塚古墳などの壁画を思い出しますが、古墳の石室に壁画や装飾模様が描かれているのは関西以西のものがほとんどです。

この付近の遺跡からは古代の遺物や遺構が多く検出されています。古いものでは八ヶ入遺跡での旧石器時代の細石刃から、奈良時代の大集落跡などが見られることから、この付近は古代の人々には生活しやすい土地であったと想像できます。巖穴山古墳の埋葬者は古墳時代にこの辺りを支配した主導的立場にあった豪族と考えられているようです。

つい先日に青森県八戸市の切り立った崖の上にある「林ノ前遺跡(10〜11世紀)」で、約200点もの鉄のやじりと、縛られた人骨などが出土したという記事が新聞に載っていました。平安時代には岩手県の北部から先は蝦夷(えみし)の地とされていて、近年の発掘でこの時期には、集落跡は平地を避けて山頂や環濠(かんごう)の中に作られていたことが判明しているそうです。今回の発見でこの特異な集落形態は敵の襲撃に備えたもで、前例のない、やじりの数と、両手・両足を縛られた全身骨1体と、頭骨だけのものが3個出ていることなど、これらから激しい戦いの跡を見ることができると書かれていました。

東山道は陸奥の奥地まで続いていた道です。今回の遺跡説明会で見てきた東山道を蝦夷討伐の軍隊が走り抜けていくのを想像してしまいました。

下の写真は今回の遺跡現地説明会で、実際に検出された土器などの遺物を陳列したものです。大半は奈良時代を中心とした土師器や須恵器の杯や皿に壺といったようなものです。墨書土器というものは見られないことから、ここは役所などの施設ではなく一般の集落なのかも知れません。その他に鉄製の鎌や糸を撚るのに使う紡錘車などが見られました。

遺跡の南西の金山山麓には全国的にも有数の須恵器窯跡群があり、これらの遺物は現地で調達されたものなのかも知れません。須恵器(すえき)は青黒く硬く締まった土器で窯を使って焼かれていて古墳時代に朝鮮半島から伝わった焼成技術です。一方の土師器(はじき)は野焼きで焼いていて赤っぽい素焼きの土器で、縄文土器から弥生土器の流れをくむものです。

古代駅路は現在の高速道路と同じところをその大半は通っているといわれます。古代の人も現代人も道を造るときに何処を通すかと考えるのはほとんどかわらないということです。古代駅路の前記のものは7世紀後半から8世紀の後半まで使用され、その寿命は1世紀しかありませんでした。幅が広くて大きな道は地域の重要な拠点などを無視していて、中央政府が威信を示す為に造った道であったことから駅路は地域の人々には実用的ではなく、かえって保守・整備・維持が負担になっていたのでしょう。中央政府の権威が安定すると道はより実用的なものへと変更されていき、大きく広いだけの道は自然と廃絶へと進むのでした。

現在の高速道路はどうなのでしょうか、古代駅路と同じ運命を辿るのでしょうか? 現在の高速道路は実際に必要なところと、そうでないところに造られていることは皆さんもご存じのとおりです。100年後にはどうなっているのか? それはそのときの話にしておきましょう。

追記・・・このホームページを作成中に関東での古代道発見のニュースが飛び込んできました。神奈川県平塚市で古代の東海道跡の可能性が考えられる遺構が検出されたというものです。私は現地説明会には行けませんでしたが、もし情報が揃えば紹介してみたいと考えています。

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