● 今年は明るい ?  2002.01.08 記● 大いに触発。今年は頑張ろう。  2002.01.31 記
● なめたらアカン  2002.02.12 記
● 峠  2002.02.22 記
あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。
さて、昨年の 12月は土日が結構晴天となり、 従って山登りには絶好のチャンスであったのだが、 何だかんだで山行のチャンスを逃してしまい、 結局 年末の休みに 1回山に行っただけであった。
従って、2001年の山行は途中に 4ヶ月半ほど山登りにブランクを生じさせたこともあってわずか 12回、百名山の方はと言えば、新規に登った山が 後方羊蹄山 1山と散々の結果であった。
これは偏に私自身の怠慢であるが、 ストレス解消に持ってこいと思っていた登山も、 自分の気持ちの方が安定していなければなかなか楽しめない ということを思い知った次第で、 やはりまずは仕事にしてもプライベートにしても 自分の生活をしっかりしなければとつくづく感じた 1年であった。 今年は昨年のようなことのないように しっかり山に登りたいと思う。
ここで話を昨年最後の山行に戻したい。
昨年最後の山行は、 笠取山、雁坂嶺 といった過去に登ったことがある山を踏んできただけだったのだが、 その辿ったコースが シンメトリー となっていたのがなかなか興味深いと思われる。
具体的には、 お馴染みの奥秩父西沢渓谷手前にある広瀬湖 (新地平) から雁峠を目指し、 雁峠からはその右手 (東) にある笠取山をピストン登山し、 再び雁峠に戻って、今度はそのまま奥秩父縦走路を西に進んで、 燕山、古礼山、水晶山を経て雁坂峠へと下り、 そこからさらに西方にある雁坂嶺を往復した後、 戻り着いた雁坂峠から出発点である新地平へ下るというものである。
つまり 雁峠、雁坂峠の2つの峠を起点として、 それぞれその東方、西方にある山をピストン登山してきた訳で、 辿ったコースを書き記せば、 丁度 角を持つ牛の顔を正面から描いたような シンメトリー になるという訳である。このコースを辿ることを計画した当初は、登った山ばかりであまり新鮮味がなく面白くないかなとも思っていたのだが、どうしてどうして、奥秩父縦走路はやはり魅力的であり、 しかも登る途中では晴れていた空が稜線間近では完全にガスの中となり、 突風のような冷たい風と雪にも遭って、 冬の山の厳しさを少しではあるが体験できてなかなか楽しい山行であった。 周囲の木々が あれよあれよという間に樹氷に変わりゆく様を見るのは初めての経験で、 天候には恵まれなかったものの、 2001年の最後を飾る登山としてなかなか良かったと思う。
と言ったように、大いに登山を楽しみ、何の問題もなく終わったように書いたが、 実際には 1ヶ月ぶりの登山であり、 この間の食欲は全く衰えずという状態であったことから、 腹に脂肪がついてしまい、 その為、かなり苦しい登山となったのであった。 身体が慣れるまでは喘ぎ喘ぎの状態で、 特に笠取山の急斜面の登りは天候の悪化、あまりの寒さも加わって、 計画のコースを辿ることに対して体力的自信を失わせるものだったのである。
なお、登山の詳細は登山記録に記すが、 雁峠から雁坂峠、そして雁坂嶺へと続く稜線上は積雪量こそ少なかったものの 完全に雪の世界で、 なかなか楽しい山歩きであった。 そういう意味で、雁峠からそのまま下山し、 不完全燃焼で 1年を終えることにならず 本当に良かったと思う。 笠取山直下で偶然見かけた 2人の登山者に感謝したい。 また、「小さな分水嶺」 から 笠取林道を下ることにしなくて本当に良かったとつくづく思う次第である。
しかも、 鼻や耳を凍らせるような雪混じりの強い風に見舞われ、 さらに笠取山の頂上で食事のために手袋を脱いだ手は アッという間にかじかんでしまう といった厳しい状況で、 予定していたコースを取り止め、 このままピストン登山で終わらせたい という気持ちを強く抱かせたのであった。
加えて、 笠取山の頂上から、これから進もうと思っていた燕山、古礼山と続く山々を見やれば、 その頂上付近は真っ白なガスに覆われており、 その手前の雁峠を雪混じりの強風が吹き荒れているといった状況で、 縦走コースを辿ることに不安を覚え、 ますます気持ちを萎えさせたのだった。
そういう訳で、 残念ではあるがたまには予定を変更して早く下山するのも良いかと考え、 笠取山頂上を踏んだことで良しとして このまま下山することに決めたのである。
