群馬県太田市で発掘された東山道跡
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群馬県太田市の推定東山道駅路跡・・・1 (鹿島浦遺跡)
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東山道駅路の地図 |
平成16年(2004)1月25日に、群馬県太田市東今泉地区にある八ヶ入・大道東・鹿島浦の3遺跡で現地説明会が行われました。3遺跡は北関東自動車道の建設に伴う遺跡の事前調査が行われていたのです。調査の結果、旧石器時代から縄文・古墳時代、更に古代の奈良・平安時代の遺構が数多く発見されています。
発見された遺構の中で特筆されるものが、ここで紹介する「東山道駅路」と推定される側溝跡と、その道路が実際に機能していた時代の集落跡が多数発見されていることです。 現地説明会で撮影してきた写真をもとに、それぞれの遺跡の簡単な説明と同時に推定東山道沿いにある巖穴山古墳についても触れたいと思います。 なお、古代の「道」についての説明はこちらのページを御覧になってください。 |
鹿島浦遺跡(かしまうらいせき)
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古代律令時代の国家が建設した道は、幅が10〜13メートルもあり、しかも現在の高速道路のような直線的な道であったことがわかってきています。古代道の特徴の一つに道の両側に側溝が掘られていたということが挙げられます。 左の写真は鹿島浦遺跡の東山道跡の道の中央から西側方面を撮影したものです。道の中央に蛇行した川跡があり、写真のどこが道なのかよくわかりませんが、両側溝跡があり、その間が道であったわけなのです。 |
鹿島浦遺跡で発掘された東山道の道幅は、両側溝間が13メートルあるそうです。右の写真を見ていただいて、手前の白線で示された溝が南側の側溝で、奥の人が数人立っている付近に北側の側溝がありす。幅が13メートルといいますと、現在の4車線道路と同じくらいの幅です。
ここで発見された古代道は7世紀後半頃に造られ、8世紀中頃迄に使用されたものであるそうです。 | ![]() |
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現在から1300年前に造られたと考えられるこの古代道は、国の命令で造られたもので、「駅制」と呼ばれる制度のもとで使用されたことから「駅路」(えきろ)と一般にいわれているものです。
左の写真は北側側溝が川によって途中から流され無くなっている付近を撮影したものです。この川は平安時代頃に道に流れ込んできて、以後に道は廃絶したと説明にありました。この川は最近まで用水路として流れていたらしく、川の中からは平安時代の土器や近世の五輪塔に、更には現代の瓦やガラス瓶なども発見されているようです。 |
右の写真は鹿島浦遺跡の推定東山道の南側側溝を東から西に向かって撮影したものです。側溝の幅は約1メートルで、深さは数十センチから1メートルほどもあるところがあり、かなりまちまちです。東京都国分寺市で古代の駅路と推定される東山道武蔵路の遺構が発見されていて、そこで発掘された幅12メートルの道の側溝よりも、こちらの東山道の側溝のほうが大きく深いようです。 | ![]() |
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左の写真は鹿島浦遺跡の推定東山道の北側側溝を東から西へ向かって撮影したものです。古代道の側溝は全国各地で確認されていますが、幅や深さは場所によってかなり差違があるようです。側溝を平均的に判断すると幅は1メートルで深さは0.5メートルぐらいと考えられそうです。道の両側に側溝を伴う理由は様々な説があるようですが、現代の道路の側溝が排水を目的としているのに対して、古代道の場合は両側溝の間が道であると区画する目的で造られたと考えるのが妥当のようです。 |
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鹿島浦遺跡の推定東山道の遺構
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律令時代の駅路は国の威信を全国地方に示す役目を持っていたと考えられています。そうでもなければ自動車も無い時代に幅が10メートル以上もある直線の道など必要ないはずです。また、それぞれの国の国府を繋ぐという以外には、駅路は非実用的な道でした。地方の重要地点などを経由することもなかったことから、国家権力が衰えていくと、道の保守整備が大変なことから急速に廃絶と進みます。
鹿島浦遺跡の東山道跡では側溝のみで、路面は検出されていません。川によって流された道は水田や畑の耕作地となり、駅路跡の北と南からは平安時代の竪穴住居跡が多数発見されていて村が形成されていたようです。 |
右の写真は鹿島浦遺跡の西側部で、ここでは中世のものと思われる堀跡が検出されています。堀の規模から考えると付近には館跡か施設があったのかも知れないと説明していました。堀が発掘された場所だけでは判断できるものではありませんが、古代道が廃絶後も、この付近は人の生活の跡を示す遺構が中世まで続いていたようなのです。現在では東西南北、見渡すかぎりの平らな農地ですが、以前は鹿島社が近くにあったそうです。 | ![]() |
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