土浦城下の遺構めぐり 『土浦城』および『土浦城の建物遺構』のページもご覧下さい
 土浦城の遺構は亀城公園だけではありません。土浦の街は明治維新以降市街地となって久しく残存の程度はけっしてよくはありませんが、それでも丹念に探せば土塁も残っているし、水城だった名残で水堀や水路を埋めて暗渠や道路にしている場所も多く、そんな所を寄り道しながら歩けば水都土浦の繁栄が偲ばれます。

土浦城 水堀・土塁図
明治4年の土浦城郭図(複写)を参考にして作製 (byひづめ@美浦村お散歩団)
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[1]太鼓櫓の別名をもつ本丸櫓門
[2]西櫓
[3]信田氏の供養塔といわれる宝篋印塔
[4]城主土屋家の氏神土屋神社
[5]霞門と外枡形
[6]二の丸・外丸間の堀・土塁
[7]二の丸門と土塁・堀跡
[8]厩跡
[9]馬場跡
[10]改変された二の丸土塁
[11]亀城のシイ
[12]三の丸橋
[13]外記(げき)門の内枡形跡
[14]大手門の内枡形跡
[15]搦手門跡
[16]桜橋跡と土浦町道路元標
[17]本陣大塚家跡
[18]もうひとつの本陣山口家跡
[19]多計(たけ)郭の前川口門跡
[20]東崎の囚獄跡
[21]不開門(あかずのもん)といわれる田町門跡
[22]築地川跡
[23]勝軍木郭中央の土塁跡発見か?
[24]複雑極まる北門馬出跡
[25]浄真寺の土塁
[26]囚獄および絞罪處跡
[27]神龍寺の土塁
[28]丸馬出のあった西門跡
[29]藩校郁文館正門の裏側
[30]角馬出のあった南門跡
[31]東光寺の土塁
[32]一里塚の井戸
[33]現在の銭亀橋

[1]太鼓櫓の別名をもつ本丸櫓門

  土浦城櫓門は、本丸、二の丸の遺跡とともに茨城県の文化財に指定されている。火災や戦災などで各地の城郭建築が失われた今日において、とくに櫓門は江戸時代前期の建物としては関東地方唯一のもので土浦城の象徴でもある。もともと本丸の楼門であったものを、明暦2(1656)年、五代藩主朽木稙綱が櫓門に改築したもので、2階に大太鼓を置き時刻を知らせたことから、別名、太鼓櫓ともいわれる。この太鼓の制作年代は不明だが、現在土浦市立博物館に展示されている。
[2]西櫓

  土浦城本丸の土塁上の東西には、江戸時代初期四代藩主西尾忠照が元和6(1620)〜7年にかけて築いたおのおの二層の物見櫓があった。残念ながら東櫓は明治17(1884)年に本丸館とともに火災で消失、西櫓も昭和24年のキティ台風で破損し取り壊された。その後、西櫓が平成2年、東櫓が平成10(1998)年に復元された。
[3]信田氏の供養塔といわれる宝篋印塔

  この宝篋印塔は昭和2(1927)年土浦城の内堀の泥を浚ったときに見つかった。菅谷勝貞が小田氏治の命を受けて謀殺した木田余城主信田範宗の亡霊に悩まされ、その供養のため土浦城の城塁上に建てたもの、かもしれない。
[4]城主土屋家の氏神土屋神社

  土浦城は旧藩主土屋家の個人所有地であったが、明治31(1891)年、旧藩主土屋挙直の子正直から、時の土浦町長桧山信可に対し、城址を公園とすることで寄付の申し出があり、公園化の資金として金壱万円も添えられた。当時川口町にあった土屋神社を城内に移すことが条件であった。
  しかし、都市公園として本格的に施工したのは昭和に入ってからで昭和9年に完工した。この公園化の過程で土塁や堀は大きく変わって現況となった。
[5]霞門と外枡形

   本丸裏門で、九代藩主松平信興によって建てられた。
[6]二の丸・外丸間の堀・土塁

  公衆便所の南側に堀の北側半分が残る。南側は埋められている。ここで、往時から石橋の下を通って本丸堀と二の丸堀の水が繋がっていた。
[7]二の丸門と土塁・堀跡

  この門はもとは武家屋敷であった多計(たけ、多斗とも書く)郭と町屋を仕切る「前川口門(*1)」であったといわれ、江戸時代末期の建築で高麗門(*2)という形式である。明治以降、土浦戸長役場、田宿町等覚寺山門として移築されたが、昭和56(1981)年に現在地へ移された。土浦簡易裁判所(もとの外丸御殿の場所)の西側。

(*1)前川口門は[19]をご覧下さい。
(*2)高麗門 二本の主柱上に切妻屋根をあげ、主柱のうしろにそれぞれ控柱を立て、主柱と控柱の上に屋根をのせたもので、潜り戸を門扉につける場合が多い。
[8]厩跡