下山途中、 「小さな分水嶺 (多摩川、荒川、富士川の分水嶺)」 まで戻って来た際、 下山路に笠取林道を使うという案も思い浮かんだのであったが、 車を置いてある新地平までの車道歩きが長い ということで却下することとし、 結局 往路をそのまま戻ることに決めて、 雁峠へと戻ったのであった。
しかしである、 雁峠へと戻る途中、「小さな分水嶺」 直下の草原を、 登山路をはずれてショートカットにて笠取山に向かう 2人連れを見かけ、 雁峠に戻るとその 2人のザックがベンチに置かれていたのを見て、 急に気持ちが変わってしまったのである。 ベンチのザックは、 2人が私と同じく笠取山をピストン登山して、 雁峠から燕山、古礼山へと進むのだということを示している訳で、 そうなると私自身、このままむざむざと往路を下るのは情けない という気持ちが湧いてきたという訳である (もしかしたら 2人は雁坂峠の方からやって来たのかもしれないが・・・)。
そして、結局、 笠取山での決意に反して縦走路をそのまま進んでしまったのであった。
ほんの小さなきっかけで、 このようにコースをコロコロ変えることは大変危険であり、 また節操がないと言わざるをえないが、 本来登ろうと決めていたコースを 簡単にあきらめようとした自分自身を反省することの方が本筋であろう。 昨年 1年間を象徴するような気持ちの変化であった。なお、登山中は雪混じりの強風であったが、 時折見える麓の方は晴れていたようで、 以前、大室山 に登った際に 稜線の状況と稜線から見える麓の状況のギャップに驚かされたように、 今回も同じ不思議な感覚に捕らわれたのであった。
特に雁坂峠では、横殴りの風がものすごく、 周囲も雪をかぶって真っ白な状況であったにもかかわらず、 広瀬湖の方を見やれば 雲の切れ間から日の光がカーテンのように地上に下りていて、 今自分の置かれている状況とのあまりの違いに驚かされるとともに、 天地創造をも思わせる神々しい情景に 暫し見とれてしまったのであった。 本当に自然の為すワザには素晴らしいものがある。イヤーそれにしても最後の雁坂峠から雁坂嶺までの往復は参った。 前回、雁坂峠から雁坂嶺までは アッという間だったという記憶があったので やや高をくくっていたのだが、 とんでもない。 この登りで終わりかと思うと また先に高みが現れるという状況が 5回くらい続き、 雁坂嶺頂上に着いた時はもうへとへとであった。 雁坂峠にある地図に、 雁坂峠から雁坂嶺まで 30分と書かれていたが、 実際にかかった時間もほぼ 30分と、 雪の斜面であったことを割り引いても 自分としては時間がかかり過ぎである。
と思って家に帰ってから前回の記録を見てみると、 やはり雁坂峠から雁坂嶺まで 30分かかっていた。 何のことはない、 同じ時間で歩いたのであり、 ペースも全く落ちていなかったのである。 しかし、疲れは倍感じた気がする。面白いものである。
ちなみに、 ゼンリンの地図 「奥秩父」 では、40分と書いてあった。
とまあ、新年になって 8日も経つのに昨年のことをクドクド書いていても仕方がないので、 今年の初登山のことも少し書いておきたい。
登ったのはやはり奥秩父で、雲取山である。 奥多摩湖畔の 水根 に車を置き、 まずは鷹ノ巣山を目指し、 鷹ノ巣山からは石尾根 (実は巻き道) を伝って七ツ石山頂上を経て雲取山に至り、 雲取山からは石尾根を途中まで戻り、 七ツ石山直下から鴨沢に下ったのである (鴨沢から水根まではバス)。晴天のもと、日の光に雪は煌めき、富士山を常に眺めながらの縦走は本当に充実感溢れるものであった。雪も前日降ったとはいえ、縦走路上では 4、5センチほどしか積もっておらず、 全く問題なく山行を終えることができたのである。
暗いことが多い今日この頃であるが、 大変気持ちの良い登山をすることができ、 今年は何か期待できそうなことを感じさせる山行であった。
昨年は 黒川鶏冠山 に登った後、道を間違えて落合に下ってしまい、 落合から車を置いてある裂石まで延々と車道歩きを強いられ、 しかも落合から途中の柳沢峠までは厳しい登りがあって、 昨年 1年を予見するような苦しい山行であった。 今年は世の中の景気、 我が周辺の状況、そして登山において、 それぞれ明るい事柄が期待できそうであるし、 そうありたい。 久々に気分の良い充実感溢れる山行であった。
これまた詳細は登山記録で。なお余談だが、 雲取山には 鴨沢から石尾根、 日原から大ダワ林道、 三条ノ湯から水無尾根 といった 3コースを登っているが、 やはり石尾根を登らずしてはこの山の魅力は半減と言っても良いと思う。
