土浦城の建物遺構    『土浦城』および『土浦城下の遺構巡り』もご覧下さい

概説 明治2(1869)年版籍奉還で土浦藩(土屋挙直藩主)は消滅し土浦城は廃城となった。明治6(1873)年明治新政府は太政官布告で、全国に亘り幕政時代の城櫓等の湮滅をはかり破壊を命じた。土浦城も大手門・搦手門を初め、南門・西門・北門や南門や太鼓櫓入口の桝形、北門・西門の馬出を取り払った。ただ当時の新治県では一部払下げの手段をとったようで、現に西門や外丸の門(赤門)が移築され残っている。[『土浦城とその城主たち』より]
 土浦城址である亀城公園周辺には県指定文化財である太鼓櫓門はじめいくつかの城門・櫓遺構が残っています。それ以外にも個人宅で大切に使用・保守・保存されてきたいくつかの城門もありました。文書が残っていない・形態が変わってしまったなどの理由で文化財指定はされないのかもしれませんが、こういう歴史的な構造物が人々に知られる間もなく失われていって欲しくはないと願っています。これら貴重な土浦城関連建築物遺構をここにまとめて紹介してみます。ただし、所在地については詳しい情報公開を希望されない方もいらっしゃいますので、過去に書かれている範囲の内容にしました。
参考書『土浦城とその城主たち』(1995) 『土浦の歴史散歩』(1991) 『土浦町内誌』(1989) 『日本史小百科城郭』

西門

 新治郡新治村上坂田の民家に移築されて現存している(2004/01/26)。

 御当主によれば、移築したときに元の大きさよりも少し幅を狭めたうえで長屋門に造りかえたということだ。したがって、内側から見たところ元の城門の形式が四足門、高麗門、薬医門どれだったのかよく分からなかった。乳金物(おっぱい)などの金属部のいくつかは太平洋戦争中に供出させられて失われている。門脇の倉庫には駕篭も残っている。元は茅葺きだったが、近年の保守の際に瓦葺きに変えたとのことだ。この門の存在は永山正氏の『土浦城とその城主たち』に書かれている。

外丸赤門

 つくば市妻木の民家に移築されて現存している(2004/01/26)。

 四足門と思われる。御当主によれば乳金物のいくつかは無くなってしまったとのことだ。八双の棘状金具は郁文館のものとそっくりだった。『土浦城とその城主たち』に写真が載っている。

高麗門

 土浦市木田余の民家に移築されて現存している(2004/01/26)。

 小振りの高麗門だ。上の2つの城門については『土浦城とその城主たち』に書かれているが、この門のことは書かれていない。奥様にお話をうかがったが、土屋様からお下げ渡しになったと伝わっているとのこと。土浦城のどこの門だかは分からないらしい。何年か前に母屋の工事中に誤って引き倒してしまったため、旧状とは異なってしまったのは残念。元は正面左手脇にくぐり戸もあったし、瓦には土屋家の家紋も入っていたそうだ。また、3年ほど前まで庭にあった書院には土屋様の奥方が度々お越しになっていたという話も伝わっているそうです。常陽藝文『水に浮かぶ城』の号で紹介されている。

残念ながら現物はありません 旧城内二ノ丸米蔵(現存しません)

 土浦市菅谷町鶴沼付近に移築され材木倉庫として使われていたが、現在は解体され土浦市が部材を管理している。鬼瓦には「三ツ石紋」がはっきりと残っていたという。

 失われたことは残念ですが、部材を移築して再利用するという伝統のおかげで、建物としての使命を全うしたのだろうと思うことにします。

残念ながら現物はありません 本丸館(現存しません)

 本丸内にあったが現存しない。

 版籍奉還後置かれた土浦藩庁舎として用いられたため破壊を免れ、つづいて土浦県庁舎、新治県庁舎、茨城県土浦支庁舎、新治郡役所庁舎として引き続き使用された。明治17(1884)年の失火で消失するまで残っていた。

東櫓(復元)

 本丸東土塁上。

 元和6・7(1620〜21)年2代将軍秀忠日光東照宮参拝の帰途土浦城に立ち寄るので、城の威容を整えるため西櫓とともに建築された。明治17年の火事で類焼消失したが、平成10(1998)年に復元され内部は博物館の分館として公開されている。

西櫓

 本丸西土塁上。

 明治17年の火事では幸い類焼を免れたが、昭和24年のキティ台風で破損した。再建の予定で解体しそのままになっていたが、平成2(1990)年に復元された。

太鼓櫓

 本丸と二の丸の間の門。

 明暦2(1656)年建造。土浦城櫓門は、本丸、二の丸の遺跡とともに茨城県の文化財に指定されている。火災や戦災などで各地の城郭建築が失われた今日において、とくに櫓門は江戸時代前期の建物としては関東地方唯一のもので土浦城の象徴でもある。もともと本丸の楼門であったものを、明暦2(1656)年、五代藩主朽木稙綱が櫓門に改築したもので、2階に大太鼓を置き時刻を知らせたことから、別名、太鼓櫓ともいわれる。この太鼓の制作年代は不明だが、現在土浦市立博物館に展示されている。

霞門

 本丸東側にある、本丸の裏門。

 貞享元(1684)年松平信興により建構築された。外桝形を伴う。

高麗門

 現在は二の丸と外丸の間の門。

 文久2(1862)年建造。この門はもと東崎方面から搦手門に通ずる要所に建てられていた前川門。一時土浦町役場の門に移され、さらに大正9(1920)年等覚寺(大手町)の山門として移築され、最近(10年ほど前か)現在地に移築された。

藩学「郁文館」正門

 最初は城内の二の丸にあったが、天保10(1839)年現在地へ新築移転した。

 土屋家七代藩主土屋英直が寛政11(1799)年、藩学として二の丸内に創設。文武館ともいわれた。「郁文」の名称は英直が論語の中の「郁々として文なる哉」からとって名付けた。その後、十代藩主寅直は天保10(1839)年、藩政改革の一環として当時財政難にもかかわらず城内から城外の現在地へ移した。天保10年といえば水戸藩の弘道館より2年ほど古い。学問と武術を兼ね備える藩士の育成のため、藩士の子弟が8歳になると入学しなければならなかった。有名な藤森弘庵が文館で教鞭をとり、武館では大久保要が兵学を、島田虎之助が剣術を、砲術は関家という具合に一流の教授陣を揃えたので、郁文館の名は天下にとどろいた。明治4年廃藩置県とともに廃館となり、英学校化成館・新治師範学校・茨城師範土浦分校・県立第二中学校・新治第二高等小学校・土浦高等小学校・土浦尋常高等小学校仮校舎として使用され、昭和10年取り壊されるまで残っていた。現在は土浦第一中学校地東隅に正門のみ残る。