|
|
1.魚のように 2.こんこんさま(単行本題名:稲荷の家) 3.祈祷師の娘 4.きみはいい子 5.わたしをみつけて 6.みなそこ 7.世界の果てのこどもたち 8.神に守られた島 9.神の島のこどもたち 10.伝言 |
天までのぼれ |
「魚のように」 ★☆ 坊ちゃん文学賞大賞 |
|
|
坊ちゃん文学賞を受賞した「魚のように」は、親から優等生として信頼され、可愛がられていた姉が家を出奔した後、劣る子扱いされてきた弟である主人公もまた家を出て、当て所もなく川沿いを歩き続けるストーリィ。 歩き続ける中、主人公は姉とその親友だった君子との関係を回想していく。 何故に姉は、親友を裏切るような行動をしたのか。親からの信頼という束縛にがんじがらめにされてきた姉は、自暴自棄に走りざるを得なかったのではないか。 だとしても、主人公の孤独感が癒されることもない・・・。 「花盗人」も、「魚のように」と同様、中脇さんが高校生の時に書いた作品とのことです。 姉を愛する一方自分には冷淡な母親との距離感から、同様の想いを抱える友人と共に、家から盗み出した梅の木を持って一晩中彷徨う女子中学生を描いたストーリィ。 2篇に共通するのは、親から疎外されているという孤独感、心の痛みです。と言っても、もはや親が気持ちを改めてくれることを期待する様な年代ではない。それ故でしょうか、冷たい空気が読み手の胸の中に吹き込んでくるような思いがします。その点が印象的。 魚のように/花盗人 |
「こんこんさま」 ★☆ |
|
2013年01月
|
北鎌倉の古い屋敷。屋敷内にはお稲荷さんが祀られている筈なのですが、木が鬱蒼と繁り、おまけに古い池まであって、どこにお稲荷さんがあるのか今ではもう定かではない。 その家の主だったような存在、祖母の石が死んで以来、三河家はばらばら。 長女のはなは家を出て水商売。父親の主計は家の外で愛人と暮らし、事業話に乗せられては失敗して所有不動産を切り売りするばかり。 屋敷には老人ボケの始まった祖父の甲子、母親の都、そして父親が定かではない次女のさちが暮すのみ。 その中、未だ9歳の少女=さちの姿がとても切ない。母親の都からその存在を見たくないと言われ、何の世話もされず自力で何とか生きているという様子なのですが、極めて純真な少女。 そのさちが、わたしの家を幸せにしてくれる?と怪しい易者を家に連れて来たことがきっかけとなり、この家族の様子が少し変わってきます。要は、ばらばらだった家族の再生ストーリィ。 登場人物各人のキャラクターはそれなりに個性的で面白そう。また、はなとさちの姉妹関係にも注目されるのですが、その素材を十分生かし切れないまま終幕してしまったという印象。 勿体なく、また残念。いつかはなとさちに再会できると嬉しいのですが。 |
「祈祷師の娘」 ★★ | |
2012年07月
|
中学生の春永は、父母(といっても兄妹)と姉との4人家族。 でも、高校生の姉は母の実子ですが、春永は父と再婚した実母の連れ子。その実母は、幼い春永をこの家に置いて出て行ってしまい、実母の思い出は春永が世話をしている金魚だけ。もう実母の顔さえ春永は覚えていない。 春永の家は鬼子母神を祀り、母の和子は祖母を継いで2代目の祈祷師。という訳で春永は“祈祷師の娘”という次第。 その春永が毎朝父親と一緒に水行をしているのは、家族と少しでも一体でありたいという願いからなのか。 しかし、姉の和花に祈祷師の兆しが現れてくると、血の繋がりが無く、力の繋がりさえもない自分の孤独感、心許なさを強くするようになります。 サワリ(憑かれてしまうこと)、祓い、憑かれ易い体質故に苦しむの近所の少女と、舞台設定には独創的なものがありますが、そうした外観を取り払えば、本書はあくまでも家族の物語。 家族とは、お互いに家族として大事にし合おうという気持ちがあってこそ成り立つもの、と強く感じさせられるストーリィです。 春永が、守られる存在であると同時に、人を守ろうとする心根をもった優しい少女として描かれているところに胸を打たれます。 そんな春永の視点から描く、瑞々しい家族ストーリィ。 |
●「きみはいい子」● ★★★ 坪田譲治文学賞 |
|
2014年04月
|