左手に富士山、正面に 飛竜山を見ながらの縦走は、 カヤトの原を歩く気持ちよさも手伝って最高である。 願わくば視界があまり良くない巻き道を通らずに尾根伝いを行き、 しかも奥多摩駅から登るのが良いと思われる。 いつか挑戦してみたいものである。
先週の月曜日から 4日間程台湾に出張してきた。
従って、 その準備だとか帰国後の疲れとかあって、 出張前後の土・日は山に行けなかったのだが、 先週の土・日の方はあまり天候が良くなかったことから、 例え出張の疲れがなかったとしても 山に行くのは厳しかったと思われる。
その証拠という訳ではないが、 月曜日の朝、出勤の途上に丹 沢の方を見やると、 いつもは黒く見える山容が この朝は真っ白に輝いていたのであった。 どうやら、土曜日の晩から日曜日の朝にかけて降った雨は、 丹沢では雪になったということらしい。 この日曜日以前から、恐らく丹沢には雪が積もっていたと思われるが、 ここまで白くなるとは・・・。 土曜の晩の降雪量は相当のものだったに違いない。
丹沢に雪が降るのを待って 真っ先に足跡をつけに行くことを無類の楽しみにしている方もおられると聞くが、 日曜日はさぞかし踏み甲斐があったことであろう。しかしそれにしても毎度この時期になると思うことで、またこの雑記帳にも何回も書いていることだが、雪化粧とは本当に良く言ったものだと思う。普段見慣れた丹沢が、 その化粧のお陰で 2段階も 3段階も上の、 とびっきり高く崇高な山に見えるから不思議である。
これは決して丹沢のグレードが低いと言っているつもりではなく、 普段見慣れた顔がある日見たら すごい美人に変わっていたという驚きなのである。それにしても最高峰の 蛭ヶ岳 でも 1,700mにも満たない丹沢が、3,000m級はオーバーにしても、2,000m級の佇まいを見せているから本当に驚きである。
特に、 全体にフィルターがうっすらとかかっているような丹沢山塊の姿の中で、 丹沢山、蛭ヶ岳といった中心部が朝日に輝いており、 また一方で、丹沢山塊の南端に見える 大山 の方は未だに黒く、 大山の左側にその頂をほんの少し見せている富士山や、 丹沢山、蛭ヶ岳の白さを強調する役割に徹しているのが面白い。
こうなると私も早速登ってみたくなるのだが、 果たして今週末の天候はどうだろうか。
ただ、大倉尾根の登りを思うとやや気持ちが萎えてしまう。 それでも丹沢山から不動ノ峰、棚沢ノ頭に至る尾根筋を歩く魅力は捨てがたい訳で、 大いに迷うところである。おっと、こういう話をするために台湾出張の話から始めたのではなかった。
片道 3時間前後の飛行機の中 (ならびにホテルでも) で読み終えた本の話がしたかったのである。 その本とは、小学館から文庫として出ている 安川 茂雄 著 『われわれはなぜ山が好きか (ドキュメント 「日本アルプス登山」 70年史)』 で、 そのタイトル通り、日本の登山の黎明期を描いたものである。ここでクドクド感想を述べるつもりはないが、古来、宗教的登拝 (御嶽、白山、立山、大峰山、石鎚山など) が中心であった山との関わりが、今日のような 趣味の登山に変わり行く当時の様子が良く分かり、 大変面白かった。 そして、その転換点に大きく関わった多くの外国人 (ガウランドや ウェストンら) や 小島烏水、木暮理太郎、田部重治といった多くの先達の活躍も大変興味深く記されていて 勉強になったのであった。
全部で 12の章からなっているが、その章毎のタイトルをここに並べただけでも、山好きの興味を惹くものと思う。
といった具合である。
第一章  近代登山の黎明 第二章  ウェストンの来日と志賀重ミ 『日本風景論』 の刊行 第三章  山岳会創立の前後 第四章  縦走登山の全盛時代 第五章  明治末期の登山と探検 第六章  各地山岳団体設立とスキーの普及 第七章  大正初期、日本アルプスの変遷 第八章  スポーツ登山への序曲 第九章  板倉勝宣の死とロック・クライミングの新時代へ 第十章  アルバータ遠征以降の穂高、劔への攻撃 第十一章  上越国境の開拓と北アルプスの二つの遭難 第十二章  昭和初期におけるアルピニズムの動向 結構馴染みの山が出てくるものだから、頭で地形を思い出しながら読むことができ、楽しさも 2倍という感じである。