  二の丸南隅、現在は土浦小学校プールがある場所に馬を飼っていた。写真は馬場の方向から見たところ。
[9]馬場跡

  現在は小さな遊園地になっている、市立博物館とプールの間の縦長の空間。この中をさらに土塁で仕切って細長い馬場にしていたらしい。実戦的な調教ができそうな感じではないですね。いわゆるお座敷馬術的な馬場なんでしょう。
[10]改変された二の丸土塁

  亀城公園には比較的よく土塁・堀が残っているかに見えますが、これらも公園整備の時点でかなりの改変を受けています。二の丸南側のこの土塁も屏風折のようなジグザグ構造だったものが公園整備で真っ直ぐにされてしまってます。
[11]亀城のシイ

  二の丸土塁上にあり、樹齢500年といわれる。県文化財。ひょっとすると、若泉三郎時代の築城の記念樹かも、という想像は楽しい(土浦城のページもご覧下さい)。
[12]三の丸橋

  神龍寺と土浦消防署の間の細道の入口向かい側に石碑が建つ。三の丸はここから国道354号線付近まで。
[13]外記(げき)門の内枡形跡

  西郭北門。左手土浦小学校側が西郭と言われる武家屋敷。大手門はもとはこの門だった可能性もあるらしい。
[14]大手門の内枡形跡

  約22m四方の二重の土塁と堀をめぐらした枡形の奥に南面した二層の城門があった。土浦幼稚園の東側。
[15]搦手門跡

  一般の城郭とちがって、大手門と搦手門が、本丸東方にあるのは築城術の上から珍しいとされている。有事の時に霞ヶ浦への脱出口としたためだといわれる。搦手門の枡形から搦手門橋を北側へ渡ると多計郭(現在の関東つくば銀行付近)へ出る。
[16]桜橋跡と土浦町道路元標

  現在の亀城通りはもと桜川であった。水戸街道がこの桜川と交差するところに架けられたのが桜橋(正確には桜川橋)だ。桜橋は、銭亀橋・簀子橋とともに土浦三橋と呼ばれ、慶長18(1613)年に幕府の直営工事によって完成した。現在は河道は暗渠になっている。また、桜橋は土浦の道路の基点であり、現在、保立食堂脇に石の道路元標が残っている。 桜橋交差点の北東角、現在のUFJ銀行南面に高札場があった。
[17]本陣大塚家跡

  土浦宿には本陣が二ヶ所あり、どちらも宿泊本陣で脇本陣という呼び方はしていない。一つは本陣大塚家で現在の土浦商工会議所付近である。写真の道は旧水戸街道。この200m先に桜橋跡がある。
[18]もうひとつの本陣山口家跡

  もう一つは本陣山口家で現在の歯科イバラキクリニック付近。
[19]多計(たけ)郭の前川口門跡

  現在、二の丸門へ移築されている高麗門([7]で紹介)はもとはここにあったといわれる。関東つくば銀行の南東100m付近。なお、この関東つくば銀行前から旧水戸街道(現国道354号線)を越えて東崎町交差点を通り常磐線方向へ向かう道は旧水戸街道と交差する唯一の道であることから、水戸街道が整備されるより以前からあったものと考えられるらしい。
[20]東崎の囚獄跡

  霞ヶ浦劇場があった場所は犯罪の決まった一般の囚人を収容した囚獄跡地(未決囚は外西町の代官檻に収容された)。逃亡を防ぐために巡らされた堀跡が今も劇場周囲に水路として残っている。一般的にこういう場所は人寄場となっている場合が多い。だがこのなつかしい雰囲気の漂う霞ヶ浦劇場もすでに閉館(2004/01/25に行ったときには更地になってしまっていた)。武士の犯罪者を入れる囚獄は揚屋(あがりや)といい、現在の土浦警察署の場所にあった([26]参照)。
[21]不開門(あかずのもん)といわれる田町門跡

  勝軍木(ぬるで)郭の東門。旧水戸街道から勝軍木郭へ向かう道が田町口で突き当たたところに俗に不開門(あかずのもん)といわれる田町門があった。現在の妙顕寺付近。
[22]築地川跡

  築地川は勝軍木郭北側の堀で、現在は暗渠となって築地川遊歩道として使われている。写真の場所はかつての築地橋の上で、築地川の上流を見ている。
[23]勝軍木郭中央の土塁跡発見か?

  古絵図の印象から場所的にこの付近に小さな土塁があったようなので、ここを通りかかったときは土塁跡かも!と思ったのだが、ちょっと無理があるなぁ。まぁ、お愛嬌ということで記念写真。
[24]複雑極まる北門馬出跡