すごい!作品です。思わず身も心も震えてしまう程。 本書では、辛い状況に置かれた何人もの子供たちの姿が描かれています。 ある少年は夕方5時になるまで家に帰ってくるなと命じられ、ある少女は家に入ると叩かれ続け、ある少女は母親の恐ろしさに震え上がっていた。 何より切ない思いを味わうのは、母親が自分に対して厳しく当たるのは自分がとても悪い子だから、と彼らが思い込んでいるところにあります。何という切なさでしょうか。 とくに冒頭2篇は余りに切ない。 2年続きで担任クラスを学級崩壊させてしまった新人教師は、ふといつも給食をお代わりしているというのにやせ細っている生徒=神田さんに目を引かれます。満足にクラスを運営できない教師が、いったい彼のために何ができるというのか。 外では笑顔を顔に貼り付かせ、家に帰るとその笑顔を取り去り自分の娘を叩かずにはいられないあやねちゃんママ。可哀想なのは勿論あやねちゃんですが、同時に自分を止めることのできないあやねちゃんママの胸の底からの悲鳴を聞くようです。 それでも僅かに救いはある、小さな灯に過ぎないけれど希望の光はあるのです。やがてその灯が大きくなり、子供たちが救われる可能性があるのだということを、信じたい気持ちになります。 お薦め! サンタさんの来ない家/べっぴんさん/うそつき/こんにちは、さようなら/うばすて山 |
5. | |
「わたしをみつけて」 ★★☆ |
|
2015年06月
|
主人公は32歳の准看護師、山本弥生。 生まれてすぐ産院前に捨てられ、本名も誕生日も、もちろん親が誰であるかも一切不明のまま。弥生=3月は、生まれた月ではなく捨てられた月、という弥生の言葉は余りに切ない。。 高卒後、手に職をもつため准看護婦となり、産科のある病院にはとても勤められない為にいろいろ問題はあるけれども、内科・外科・整形外科だけの現在の病院でずっと働き続けている。 医師たちは患者や看護師たちを同じ人間として扱わず、傲慢にして横柄。それでもこの仕事を失ってしまえば、住む処さえも失くしてしまうと、弥生は“いい子(人に敵視されない)”でいなければならないとまるで強迫観念にかられているようです。 そんな病院に一石を投じたのは新任の師長=藤堂優子の存在。。 本書は、感動作「きみはいい子」のテーマに医療現場問題を加えたという格好の作品です。 同じ児童養護施設に育ったという境遇であっても弥生の心情は、佐川光晴「おれのおばさん」とは大違い。フィクションであるとは分かっていても何故?と思いたくなる程。 それが終盤、救われたような気持になるのは、藤堂師長、そして弥生に親身になってくれた入院患者の菊地さんという老人の人柄に触れ、弥生が自分の気持ちの有り様を新たにすることによってこれまでと同じ風景が全く逆に見えるようになったからです。 自分を居場所を必死で守ろうとする弥生の切ない気持ち、医療現場の問題、そして弥生が初めて見出した真実の姿。 「きみはいい子」に勝ると言えずとも、本書も読み手の胸を打つ感動的なストーリィ。お薦めです。 |
6. | |
「みなそこ」 ★★ |
|
2017年05月
|
10歳の娘を連れて東京から郷里の高知県、沈下橋の向こう側にある集落“ひかげ”へ里帰りした30代女性のひと夏の物語。 同い年で幼馴染でもあるひかるの長男、中学生のりょうとの互いの間に蠢く危うい想いが、ストーリィの半分程を費やして描かれますから、これまでの中脇作品からすると困惑する部分もありますが、私は余りそれに捉われずに読み通しました。 それよりむしろ、本作品については“ひかげ”という集落が持つ不思議な雰囲気に惹かれます。 僅か10軒ほどの集落ですから、住民の間が近く、そしてそれは既に死んだ人たちとも近い。まるで現世とあの世の中間にあるような土地柄が本ストーリィ独特の世界を創り上げているようです。 主人公のさわ(佐和子)は、子供の頃その才能を見い出されてピアニストになることを嘱望され、東京の音大に進んみましたがそこで自分の才能の限界を思い知らされ、小学校教師の知彦と結婚した後はピアノ教室の講師をしているという状況。その挫折感をずっと引きずっているらしい女性です。 郷里に戻ったさわは、子供時代を度々回帰しながら現在の自分の内面を見つめ続けている。自分の本心は誰にも分からないという思い。その虚ろな部分にりょうという存在が入り込んできた、というところでしょうか。 主人公と対照的に、まだ幼い娘のみやびが味わう“ひかげ”は、田舎の楽しさを満喫できる明るい場所です。みやびの存在があって、なおのこと主人公の揺れる思いが際立って感じられます。 ※なお、これは私だけが抱いた思いかもしれませんが、りょうに対する主人公の想い、コレットの名作「青い麦」に登場する年上の夫人が抱いた想いもこのようなものだったのかもしれないと、ふと思いました。 |
