鎌倉七口-極楽寺坂周辺・・・・その2

星月の井
極楽寺坂へと上り始めた付近の道の傍らに「星月の井」と称する井戸があります。「星の井」「星月夜の井」などとも呼ばれていて何か物語のロマンが込められているような名前ですね。右の写真がその井戸です。昔はこの付近一帯は樹林に覆われていたそうです。そしてこの井戸の中に昼間も星の影が見えたことから、この名がついたといいます。あるときに水を汲みにきた女性が、謝って包丁を井戸に落としてしまい、包丁は星影を切ってしまったために以後見ることができなくなったと伝えています。

奈良時代の名僧・行基は井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い、お堂を建てて虚空蔵菩薩をまつったという伝説もあるそうです。
井戸の水は清らかで美味だったので、昭和初期まで旅人に飲料水として売られていたそうです。左の写真は井戸前から極楽寺坂へ上る道をふり返り、鎌倉市内方面を撮影したものです。極楽寺坂へ上り始めるこの辺りの雰囲気は鎌倉中でも私(ホームページの作者)の好きなところなのです。

虚空蔵堂と舟守地蔵
「星月の井」のすぐ後ろには石段があり、石段を上ると虚空蔵堂があります。上で説明した虚空蔵菩薩を安置したお堂がそれなのです。虚空蔵菩薩を信仰すると頭脳は明晰になり記憶力は増進するといわれ、限りない知恵をそなえた仏様であるのです。この菩薩様は秘仏で35年に一度しか開帳されなかったそうですが、現在では毎年正月13日に開帳され拝むことができるそうです。右の写真は虚空蔵堂前にある舟守地蔵です。船舶水に関係した事業に従事しておられる人々に功徳を授け下さり、近郷・近在の人々に深く崇敬されてきたお地蔵様だそうです。

さあ、いよいよ極楽寺坂への上りです。私がここを取材撮影したのは、6月も半ば頃で、ところどころに紫陽花の花が咲いていました。右の写真の辺りから道の両側は山が迫っていて道は切通しになっているのです。写真の左手の墓地前から石段が続いていますが、極楽寺坂を訪ねられた方は必ずこの石段を上ってください。古の極楽寺坂はこの石段の上辺りがそうなのです。またこの石段の上には素晴らしい景観が待っているのでした。

日限地蔵
左の写真は極楽寺坂への上り口にある日限六地蔵尊です。説明書によると、道行く人々をお守りくださり、お地蔵様の目の届く範囲で事故が起きても大事に至らないといいます。また邪心を捨て心を清く持ち願い事を期日を極めておすがりすれば、その期日までに功徳がいただける有難いお地蔵様であることから、いつの世から日限地蔵と呼ばれるようになったと伝えています。このお地蔵様は私がこの辺りの写真を撮影している間だけでも数人の方々が、丹念にお参りしていくのが見られました。

成就院へ上る石段から虚空蔵堂方面を振り返る

現在の極楽寺坂は、あっけないほど簡単に通り過ぎてしまう道です。鎌倉時代以来幾度と道の堀り下げが行われてきたのでしょう。現在の切通しは一部がコンクリート壁になっていて、往時の鎌倉七口の面影などは殆ど感じられません。そして鎌倉七口中で唯一ここだけが国指定史跡になっていないのです。坂道は大正12年に関東大震災で大崩落していて、その時に通行していたサーカス団の荷馬車が押しつぶされてしまい、御者や馬もろ共にやられてしまったそうです。

極楽寺坂切通

極楽寺坂は鎌倉七切通の一つで、鎌倉市街域の南西にある坂です。坂の名前は坂の西にある極楽寺というお寺があることからそう呼ばれてきたのだと思います。極楽寺坂の道は極楽寺の旧境内を通り、稲村ヶ崎の西を経由して海岸線に沿って藤沢・平塚方面へ向かっています。極楽寺坂が開通する以前は「稲村路」という道が稲村ヶ崎の海岸付近から霊山山東麓を通っていたようですが、極楽寺坂切通が出来てからはこの道が西から鎌倉への表玄関の役割を果たしていたものと思われ、近世の『鎌倉攬勝考』には「京都へ往返する本道なり。」とあり、この切通しこそが京・鎌倉往還であったと考えられていたようです。

