るびりん書林 別館

「ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観」
ダニエル・L・エヴェレット(著)屋代通子(訳)(みすず書房 2012年3月)

→目次など

■人類の未来図:直接体験の原則(IEP)■

アマゾンに住み、数百年間に渡って伝道師と接触しながらキリスト教を受け入れることなく、ついに伝道師を無神論者にしてしまった、愉快な人々の話です。
残念なことに400人ほどの集団であり、消滅しかけていますが、ピダハンの人々の生き方に人類の未来図があると私は考えます。

最初のほうで、著者がアマゾンに赴任したころ、家族がマラリアにかかったときの苦労話が延々と書かれていたので、挫折しかけました。

しかし、この本は、とにかく驚くべき価値観を持って、幸せに暮らすことのできている人々について知るために、極めて貴重な本であると思います。

■江戸時代の日本との共通性■

(ここは、あまり重要でないので時間のないかたは読み飛ばしてください。)
初めに気付いたのは、先日読んだ『逝きし世の面影』で外国人たちが記している当時の日本の庶民と共通する点が多いということでした。
・こどもを叱らない
・大人とこどもの区別が少ない(こどもを大人扱いする、大人も遊ぶ)
・人々が笑顔である
・人々が健康そうである
・物をできるだけ所有しない
・身内意識から来る扶助精神と、運命を受け入れることから来る一種の冷淡さ
・精霊的な存在を信じている
・歌が生活の中にある
・地域社会の運営が民主的である
特に最後の点は、重要であると思います。

■言語の特徴■

ピダハン語は、人類がベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に進出する以前から、アマゾン地域に暮らしていた人々の言葉ではないかといわれるほど、周囲に類似する言葉のない言葉です。
多くの特徴があります。v ・右、左を表す言葉がない。
・数を表す言葉がない。
・色を直接表す言葉がない。
・家族関係を表す言葉が少ない。
・創世神話がない。
・リカージョン(入れ子)がない。
・5つのチャンネル(語りの方法)がある。
信じられないほど、変わった言葉であると言えると思います。そして、このような言語が使用されるのは、ピダハンの人々の価値観が背景にあり、チョムスキーの理論を覆すものであると著者は言います。

■直接体験の原則によってもたらされる幸せ■

著者は、伝道師として赴きながら、聖書をピダハン語に翻訳する必要性から前任者が誰もなしえなかったピダハン語の解明を進めました。
そのためには、ピダハン的価値観について学ばざるをえませんでした。
そして、ピダハンの人々が直接体験の原則を何よりも重視していることを理解しました。
最後にいたったのは、誰も直接合ったことのない神をピダハンの人々に信じさせるのは無理であり、むしろ、ピダハン的価値観で生きるほうがずっと幸せであるという結論でした。
ピダハンの人々は夢や精霊も直接の体験としながら暮らしています。

■人類の未来図■

読了して最も感じることは、ピダハンの人々が持つ価値観が人類の未来を作るために必要な価値観であるということです。
現代人を蝕む心の問題は、ピダハンの人々のように今日のことだけ、現実だけを重視して暮らしていれば、発生しないとこの人々は教えてくれています。
難しい法律も裁判所も学校も必要なく、会社もいらなければ、税金もいりません。
地球環境を破壊することもなく、就職口を心配する必要もなく、嫌な上司もいません。
原発も、遺伝子組み換えもなく、無理に進めようとすれば共同体から追い出されてしまうだけです。
直接体験の原則があるので、「TPPに加わらなければ競争力を失う」などと脅されることもありません。
もちろん、そこは楽園などではなく、人々は、睡眠時間を削ることや、食事を抜くことによって自分を鍛えながら暮らし、時には殺人事件も起きます。
平均寿命は45歳ほど。
しかし、この本を読んで、私は、直接体験の原則以外に、人間が生物として生き残る術はないのではないかとまで考えるようになっています。
この本の重要性を伝えるには、私は力不足だとつくづく感じますが、少しでも伝えられたなら嬉しいです。

特に面白いなと思った部分

ピダハンは空腹を自分を鍛えるいい方法だと考える。日に一度か二度、あるいは一日じゅう食事をしないことなど平気の平左だ。 -110ページ

誰もが一週間に十五時間から二十時間程度「働」けばいいということになる。 -112ページ

ひとつのパターンが見えてくる。ピダハンには食事を保存する方法がなく、道具を軽視し、使い捨ての籠しか作らない。将来を気に病んだりしないことが文化的な価値であるようだ。だからといって怠惰なのではない。ピダハンはじつによく働くからだ。 -113ページ