また、スポーツ登山という形に変わり行く中で、 遭難ということも避けられない訳で、 上述の各章の中にも 当時起こったいくつかの遭難について述べられている。 タイトルにある 板倉勝宣の他、 前穂高北尾根での大島亮吉の遭難、 早大パーティの針ノ木直下籠川谷遭難、 劔沢の雪崩遭難など 痛ましい事故が生々しく語られているが、 その中でも特にショックを受けたのが 秩父破不山での東京帝大生の遭難である。
克明に書かれた遭難の状況もショックの理由だが、 何よりも最近登ったばかりの、本当に身近に感じる山での遭難であるが故に、 そのインパクトがかなり強かった次第である。その内容をかいつまんで書くと、一高を卒業して東京帝大に入学した 4人と他の 1名、計 5名のパーティは、先般私が雁峠から笠取山、古礼山、雁坂嶺と登る際の出発点とした 広瀬から甲武信岳を目指したのであった。
広瀬の林業所にいた農科大学出の技師に道を聞き、 そのアドバイスに従って笛吹川を遡って二股から山に取り付く予定であったのだが、 ちょっとした勘違いで二股手前の下俣から山に取り付いてしまい、 最初の目的地である破風山 (地図には名前はないが破風山というとのアドバイスを技師からもらった。 標高 2,468.6m というから現在の木賊山か ?) ではなく、 その東隣の破不山 (恐らく今の西破風山) に登ってしまったのであった。 本来、破風山 (今の木賊山) の頂上に正しく到達していれば、 そこから西北に進んで甲武信岳に至るのであるが、 隣の破不山 (今の西破風山) を破風山 (木賊山) と思い込んでしまい、 そこから西北に進んで木賊沢に迷い込み、 いつまでも甲武信岳に至らず、 最終的に 4名が遭難して命を落としてしまったというのである。
しかも、破風山 (木賊山) に至る途中にはいくつかの独標があるのだが、 運の悪いことに破不山 (今の西破風山) への登りの途中にも独標があるのである。 従って、 今のようにそれぞれの独標や山頂の三角点に 山の名前を書いた標識などない訳だから、 徹底的に勘違いをしたということである。
さらに、 破風山 (木賊山) から甲武信岳にかけての地図 (金 峰) と、 破不山 (西破風山) 近辺の地図 (三 峰) とは別々に分かれおり、 破不山 (西破風山) を破風山 (木賊山) と強く思い込んでいたものだから、 登山中 一度も三峰の地図は開かず、 金峰の地図だけをひたすら検討していて、 そこにあるべき山 (甲武信岳) がないことにパニックを起こし、 さらに冷たい雨に打たれて体力を消耗してしまったのである。
本当に昨年の 10月に登ってきたばかりの山であっただけに、 この遭難はより生々しく感じられ、 背筋がゾッとする思いであった。それにしても、当時は今のように登山道も整備されておらず、先に述べたように目印となる標柱や標識がある訳ではないのである。測量隊によって三角点や独標は埋められていたものの、 天候が悪かったら迷うことは必定で、 それだけに十分な装備、 落ち着いた行動が求められるわけである。 今の恵まれた環境に感謝するとともに、 この遭難を他山の石としなければならない。
いやー、それにしても久々に面白い本であった。 山に対するテンションが下がった時には 是非とも紐解きたい一冊であり、 今年は頑張って多くの山に登ろうと決意させられる ありがたい出会いであった。
本当にここ 2年ほど百名山も停滞気味の現状において、 明治、大正、昭和初期にかけての、人々の登山に対する情熱に触れ、 大いに触発されたのであった。 今年はガンバロー。
1月に続いて 2月にも 3連休があることは大変喜ばしいことで、 これなら毎月 3連休を設けるように国が動いてくれないか などとついつい思ってしまう。
山登りで丸一日身体を苛め続けた後、 翌日はゆっくり身体を休めるためほとんど家から出ず状態とし、 最後の 1日は 普段できないパソコンの手入れや ホームページのメンテナンス、 あるいは買い物などに行く というのが理想なのである。 そういった意味でも 3連休は毎月欲しいものであるが これは贅沢であろうか。さて、 この 9日からの 3連休は、 最初の日が一番天気が良くてしかも暖か く登山としては絶好の 1日であったと言えよう。 2日目の日曜日は、 この横浜でも小雪が舞った程であったから 山の方はかなり吹雪いていたのではないかと思うし、 最後の月曜日は朝のうちは青空が広がっていたものの、 徐々に曇り始め、夕方以降はまたまた雪が舞ったところもあったと聞く。
従って、 上述したような 3連休の過ごし方を目指して、やや疲れ気味ではあったものの 無理をして 3連休初日の土曜日に山に行った私は大正解であった。
