鎌倉七口-極楽寺坂周辺・・・・その3

成就院(じょうじゅいん)
極楽寺坂の舗装路上り口付近の墓地前からの石段道を上りきったところに左の写真の成就院の山門があります。このお寺は真言宗大覚寺派で、空海の護摩壇跡に承久元年(1219)鎌倉幕府三代執権の北条泰時が京都より高僧を招き、本尊に不動明王を祀って普明山法立寺成就院と称したと説明版にあります。元弘3年(1333)に新田義貞の鎌倉攻めの時に戦火で寺は焼失し、奥の西ヶ谷に移っていたのを、元禄年中(1688〜1703)に祐尊僧正が現地に復興して現在に至っているそうです。

成就院山門前からこんどは道は下り坂となります。この辺りにはチラホラと紫陽花の花が咲いていました。成就院から現在の極楽寺坂道路面までは約20メートルの高低差があるといいます。現在の極楽寺坂の道路は大正12年(1923)の関東大震災の時に北側の山斜面が大崩落して道が埋まってしまったため、切り下げ工事をしてできた道であるといいます。しかし、本来の極楽寺坂切通しは、この成就院辺りまで上っていたと伝えられてきています。ただ成就院が開かれたたという建久元年には極楽寺坂切通はまだなかったと思われることから成就院は山の中のお寺であったと想像されます。

成就院から石段を現在の極楽寺坂道まで下りたところ

極楽寺坂切通の周辺の山稜部には一般にはあまり知られていませんが、昔から防衛遺構が存在していることが確認されていました。近年に発掘調査が行われ遺構の内容が徐々に具体化してきています。これら極楽寺近辺の防衛遺構は元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡のときの激戦地に存在するもので、その歴史に大きく拘わる貴重なものですからここで触れておきたいと思います。ただこれらの遺構は道なき山稜の尾根にあることから一般の方々は見ることはできません。

一升桝(いっしょうます)
極楽寺の北東部の西ヶ谷と馬場ヶ谷の間の尾根に「一升桝」と呼ばれる桝形遺構が存在します。人工的に桝形に造られた土手に囲まれた方形の区画です。基底部幅5〜8メートル、高さ1.5〜2.8メートルの堂々たる土塁を現在でも山林の中に見ることができるそうです。土塁による囲郭の規模は、南北方向は36.5メートル、東西方向は南側が30メートルで北側が19メートルあるそうです。土塁の南西隅が切れていて入口部と考えられています。近年この土塁に囲まれた平場を調査したところ、出土遺物が13世紀後半まで遡ることが確認されています。桝形遺構は中世の方形館址と関連づけて考えられています。

五合桝(ごんごうます)
成就院の背後の丘陵上に「五合桝」と呼ばれる桝形遺構が知られています。極楽寺切通の鎌倉側を見下ろす重要な地点です。この遺構の平場を近年調査したところ石塔や集中したかわらけが出土しています。また土塁状の高まりと考えられていた一部は塚であった可能性が考えられ、採集した五輪塔地輪には元弘3年7月13日と銘があり、かわらけも13世紀中葉まで遡るものであるそうです。これらの調査から、もともと切通しの警護のために造られた五合桝が、鎌倉幕府が滅亡した後は墓地もしくは供養場と変わって行ったと考えられているようです。

仏法寺跡
五合桝の南の霊山山(りょうぜんやま)から更に南に伸びる尾根の東部に平場が存在し、霊山寺跡あるいは仏法寺跡と伝えられてきていました。近年この平場が調査され、大型の凝灰岩切石を敷く基壇状の遺構、方形の竪穴状遺構、柱穴列、堀立柱建物の柱穴・土坑などが見つかっています。また、卵形をした池跡も発見されています。調査による出土遺物が中世から近世に及ぶものが見られ、極楽寺南尾根一帯は近世まで葬地として用いられていたと考えられています。仏法寺は極楽寺の支院の一つで、霊山山の山頂にあり、忍性や日蓮が雨乞いをした池があったことなどが文献史料に見られます。そして元弘の乱の折りに激しい戦闘が展開された霊山寺は仏法寺を指すと指摘されています。