ピダハンと暮らしはじめた初期のころ、わたしも不思議に思ったが、儀式というものにおよそ欠けているのである。 -117ページ

ピダハンの営みで最も儀式に近いのは、踊りだろう。踊りは村をひとつにする。村じゅうの男女が入り乱れ、たわむれ、笑い、楽しむのが特徴だ。楽器はなく、歌と手拍子、足拍子だけが伴奏になる。 -119ページ

ピダハンに儀式が見受けられないのは、経験の直接性を重んじる原則で説明できるのではないだろうか。この原則では、実際に見ていない出来事に関する定型の言葉と行為(つまり儀式)は退けられる。 -121ページ

ピダハンはどんなことにも笑う。自分の不幸も笑いの種にする。風雨で小屋が吹き飛ばされると、持ち主が誰よりも大きな声で笑う。魚がたくさん獲れても笑い、全然獲れなくても笑う。腹いっぱいでも笑い、空腹でも笑う。しらふのピダハンはちっともずうずうしくないし、乱暴でもない。ピダハンとともに初めてひと晩過ごしたときから、わたしは彼らがとても忍耐強く、朗らかで親切なことに感じ入ってきた。このみなぎる幸福感というものは説明するのが難しいのだが、わたしが思うにピダハンは環境が挑んでくるあわゆる事態を切り抜けていく自分の能力を信じ切っていて、何が来ようと楽しむことができるのではないだろうか。だからといってピダハンの生活が楽なわけではない。そうではなく、ピダハンは何であれ上手に対処することができるのだ。 -122ページ

これは、江戸時代の庶民と似た点の一つ。

ピダハンはわたしに対しても我慢強い。自分に厳しく、年配の者やハンディのある者に優しい。 -123ページ

xahaigiの概念は、子どもや老人への態度にも現れる。一家の父親は、別の家庭の子どもが放置されていると、たとえ一日だけであっても面倒を見て食事を与える。 -126ページ

xahaigiは、集団意識、帰属意識を表す言葉です。

多くのピダハンが多数のピダハンと性交している割合がかなり高いと推測したとしても、あながち的外れではないはずだ。 -127ページ

わたしはまず、見たかぎりでピダハンが赤ちゃん言葉で子どもたちに話しかけないことから考えはじめた。ピダハンの社会では子どもも一個の人間であり、成人した大人と同等に尊重される価値がある。 -128ページ

この話と江戸時代の日本の話を知り、むしろ子どもを大人と同等に扱うことのほうが平等であると考えるようになりました。

このようにして育てられた子どもはいたって肝の据わった、それでいて柔軟なおとなになり、他人が自分たちに義理を感じるいわれがあるとはこれっぽちも考えない。ピダハン王国の住人は、一日一日を生き抜く原動力がひとえに自分自身の才覚とたくましさであることを知っているのだ。 -129ページ

生命や死、病に対するピダハンの考え方は、わたしのような西洋人とは根本的に違うのだ。医者のいない土地で、頑丈でなければ死んでしまうとわかっていて、わたしなどよりよほど多くの死者や死にかけた人たちを間近で見ているピダハンには、人の目に死相が浮かんでいることも、どういう健康状態だと死に直結するかも、わたしが気づくよりずっと早く見ぬけてしまうのだ。ピダハンは赤ん坊が間違いなく死ぬとわかっていた。痛ましいほどに苦しんでいると感じていた。わたしが素晴らしい思いつきだと考えたミルクチューブは赤ん坊を傷つけ、苦しみを引き延ばしていると確信していた。だから赤ん坊を安楽死させた。父親が自らの手で喉にアルコールを流し込み、苦しみを絶ったのだ。 -138-139ページ

ピダハンの子育てには、原則として暴力は介在しない。だがわたしの子育ての手本には暴力があった。ここでふたつを対比しておくのが肝要だろう。なぜなら最終的にわたしは、当時の自分よりもピダハンの姿勢のほうがはるかに健全だと確信するようになったからだ。わたしは父親としては若く、シャノンが生まれたのはわたしが十九歳のときだった。未熟さとキリスト教的子育て観とが相俟って、鞭を惜しむと子どもをだめにするという聖書の教えにしたがい、体罰は妥当であり効果があるとわたしは考えていた。 -141ページ