しかも、山は低山ながら雪また雪という状態で、 ツボ足の連続、誰も歩いていない雪の上をミニラッセルせざるを得ない状況が続き、 さらに登山道に目印の少ない山域だったことから苦労の連続で、 明るい日差し、良好な視界がなかったら 途中で挫折していたに違いない状況だったからである。登ったのは、先日の 黒岳 ・ 釈迦ヶ岳 に引き続き、同じ御坂山系にある本社ヶ丸 (ホンジャガマル) である。
だいたい私の登山は、 1山域に登り始めたらそこに連続して登る傾向が強いのだが (奥秩父然り、越後三山然り)、 これはその山域の峰々に立って見えた近くの山に惹かれるからである。
この本社ヶ丸も、 先日の釈迦ヶ岳頂上にて 360度の展望を得た際、 三ツ峠山 の左手にボコッとドーム状に小さく盛り上がった山に惹かれ、 釈迦ヶ岳にあった方位盤でその山の名を確認してから目をつけた山であった。さて、この本社ヶ丸への登山コースであるが、本来なら中央本線の笹子駅側から登るのがポピュラーなのであろうが、このコースはかつて三ツ峠山からの下山ルート として使ったことがあり、 どうも登る気がしない (といっても辿ったのは 1989年のことだが・・・)。
そこで地図をよく見て閃いたのが、 河口湖側、御坂トンネル手前から御坂峠へと登り、 そこから御坂山、旧御坂峠を経て八丁峠から清八山、 清八峠、本社ヶ丸へと至るコースである。
御坂トンネル前からではなく、 トンネル入口から右に道を折れ、 御坂みちを辿って天下茶屋の前まで行って車を止めれば、 太宰治の 「富士には月見草がよく似合ふ」 という碑の横を登って簡単に旧御坂峠に着くことができるのだが (黒岳、御坂山参照)、 それでは私のプライドが許さない。 そんなことを考えながら、 さらに余裕があれば 本社ヶ丸からの帰りは三ツ峠山まで足を延ばすか などという 今から思えば本当に甘い考えを持っての出発であった。登山の詳細はいずれ登山記録にアップするが、この日の登山は、冬の低山をなめてかかっていた私の態度を大いに反省させられることになったのであった。 登山記録に先立ちその様子を少し書くと以下のようである。
御坂トンネル手前の空き地に車を止め、標識に従って林道を進むと、すぐに左手の山に入ることになった。
雪はすぐに地面を覆うようになったが、 踏み跡がしっかりつけられており全く問題ない状況で、 御坂峠までの所要時間は 1時間23分ほど、 地図上の時間より 7分ほど早い。ところがである。御坂峠から左手が黒岳、右が御坂山なのだが、どちらの方向にも雪の上に足跡がないのである。
厳密に言えば、 右に進む御坂山方面へは峠まで続いていた足跡がそのまま延びていたのだが、 峠からすぐの高みの途中で引き返したらしく、 結局、御坂山まで真っ白な雪の道を ミニラッセルさせられる羽目になったのである。
足を踏み出すたびにズボッと足が 2、30センチ沈む。 これの繰り返しで負担が大きく、 さらに下り斜面では深いところで 1m近くの雪があり、 足の付け根近くまで埋もれてしまうことが何回もあったのだった。 さらに、無雪期には歩きやすく分かりやすい道なので、 周辺にテープなどの目印は一切つけられていないことから、 歩くべき場所が少々分かりにくい。 木々の配置、微妙な雪の積もり具合から判断して進む訳で、 ツボ足続きに加えて気苦労まで強いられ、 かなりバテ気味である。ようやく樹林を抜けて送電線の鉄塔下まで来ると、眼の前には 富士山 と河口湖が広がり、疲れを癒してくれた。しかし、それも束の間、再び樹林に入るとまたまた ミニラッセルを強いられるようになったのであった。
この道は 1回通っていることと、 明るい日差しが勇気づけてくれたこと、 そして何より視界が ハッキリしていたことで 何とか進むことができたのだが、 もしこれが吹雪いてでもいようものなら、 とても進むことはできなかったであろう。御坂山頂上は旧御坂峠側から誰か登ってきているかと思ったのだが、やはり無人。まっさらな雪の上に足跡は私のものだけである。そして時計を見てビックリである。 御坂峠からこの御坂山まで 1時間16分もかかってしまったのであった。 無論、途中の鉄塔下などで休みをとったとは言え、 地図上で 35分のところを 倍以上かかってしまったことになる訳で、 雪の恐ろしさを垣間見た感じがしたのであった。
御坂山で食事をした後、旧御坂峠へと下山を始める。旧御坂峠から先もこれまでのようにラッセルを強いられるのであれば、本社ヶ丸は断念し、旧御坂峠から 天下茶屋へ下山しようと思っていると、 何と下から親子 4人連れが登ってくるではないか。
