多摩丘陵・町田市相原の御殿峠古道その5 | ![]() |
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左の写真は殿丸直下の峠道で大きな深い掘割状を呈してきました。
『新編武蔵風土記稿』の多摩郡片倉村の項に、「村内に相州へ通ずる一条の往来あり、南の方上相原村より北の方杉山峠を越て、相州橋本村に達す、道幅二間より三間に至る、又鎌倉古街道と云一条あり、是は鑓水峠をこえて小山村の方へ通ぜり、」とあります。 |
『新編武蔵風土記稿』が編纂された当時は御殿峠は杉山峠と呼ばれていたようです。いつ頃から御殿峠と呼ばれるようになったのかは私にはわかりません。この峠がなぜ御殿峠と呼ばれるようになったのでしょうか。八王子市のある機家が立派な別荘を建てたことから名付けられたとか、また藍原孝遠の館跡や、按察使大納言の御殿があったのでそう呼ばれたとか様々な伝説が残されています。 | ![]() |
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左の写真のこの辺りの雰囲気は何か歴史の重みが感じられる光景です。
御殿峠古道は江戸時代には相州の大山阿夫利神社の参詣路である大山道としても機能していました。また「古川越道」とか「小田原道」などと呼ばれて物資輸送路・産業道としても大いに賑わった道なのです。 |
そしてこの御殿峠古道は、あの有名な甲斐の戦国武将、武田信玄が永禄12年(1569)に北条氏照が籠もる滝山城を攻めた後に小田原城を目指して越えて行った道でもあるのです。更に天正18年(1580)に豊臣秀吉の小田原城攻略のときに八王子城を攻める軍隊がこの峠を越えて行ったとも伝えられています。 | ![]() |
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殿丸の西側から丘陵を乗り越える辺りでは、まるで城の空堀のような深い掘割道になっています。この辺りは明らかに人の手が加えられた地形と思われます。城跡の一部か砦か、そのような施設があったことが想像されます。 | ![]() |
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