けれどもピダハンの若者が引きこもっているのは見たことがない。いつまでもふて寝したり、自分のとった行動の責任から逃げようとしたり、親の世代とは全然違った生き方を模索したりということもない。 -142ページ

ピダハンの家族関係は、西洋人にもなじみやすい領域だ。親と子の愛情表現はあけっぴろげで、抱き合い、ふれあい、微笑み合い、たわむれ、話し、一緒に笑い合う。これはピダハン文化のなかで、真っ先に目につく特徴でもある。ピダハンを見ていると、わたしももっともっと忍耐強くならなければならないと自分の課題をつきつけられる。親は子どもを殴らないし、危険な場面でもないかぎり指図もしない。乳飲み子やよちよち歩きの幼児(おおよそ四歳か乳離れするまで‐乳離れすると一転活動を求められるようになる)は好き放題が許され、手放しで愛される。 -150ページ

ジャングルにいる彼らを見て、わたしは村が彼らにとっては居間にすぎないこと、たんに手足を伸ばすためだけの場所であることに気づいた。 -154ページ

アメリカ先住民のほとんどの部族には、長などの権威の象徴がいると信じられている。これは誤りだ。 -158ページ

実際にはいない権威の象徴を西洋人は、都合がいいからという理由で作りあげたようだと記述されています。

初めての出会いからおよそ一年後、ブラジルの軍人が村を訪ねてきて醜い人々だと感想を洩らすと、子どもたちは真っ赤になって怒った。「ピダハンを醜いと思う人がいるなんて、信じられない」 -161ページ

美意識だけに頼って物事を判断していると、とんでもない過ちを犯しかねないという話でもあるように思います。

最初の大きな驚きは、どうやら物を数えたり、計算したりしない、数がないらしいことだった。 -167ページ

ピダハンが計算能力を身につけることができない理由がほかにあるとすれば、彼らが結局のところポルトガルの(あるいはアメリカの)知識を重く見ていないからだとわたしは思う。 -168ページ

驚くことに、数を数えることに重きをおかない人々が存在しているのです。

単語イビピーオはこのようにして、それまでわたしが個別に取り組んでいたピダハンの価値観に共通するひとつの顔をもたらしてくれたのだった。その価値観とは、語られるほとんどのことを、実際に目撃されたか、直接の目撃者から聞いたことに限定するものであるらしかった。 -184ページ

知覚に入ってくる(音が聞こえ出す、人が見え始めるなど)、知覚から消える(火が消えて炎が見えなくなるなど)という、経験の境界線上を表す単語イビピーオ。

これだ!とある日わたしは思った。ピダハンの言語と文化は、直接的な体験ではないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。 -187ページ

この後、この制約の要約が記述されています。

カボクロは自分たちの貧しさを痛切に感じている。一方ピダハンは、カボクロより所有物こそ少ないが、「貧しい」という概念がなく、自分たちの持てるものに満足している。 -236ページ

カボクロとは、アマゾン先住民の末裔でありながらポルトガル語しか話さなくなった人々で、ピダハンとの交流もあります。

ピダハン語には五つのチャンネルがあって、それぞれが特別な文化的役割をもっている。五つとは、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、叫び語り、それに通常の語り、つまり子音と母音を用いた語りだ。 -260ページ

それぞれ役割が異なることが興味深く感じました。

一方ピダハンは、それまでに火星人が来るのを実際に目撃していたとしたら、火星人が来るぞと言うかもしれないが、目撃した経験がないかぎり決して言わない。ピダハンが話すのは、釣りや狩り、ピダハンの人々のこと、自分が見た精霊など、現に生きている日常の経験についてだ。彼らが創造性に欠けているからではなく、それが文化の価値だからだ。ピダハンの文化はひじょうに保守的な文化である。 -287ページ

ピダハン社会が孤立しているのは、彼らが自分たち以外の文化に対して強い優越意識をもち、軽視してきたためだ。他の言語や文化によく見られる特色を欠いているからといって劣っていると考えるどころか、ピダハンは自分たちの生き方こそが最上だと信じている。それ以外の価値観と同化することには関心がない。 -337ページ

陰謀論を知り、宗教を隠れ蓑にした支配や、国家を超える権力による大衆洗脳の実態を知るにつれ、科学技術の発展が必ず破滅的な結果をもたらすと考えるようになった私にとって、この価値観は、人類の未来図を作る上でとても重要な価値観であると思えます。

デカルトの業績や、チョムスキーの論文の一部から読み取れる宗教まがいで何やら神秘的な二元論の代わりにわたしが提供したいのは、もっと実質的な言語理解だ。 -138ページ