  土浦城下の北の出口で、旧土浦町と旧真鍋町の境。門の前にはS字型の特徴的な馬出が作られていた。
[25]浄真寺の土塁

  土浦警察署南半分と土浦消防署北半分付近はかつての絞罪場跡。土浦警察署北半分は囚獄跡。土浦警察署から北東へわずかに歩くと右手に浄真寺西側の土塁がある。土塁の外側は公園になっているが堀跡だったことが感じられる。土塁は長さ100m幅6mほどのなかなか立派なもので現存する土浦城遺構の中では最大・最良のものだろう。北の端はやや高く盛り上げてあり、櫓台的な物が置かれていたのかもしれない。土塁はここからさらに延々と北門まで続いていたのが、今ではまったく無くなっている。『日本城郭体系4』土浦城の口絵写真には浄真寺北側部分の土塁が樹木列として写っている。その他、浄真寺土塁の東方延長線上(国道125号線真鍋橋バス停東側)にある段差は土塁と堀の地形が残されているのではと推測する。
[26]囚獄および絞罪處跡

  勝軍木郭の西端に囚獄があり現在は土浦警察署になっている(写真左手)。一般の罪人を収容した東崎の囚獄([20]参照)に対して、ここは揚屋といわれ侍・僧・神官などの罪人を入れる座敷牢だった。また、多計郭西側には絞首刑に相当する罪人を処刑した絞罪處があった。場所は現在の土浦警察署南半分と道を挟んで土浦消防署(写真右手)北半分付近から亀城公園北側の常陽銀行付近まで。
[27]神龍寺の土塁

  土浦警察署西側の交差点の場所はかつて桜川本流が流れ込み、また四方からの水堀も合流する大きな水の滞留部を形成していた。その中央に中洲のような土塁があったことは複数の古絵図から明らかだが、おそらく水の流れをコントロールするための施設だと思われる。その土塁の南端がかろうじて神龍寺境内に残り、シイの古木が立っている。もう一本の土塁はそのすぐ近くから南へ向かって70mほどが墓地の中に残っている。
[28]丸馬出のあった西門跡

  田中口のかためで、北門ほどではないが小さな馬出があり、その手前に西門があった。この門は、新治村上坂田小林氏が払い下げ、自宅の正門として現在も一部が残されている[2004年1月現在]。写真奥の交差点が馬出部分で土塁はその向こう側にあった。
[29]藩校郁文館正門の裏側

  土屋家七代藩主土屋英直が寛政11(1799)年、藩学として二の丸内に創設。文武館ともいわれた。「郁文」の名称は英直が論語の中の「郁々として文なる哉」からとって名付けた。その後、十代藩主寅直は天保10(1839)年、藩政改革の一環として当時財政難にもかかわらず城内から城外の現在地へ移した。天保10年といえば水戸藩の弘道館より2年ほど古い。学問と武術を兼ね備える藩士の育成のため、藩士の子弟が8歳になると入学しなければならなかった。有名な藤森弘庵が文館で教鞭をとり、武館では大久保要が兵学を、島田虎之助が剣術を、砲術は関家という具合に一流の教授陣を揃えたので、郁文館の名は天下にとどろいた。現在は土浦第一中学校地東隅に正門のみ残る。
[30]角馬出のあった南門跡

  水戸街道の城下町土浦の南の出口。現在の大手町と大町の境のところにあった。門を出て土浦三橋の一つ簀子橋を渡ると角馬出があった。現在は馬出東側に相当するところにHOTSPARがある。
[31]東光寺の土塁

  南門の左右には、上沼(文京町南側一帯)と下沼(桜町三丁目一帯)をつなぐ堀に沿って、土塁が構築されていた。現在は、ほとんど崩されて東光寺境内南西隅にわずかに残る。
[32]一里塚の井戸

  大町に残るこの井戸は、日本橋から18番目の一里塚のかたわらにあった。
[33]現在の銭亀橋

  水戸街道が土浦城下に入る最初の固めで、桜川にかかっている。初めて架橋されたのは慶長18(1613)年。

[参考文献]
[1]土浦市史別巻土浦歴史地図 1974
[2]土浦の歴史散歩 土浦市教育委員会 1991
[3]土浦町内誌 永山正 土浦市教育委員会 1989
[4]土浦城とその城主たち 永山正 筑波書林 1995
[5]フィールド博物館・土浦のしおり 土浦市産業部商工観光課
[6]日本史小百科城郭 西ヶ谷恭弘 東京堂出版 1988

[情報]
・『美浦村お散歩団』では本ページをもとに、これまで「土浦城下町ミニオフ会」(2003年5月18日)、「土浦城オフ&新年会」(2004年1月25日)と土浦城下町を歩く2回のオフ会を開催し、多くの皆様と楽しい散策をしました。
・最近発行された『発掘された土浦城』(2004年10月2日〜11月28日、土浦市上高津貝塚ふるさと歴史の広場で開催された企画展図録)には、「土浦城を歩いてみよう」というたいへん詳しい解説が掲載されています。興味ある方はこの図録を購入されることをぜひお勧めします。[2004/10/24]
・上記の図録『発掘された土浦城』(上高津貝塚ふるさと歴史の広場、2004.10)の他、『第28回子ども郷土研究集録』(土浦市教育委員会、2005.1)、『土浦城の構造ー縄張り復元の基礎的検討を中心にー』(高田徹、土浦市立博物館紀要第15号、2005.3)等に『美浦村お散歩団』が参考文献あるいは註として引用されています。