父親、母親は足にワカンをつけていたが、 中学生くらいの女の子と下の子は長靴といういでたちで、 急な斜面をラッセルしてきたのである。
これは驚きであったが、 もっと驚いたのは、 私に これより先の雪の状況を聞いた上で、 御坂山以降もラッセルを強いられると分かった途端、 目と鼻の先にある御坂山頂上にも登らずして下山を開始したことである。 御坂山頂上も樹林に囲まれて展望は得られない ということを私に確認した上での下山であったが、 あまりの潔さにビックリである。 女の子たちの苦労を考えると、 少し頑張って御坂山頂上だけでも踏んでくればよいのに と思う訳であるが、 やはりここまでのラッセルが相当きつかったのであろう。しかし、この親子連れのお陰で少なくとも旧御坂峠までの道は踏まれた訳である。これは嬉しい限りだ。4人 + 2人 (後から 2人ほど登ってきた) で作られた道の威力は抜群で、 スピードも上がる。
旧御坂峠から先の道は、さすがに踏み跡がないかと思っていたら、 何と嬉しいことにしっかり 2人の足跡がつけられていた。 これは清八峠、本社ヶ丸へ行く先達がいたのかと思い、 雪の上のトレースに勇気を得て先に進んでいったのだが、 何事もそうそううまくは運ばないもので、 途中から再び ミニラッセルをしなければならない状況に陥ってしまったのであった。
というのは、 快調にトレースを辿っていくと、 途中の尾根筋の見晴らしの良いところで 2人が食事をしており、 聞けばこの先まで進んだものの、 70センチくらいの積雪があって途中で断念し、戻ってきたとのことなのであった。 「きっと戻ることになりますよ」 という言葉をもらって先に進むと、 確かに途中で足跡が消えている。 先の方を見ると、 緩やかに登る尾根には雪が相当積もっていて、 確かに厳しいラッセルを強いられそうである。
しかし、 先の御坂山への登りを考えたら、 このくらいなら何とか行けるのではないかという気がする訳で、 ダメなら途中で引き返そうと自分に言い聞かせながら 先に進んでしまったのであった。ここも道にテープなどの印は全くなく、樹林の状況、雪の積もり具合だけを頼りの道探しとなったのだったが、さらにこの道はあまり歩かれていないらしく、 左右の木々の枝もうるさい。 唯一の頼りは明るい日差しと、 先に進むにつれて見えてきた送電線の鉄塔である。
雪との格闘の末、辿り着いた鉄塔下が八丁峠で、ここからは八丁山越えのルートと、一旦 清八林道へと下るルートに分かれることになる。ここで私は勘違いをし、 鉄塔に沿ってつけられた道 (送電線鉄塔の巡回路と思う) を北に下ってしまったのであった。 峠から 2本目の鉄塔を過ぎたところで下を見ると、 どうもこのまま藤ノ木方面へ下山しそうな感じである。 右を見れば 三ツ峠山から北へと続く山並みが見え、 明らかに自分のいる位置が間違いであることを知ったのであった。
つい谷沿いの明るい日だまり道に誘われ、 この道が八丁山越えと思って進んできてしまったのだが、 八丁山越えは八丁峠から直登せねばならないようで、 これを避けるのであれば、今下ってきた道とは逆の方向に下らねばならないのである。先程の八丁峠まで登り返すことでかなりのエネルギーを費やした上に、さらに巡回路を今度は北東へと進んだところ、途中で雪が多くて道が不明となり、 道を探すことでこれまたかなりのエネルギーを消費してしまったのであった。 登山道脇に標識や目印となるものがほとんど無いのが厳しい。
それでも何とか清八林道に飛び出すことができたので、 林道を左に進んで行き止まりまで行き、 三ツ峠 − 清八峠の縦走路と合流したのであった (大幡八丁峠)。この大幡八丁峠では、雪上に三ツ峠方面からの (への) 踏み跡は全くなかったものの、清八峠、本社ヶ丸方面への足跡はつけられていたので、ホッと一安心である。 もうラッセルしないで済むのは本当にありがたい。 こんなに人の足跡が嬉しいと思ったことはない。 恐らく、 足跡が全くないようであれば 途中で断念して引き返すことになったことであろう。
この先達の足跡のお陰で、このような状況下、登山効率を上げるのに大いに役立ってくれたのであるが、しかし、これまでの行程でエネルギーを使い果たしつつあった私にとって 清八山への登り、 また清八峠から本社ヶ丸までの行程は長く大変つらいものであった。