伝上杉憲方墓
極楽寺坂を下ってきて朱色の橋のすぐ手前左手のアパートの奥に、伝上杉憲方墓といわれる石塔が数基立っています。上杉憲方は関東管領山ノ内上杉氏の開祖であり、紫陽花寺で有名な明月院の開基でもあります。左写真の七層塔が憲方の墓で手前五層塔が憲方の妻の墓といわれているようです。この石塔がある辺りは極楽寺の支院西方寺跡で、極楽寺坂の道の向かい側には憲方逆修塔と伝わる宝篋印塔もあるようですが一般の方は見学することができないようです。

極楽寺坂を下りきると道は二手に分かれます。直進の道が右写真の朱塗りの橋を渡る道で、この橋を桜橋といいます。橋を渡った右手に導地蔵堂があり、左手にには現在の極楽寺山門が見えています。桜橋から左に折れて江ノ電の線路沿いを行く道が極楽寺坂からの続きの道で、この道を進むと稲村ヶ崎付近の浜辺へ向かいます。稲村ヶ崎へ向かうこの道は狭い道にも拘わらす車の通行量が多いので、歩かれている方は車に注意してください。

極楽寺
霊鷲山感応院極楽寺と号する。真言律宗で開山は良観房忍性、開基は北条重時です。もと深沢谷にあった浄土宗系の極楽寺という寺を重時が現在の地である地獄谷へ移設し伽藍が整備されました。重時なきあとは子の長時、業時兄弟が父の遺志を継ぎ、忍性を開山に迎えて完成したのがこの極楽寺です。そしてこの極楽寺のあるところには重時の別業(別荘)のあったところともいわれています。

往時の極楽寺は七堂伽藍に塔頭や支院が四十九院もある大寺院でした。江戸期に作成されたという「極楽寺境内絵図」は中世の繁栄ぶりを描いたものとして知られています。最近の発掘調査などによると中心部などの遺構が絵図と一致していて史料としても信頼できるもののようです。先に紹介した霊山山の仏法寺や請雨池なども絵図に見られます。

極楽寺境内絵図から金堂・講堂・方丈華厳院などの寺の中心部が現在の稲村ヶ崎小学校辺りであったものと思われ、まわりの谷や尾根には塔頭や支院の多くの建物が描かれています。そしてこの絵図から現在の極楽寺境内は仁王門から四王門あたりでしかないことが窺えるのです。

また絵図の西側には薬師堂・療病院・癩宿・薬湯室といったライ病患者の療養施設があり、東側の谷部には施薬悲田院・病宿・福田院といったライ病患者以外の病者や貧民救済施設もあったことがわかります。更に坂下馬病舎などの馬の救剤施設もあったのです。忍性は乞食やライ病患者の救済を行っていたといわれますが、これらの施設の存在がそれを物語ります。

ところで忍性は奈良西大寺の名僧叡尊(えいそん)の高弟でありました。鎌倉での真言律宗の普及活動では日蓮などと対立していたようです。稲村ヶ崎小学校奥のグラウンドの更に奥に忍性の墓と伝える重要文化財の五輪塔があります。高さ3メートルを超えるもので、石塔の中でも優れたものですが、これを見ることができるのは年に一日で、4月8日のみです。

左の写真は極楽寺山門前を撮影したものです。現在では極楽寺境内では写真撮影は禁止されているので、この山門だけの写真しか紹介できないのは残念ではありますが、この極楽寺のように参詣者に対して厳粛を求めているお寺は鎌倉には以外と多いようです。観光客の多い古都鎌倉ならではの寺院関係者のはからいなのでありましょう。みなさん、極楽寺は自分で是非訪れてみて、そして自分の目で境内を拝見して見てください。

月影地蔵堂
極楽寺駅前の朱色の桜橋を渡り道なりに進んで行くと稲村ヶ崎小学校があります。小学校の手前付近から北へ分岐する道がありこの道の谷を馬場ヶ谷と呼び徒歩なら大仏坂へ向かうことができます。小学校から民家の中の道を更に進むと、突然左手に右写真の月影地蔵堂が現れます。小さなお堂ではありますが、お堂前には石仏が並び実に簡素なたたずまいが心を慰めます。お堂内にはお顔の白いお地蔵様が安置されています。阿仏尼の『十六夜日記に』書かれている月影ヶ谷はここから尾根を越えた裏側の谷にあたるようです。

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