「世界の果てのこどもたち」 ★★☆ |
|
2018年06月
|
題名から受ける予想と異なり、本書は日中戦争を題材にした長編ストーリィ。 戦後生まれの女性作家による先の戦争を描いた作品としては、私にとって須賀しのぶ「紺碧の果てを見よ」に続く2作目。 これまで戦争小説というと、戦争を実体験していないと書くのは難しいだろうという先入観を持っていましたが、実際に読んでみると実体験に縛られていないおかげでむしろ、広く公平かつ俯瞰的な視点から描かれていて、清新な印象を受けます。 主人公は満州の地で出会った3人の少女です。 珠子は、高知県の貧しい村から家族が開拓団に加わり満州に。 美子(ミジャ)は、日本人に土地を奪われ貧しくなった故郷から、両親と共に満州にやってきた朝鮮人の少女。 そして茉莉は、横浜で裕福に暮す少女ですが、満州見学にやってきて珠子と美子の2人に出会います。 一緒に遊びに出た3人は豪雨に見舞われ、避難した建物の中でおむすび一つを分け合って食べるという経験をしたことにより、深く繋がり合うことになります。 しかし、敗戦の引き揚げ途中で珠子は残留孤児となり、中国人の養父母の元で生きる内に本名も日本語も忘れていきます。美子は家族と共に日本に渡りますが、謂れのない朝鮮人差別に直面します。そして茉莉は空襲で家族を失い、戦争孤児として施設で育つことになります。 ストーリィは、満州、東京大空襲、敗戦、戦後の苦難、文化大革命、中国残留日本孤児と、時代を忠実になぞっていきます。 その視点は日本(人)だけに留まらず、中国(人)・朝鮮(人)にも広く公平に目を向けている点が本書の優れたところ。珠子・美子・茉莉の3人はそれを象徴する存在と言って間違いありません。 多くの“無駄死”を引き起こす戦争など2度と起こしてはならない、○○人とかは関係ない、一人の人間としてどう生きるか、同じ人間同士として繋がり合うことが如何に大切かというメッセージが本作品の行間から聞こえてくる気がします。 そして、相手を大切に思う気持ちの重さに、胸強く打たれる思いです。 純真な子供たちの未来に幸あれ。 是非お薦めしたい佳作です。 |
「神に守られた島」 ★★☆ | |
|
太平洋戦争末期、奄美諸島の一つである小さな島=沖永良部島を舞台に、その島民たちの視点から見た戦争の姿を描いた、反戦小説。 敗戦色濃厚の時期といってもここ沖永良部島の状況は、戦争の影響を受けているとはいえ、東京等の本土に較べるとその雰囲気はのどかです。 なにしろ電気は通っておらず、水道もなく、ラジオや新聞もないという暮らしなのですから。 一方、島の神さまを大事にしていたりと、島民たちは素朴にしてとても敬虔です。 そんな島民たちが日常交わすのは島言葉で、ヤマトゥ(本土)言葉とはかなり違うらしい(お互いに通じないのですから)。 主人公は「マチジョー」と呼ばれる少年で、近所の幼なじみである10歳の少女「カミ」への好意を隠しもせず、あっけらかんとして、元気いっぱい。 時折グラマン機の機銃掃射があったりするものの、小さな島だけに米軍が直接攻撃してくることもない。それでも兵隊に駆り出された兄たちが戦死したりと、無傷では決してありません。 本来、この小さな島での暮らしを守って慎ましく生きていれば、彼らは十分幸せだった筈。 それなのに関係ないところで起こされた戦争に巻き込まれ、悲しみを味わいながらも兵隊さんたちを信じるその様子は、痛々しく思えてならないのと同時に、申し訳ないという思いを禁じ得ません。 その島民たちが最後口にした、「兵隊たちにだまされた」という言葉はあまりに衝撃的。 一口に“反戦小説”といってもその内容は様々ですが、本作は天国の楽園を思わせるような穏やかで平和的な島を舞台にしているだけに、その対比の鮮やかさがとても清新。こんな人を悲しませるようなことをしてはいけないと、心に刻みつけられる思いがします。 お薦め。 第一部/第二部/第三部 |