特に、清八峠から本社ヶ丸までの間には、 大小 7つほどのピークがあり、 これで最後かと思うとまた次のピークが目の前に控えているという状態が何回も続き、 本社ヶ丸頂上に着いた時は本当に心身ともクタクタの状態であった。 頂上で飲んだ ? ウイダーinゼリーのうまかったこと・・・。時刻は 14時を回っており、途中で擦れ違った男女の団体が最後の登山者だったらしく、私が本日の本社ヶ丸最終退出者となったのであった。つまり頂上独り占め状態で、 これはこれで大変幸せであった。
そうそう、途中の清八山頂上で本社ヶ丸から戻ってきた夫婦連れに会い、大幡八丁峠からラッセルがつけられていたことが大変嬉しかったことを話すと、何とそのご夫婦が 足跡をつけられたとのことであった。 大いに感謝したことは言うまでもない。
帰りは清八林道まで戻り、清八林道、御坂みちを延々と下って御坂トンネル入口まで戻ったのであった。もうクタクタである。当初考えていた 三ツ峠山経由で戻っても良いかな などという考えなどとんでもない状況である。 本当に我が不明を恥じる次第である。
それにしても、 低山とは言え雪山をなめてかかってはいけない。 こんなに苦労するとは思いもしなかった。 それなりの装備はしていったので何とか乗り切れたが、 いい加減な装備だったら大変である。
また、 普段当たり前のように歩く登山道が 雪によって全くその痕跡を消されてみると、 いかに自分が楽をしていたかが良く分かる。 御坂峠から御坂山、 旧御坂峠から八丁峠、 八丁峠から清八林道までの行程は、 普段なら何の迷いも無く進めるところであろうが、 テープなどがほとんどないことから (特に八丁峠の手前付近) 本当に苦労した。 何度も言うようであるが、 明るい太陽の日差しと、 良好な視界がなければ、 とてもとても歩き通すこと (勇気も含め) はできなかったであろう。 やはり山は好天に登るに限るとも強く思った次第である。しかしそれにしても、良くもまあ途中で引き返さずに登り切ったものである。 自分を少し見直した 1日でもあった。
先週の土曜日は絶好の登山日和 (晴天でしかも暖かい) であったにも拘わらず、 山に行くことができなかった。 先々週の雪山 (本社ヶ丸) がかなり面白かったので、 山に行く気は十分にあったのだが、 その前日の金曜日、日本語ワードプロセッサー 「一太郎 12」 を買うべく横浜のソフマップに行く際に 足を捻ってしまい、 大事をとって家で待機と相成ったのである。 捻った時点では軽い痛みだったのだが、 時間が経つにつれて痛くなり、 歩くことはできるものの 山に行くのは少し怖い という状態になってしまったからである。
山では、浮き石なども多いことから足を捻ることは多々あるのだが、何と普通の道路 (やや坂ではあった) で捻ってしまうとは本当に情けない。もう年 と言われたら大変辛いのだが・・・。
山だと足を捻っても、 くるぶしまで覆ってある登山靴に助けられるためであろうか、 歩けなくなったり、後で痛みが増してくる というようなことはこれまで全く無い。 しかし、一般道路とは言え、 普通の短靴で捻った場合はかなりダメージが大きいようだ。 痛みもこれ程とは思わなかったので、 少々驚いている。
インターネットで捻挫について調べたところ、 しっかりした治療を怠ると 捻挫が慢性化する場合もあると書いてある。 単に湿布薬を貼って冷やすことだけしかしておらず、 また事件発生から既に 7日も経っている現在でも痛みが少し残っているこの状況は チョット不安である。 医者嫌いであるが、 このままの状態が続いたら医者に行かねばなるまい。
さて、 そういう訳で山に行けずにヒマができたので、 少し昨年登った山のデータを整理したのだったが、 振り返ってみると 昨年の体たらくな山行履歴の中で印象に残っているのは、 登った山々よりもむしろ 雁坂峠、雁峠 という奥秩父らしい峠の方であったような気がする。
この 2つの峠とも 周辺は明るいササ原とカヤトの原が広がり、 また展望も良く、 登りついた際に開放感と清々しさを覚える素晴らしい場所なのである。私は両方の峠とも山梨県側から登ったのだったが、秩父側から登った場合には、登り着いた途端に 富士山 やあるいは甲斐の山々が目に飛び込んできて、恐らく 感嘆の声を発するであろうことは間違いない。 こんな素晴らしい峠を これまで知らずに登らなかった自分の不明を恥じ入るばかりであるが、 雁坂峠の写真を見ていて フト 「峠」 というのは一体何だろう という疑問が湧いてきたのであった。
広辞苑で調べると、峠とは 『山の坂路を登りつめたところ。山の上りから下りにかかる境。』 とある。ついでに、広辞苑には 「峠」 という呼び方の由来まで書いてあり、 それによると 『 タムケ (手向) の転。 通行者が道祖神に手向けをするからという。 「峠」 は国字 』 とあった。