チョムスキーもまた、ケインズ経済学やマルクスのように、闇の権力者たちが支配のために利用した科学者であったのかもしれません。

また、言語学は現在多くの言語学研究者が信じているように心理学に属するものではなく、サピアが考えたように、人類学に属するものになるだろう(それどころか、やはりサピアが考えたように、心理学すら人類学の一部であると言えるかもしれない)。 -361ページ

次にピダハンが訊いてくるのは、「おい、ダン。イエスはどんな容貌だ?おれたちのように肌が黒いのか。おまえたちのように白いのか」

わたしは答える。「いや、実際に見たことはないんだ。ずっと昔に生きていた人なんだ。でも彼の言葉はもっている」

「なあ、ダン。その男を見たことも聞いたこともないのなら、どうしてそいつの言葉をもってるんだ?」 -368ページ

これは、神格化を防ぐための極めて実際的な方法だと思います。

直接体験の原則とは、直に体験したことでないかぎり、それに関する話はほとんど無意味になるということだ。これでは、主として現存する人が誰もじかに目撃していない遠い過去の出来事を頼りに伝道をおこなう立場からすれば、ピダハンの人々は話しが通じない相手になる。実証を要求されたら創世神話など成り立たない。 -374ページ

ピダハンが突き付けてきた難問のもうひとつの切っ先は、わたしのなかに彼らに対する敬意が膨らんでいたことだった。彼らには目を見張らされることが数えきれないほどあった。ピダハンは自律した人々であり、暗黙のうちに、わたしの商品はよそで売りなさいと言っていた。わたしのメッセージはここでは売り物にならない、と。 -375ページ

わたしの商品とはキリスト教です。

そんなわけで一九八〇年代の終わりごろ、わたしは少なくとも自分自身に対しては、もはや聖書の言葉も奇跡も、いっさい信じていないと認めるにいたっていた。 -375ページ

ピダハンに出会いわたしは、長い間当然と思い、依拠してきた真実に疑問をもつようになった。信仰心を疑い、ピダハンと共に生活していくうちに、わたしはもっと深甚な疑問、現代生活のもっと基本の部分にある、真実そのものの概念も問い直しはじめるようになっていた。というより、わたしは自分が幻想のもとに生きていること、つまり真実という幻想のもとに生きているという思うに至ったのだ。神と真実とはコインの表裏だ。人生も魂の安息も、神と真実によって妨げられるのだ‐ピダハンが正しいとすれば。ピダハンの精神生活がとても充実していて、幸福で満ち足りた生活を送っていることを見れば、彼らの価値観がひじょうに優れていることのひとつの例証足りうるだろう。 -377ページ

信仰と真実という支えのない人生を生きることは可能だろうか。ピダハンはそうして生きている。もちろんわたしたちと同じような心配事も抱えてはいる。わたしたちが抱く心配事の多くは、文化的文脈とは関係なく、生物としての人間だからこそ生じる心配事であるからだ(文化はそれ自体では言葉になりにくいが、現に存在する心配事に意味を与える)。だが、ピダハンはたいていはそうした生物としての心配事にもとらわれずに生きている。なぜなら一度に一日ずつ生きることの大切さを独自に発見しているからだ。ピダハンはただたんに、自分たちの目を凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、不安や恐れ、絶望といった、西洋社会を席巻している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ。 -378ページ

どうか考えてみてほしい‐畏れ、気をもみながら宇宙を見上げ、自分たちは宇宙のすべてを理解できると信じることと、人生をあるがままに楽しみ、神や真実を探求する虚しさを理解していることと、どちらが理知をきわめているかを。 -379ページ

ピダハンの言語と文化をもっとよく見ると、同様にわたしたちには教訓となりそうな事実がまだある。ピダハンには抑うつや慢性疲労、極度の不安、パニック発作など、産業化の進んだ社会では日常的な精神疾患の形跡が見られないことだ。 -384ページ

わたしはピダハンが心配だと言うのを聞いたことがない。というより、わたしの知るかぎり、ピダハン語には「心配する」に対応する語彙がない -384ページ

わたしも過去三〇年余りで、アマゾンに居住する二〇以上の集団を調査したが、これほど幸せそうな様子を示していたのはピダハンだけだった。 -385ページ

追記:ピダハンに近い世界観は、遊動生活をおくる狩猟採集で暮らす人々の間である程度共通した価値観のようです。
この事実から、見えてくることがありそうです。

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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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