「神の島のこどもたち」 ★★☆ | |
2020年08月
|
太平洋戦争末期の沖永良部島を舞台に、島の人々の様子を描いた「神に守られた島」の続編。 今回の舞台は、敗戦から7年後、米国統治下に置かれた沖永良部島の人々、とくに子供たちの姿を描くストーリィ。 多くの父親や兄たち、働き手を失った島民たちの生活は貧しい。ヤマトゥ(本土)では水道が引かれたというが、島では未だ水源地から水を毎日汲んで家まで運ぶ暮らし。 外国となったヤマトゥとの交易は制限されて収入は少なく、衣服は、米軍が下げ渡した厚いHBT生地をほどいて作るしかない。 子供たちが大学進学を望んでも、沖縄の琉球大学へ進むか、密航という危険を冒してヤマトゥの大学に入るしかない。 そんな中で、前作にも登場した少女=カミ(高2)と男友達のユキ、年上のヤンバルや美奈子、神戸に家族で移り住んだマチジョーらの今後に向けた想いが語られます。 衝撃を受けずにいられなかったのは、沖永良部島と与論島を除いた奄美群島の本土復帰の話が伝わってから。2島も含んだ本土復帰運動がカミたち高校生まで巻き込んで盛り上がっていきます。 しかし、その様相はまるで自分たちの出自を見失ったかのようです。 決して島民たちが悪いのではない、そういう状況に島民たちを追い込んだのは誰か。でも、そんな時だからこそ自分をしっかり保たなければならない、何が正しいのか、自分自身でしっかり考えなくてはいけない。 島民たちの行動への哀しさ、それに負けまいとしっかり勉強したいと思うカミらの心境に胸打たれます。 カミやユキ、マチジョー、美奈子ら、島の子供たち皆に心からのエールを送りたくなる一冊。お薦めです。 ※方言が文中にかなり記載されており、島には島独特の文化が生きていることを痛感させられます。その点も本書の優れた処。 |
「伝 言」 ★★☆ | |
|
敗戦間近という時期の満州国、そこで暮らす日本人一家の姿と、引き揚げ時の過酷な体験を描いた、戦争小説。 ア山ひろみは満州国生まれ、国都新京(長春)に家族で暮らす、新京敷島高等女学校の3年生。 関東軍の指示にしたがい、お国のため、兵隊さんのためと真面目に勤労奉仕に取り組んでいた。 しかし、思いもよらぬ敗戦。そうと知った時、関東軍は満州開拓民たちを見捨ててとっくに撤退済、取り残された日本人たちの引き揚げ(逃走)は悲惨を極める。 そこに至ってひろみは初めて、日本人が“五続協和”等々唱えつつ、他国を侵略し、中国人を如何に蹂躙してきたか、という事実に気づきます。 そうした満州国に暮らす日本人の中で、ひろみの父親も母親もできるだけ中国人に公平に対するようにしていた。 ひろみたちと、李太太(リータイタイ、李の奥さん)と、その夫で建設業を営む李建明らとの親しい交流には、敵対する中でも人と人とは繋がることができるのだと、救われる思いがします。 アジア太平洋戦争中、軍部は一般の日本人を欺き続け、戦場に棄て、多くの日本人を犠牲にし続けました。 「終戦」という美辞に騙されてはいけないと思います、事実は全面降伏であり、「敗戦」です。 これまで戦争小説の類は数多く読んできましたので、途中、正直に言ってうんざりする思いもありました。 でも、いくらうんざりしようが何しようが、繰り返し伝えていかなくてはならない重要なことである、と思い直しました。 言葉にしないと伝わらないという、本作のメッセージが強く心に届きました。 換言すると、言い続けなければ、伝え続けなければ、それは忘れられてしまう、いつか無いことになってしまう、のです。 そうしたメッセージが籠められた作品の一つ。お薦めです。 ※本作は小説ですけれど、ア山ひろみさん(語り部として活動)と、その大伯父として名前が登場するア山比佐衛(ブラジル移民)は、実在の人物。 ※宇佐美まこと「羊は安らかに草を食み」も満州引き揚げを題材にしたミステリ。読み応えあります。 |