極楽寺坂切通の開削年は不明のようですが、『吾妻鏡』建長4年(1252)の記事に第六代将軍宗尊親王が稲村ヶ崎経由で鎌倉入りしていることから、極楽寺切通の開削はそれ以後と考えられているようです。

この切通しを開削したのは極楽寺の開山忍性であったとも伝えられています。正元元年(1259)に極楽寺が創建されていて、極楽寺の大伽藍建立にあたって、本式の切通し道を造らなければ資材運搬ができず、また参詣者のためにも道が必要であったとする説があるようです。そしてこの頃切通しが完成したと考えると鎌倉七切通中で一番最後にできた切通しということになるようです。

また『鎌倉市史』に「忍性が極楽寺開山住持となった文永4年(1267)以降に極楽寺切通が開削され、それ以来稲村ヶ崎道は使われなくなった。」とあります。

忍性は宗教活動の一環として道路の整備、橋・港の修築などの土木事業にも従事していたことから、極楽寺の切通しを開削したと考えるのは妥当のようです。『新編鎌倉誌』や『新編相模国風土記稿』などにも忍性が切り開いた路とあるようですが、その真意は定かではないようです。

極楽寺坂切通に関する史料の初見は貞和5年・正平4年(1349)頃刊行された『梅松論』の元弘3年(1333)の記事です。
「(前略)其手引退て霊山の頂に陣を取。同十八日より廿二日に到るまで。山内小袋坂極楽寺の切通以下鎌倉中の口々。合戦のときのこえ矢さけび人馬の足音暫も止時なし。」

また『太平記』巻十、建徳2年・応安4年(1371)の記事に次のようにあります。
「去程ニ、極楽寺ノ切通ヘ向タル大館次郎宗氏、本間ニ被討テ、兵共片瀬・腰越マデ、引退ヌト。聞ヘケレバ、新田義貞逞兵二萬餘騎ヲ率シテ、二十一日ノ夜半許ニ、片瀬・腰越ヲ打廻リ、極楽寺切通ヘ打莅給フ。明行月ニ敵ノ陣ヲ見給ヘバ、北ハ切通マデ高ク路嶮キニ、木戸ヲ誘ヘ垣楯ヲ掻クテ、数萬ノ兵陣ヲ雙ベテ並居タリ。」

これら新田義貞鎌倉攻めの記事から極楽寺切通は鎌倉時代後期には存在していて、ここ切通し近辺で鎌倉幕府存続に拘わる運命の攻防戦が繰り広げられたことが窺えます。

鎌倉時代後期の紀行文『とはずがたり』に次のようにあります。
「明くれば、鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りて見れば、僧の振舞都に違はず、なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方を見れば、東山にて京を見るには引き違へて、階などのやうに住まひたる。あな物わびしとやうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。」

正応2年(1289)に作者の二条(久我雅忠女)が鎌倉に入る記事で、前後の記述から文中の「化粧坂」は極楽寺坂切通の誤りではないかと考えられているようです。

上の写真は成就院へと上っていく道で、まるで天国へと上りつめるような坂道です。

長い石段の坂道を上り、ふり返って撮影したものが右の写真です。奥に由比ヶ浜・材木座の砂浜と海、そして鎌倉の市街が見渡せます。極楽寺坂のこの付近は紫陽花の名所でもあり石段道の両側には紫陽花が沢山あるのですが、どうしたことか全く花がありません。6月に訪ねたのは紫陽花の花が目当てでもあったのですが、これは日頃の私の行いが悪いものなのか、ここだけ紫陽花の花が無かったのでした。

鎌倉七口-極楽寺坂周辺   次へ  1. 2. 3. 4.