確かに、山ヘンに上下と書いて 「トウゲ」 というのはなかなかうまい字を作ったという気がするが、 ここで私は今まで 「峠」 について 大変な思い違いをしていたことに気づいたのであった。無論、私は 「峠」 が広辞苑に書いてある通りの意味であることは知っていたものの、それは漠然としか意識しておらず、山を縦走中に出くわす多くの 「峠」 を 単なる通過点としか見ていないことが多かったのである。 それでも 「峠」 の定義は頭に入っていたから、 峠の状況によって、『どうして山と山との鞍部に「峠」 が存在することがあるのだろう ?』 といった疑問を持つことが多かったのであった。 定義から言えば、 「峠」 はピークになければならず、 そうでない 「鞍部」 に 「峠」 が存在するはずがないからである。 そして、これが先程の 「峠」 とは何ぞや という疑問を生じさせた訳である。
そしてようやく気が付いたのであった。イヤー、お恥ずかしい限りである。「峠」 を登山 (道) の方から見ていたから 「鞍部にある峠とは ?」 といった愚かな疑問が生じるのであり、 「峠」 が一般の人が往来する道の視点から見たものである ということに気づかなかったのである。
江戸時代まで (と言っても良いと思う) に生活道として造られた道は、山脈が目の前に立ち塞がっている場合、トンネルを作りようがないから必然的に山を越えるしかなく、 そのため山が険しくない場所を選んで山を越える道が造られた訳で、 その山越えとなる箇所が 「峠」 になるということなのである。
例えば、 甲斐の国から秩父の国に行くには、 屏風のように目の前に立ちふさがる奥秩父の山々を越えていく必要がある訳で、 そんな条件の中 造られた道が雁坂峠を最大のピークとした雁坂みちなのである。
先日、本社ヶ丸に登った際に歩いた御坂みちも、 河口湖側から御坂町へと抜けるために作られた道に違いなく、 御坂峠や旧御坂峠は それぞれそばにあるトンネルができる前は道のピークだったはずである。そして、一方で明治以降登山が盛んになってドンドンと造られた登山道のうち、尾根筋を縦走するものは必然的に昔の一般道と 「峠」 でクロスすることになる訳で、 登山道の方から見れば 「峠」 が鞍部にあるという形になり、 私の愚かな疑問に繋がるという次第なのである。
本当にこの年になるまでこんな単純なことを理解していなかったとは お恥ずかしい限りである。
少し言い訳をさせてもらえば、 「峠」 の中には雁峠や将監峠のように、 峠を越えた後の道が今では廃れてなくなってしまっているものもあって、 本来の峠道の役割に気づかず、 その峠を通る登山道の方をメインに考えてしまうケースが多々あるからである。 苦しい言い訳だが、 先般、本社ヶ丸に登った際に通った清八峠も このケースに当てはまるものと思われる。
もっとも、 私の記憶が確かならば、 三ツ峠山 から清八峠への道は 今は三ツ峠山から大幡八丁峠 (昔は宝八丁峠と言っていたような記憶がある) を過ぎて清八山を登り越えていくようになっているものの、 私がこの道を辿った 1989年当時は、 清八山を巻く崩れかけた斜面を ロープ伝いに横切って清八峠に登り着いた気がするのであるが・・・。昔は多くの人々が往来した峠道も、時代とともにその役割を終えてしまったものが多いはずである。 今は立派な自動車道路に変わって、峠の方もその名を留めている 奥秩父で言えば青梅街道と柳沢峠のような場合は大変幸せと言える訳で、 この他、大菩薩峠や雁坂峠を通る道のように登山道として残っているもの、 国師ヶ岳 近くの大弛峠を通る道のように 林道として残っているもの、 全く本来の道は失われ 逆にそこをクロスする登山道がメインとなって峠の名前だけ残っているもの (ちょっと例は思い浮かばないが・・・)、 そして人知れず忘れ去られたものとに分かれるのであろう。
登山という概念がない時代に、 人々を山に登らせた峠道及び峠にはもう少し敬意を払うべきであった。 今度山の中で 「峠」 に出会ったら、 その役割、位置づけを良く考えてみたい。
こういった観点から振り返ると、 先般登った 釈迦ヶ岳 を例にとれば、 新道峠、日向坂峠、大石峠といった峠が かつて持っていたであろう役割を大いに感じることができる訳で、 単に登山の際の通過ポイントと考えていた自分が恥ずかしい。 そして、途中のすずらん峠などは、 一方の峠道が今は廃れてしまったのではないか などと想像できる訳である。 これは面白い。
こういう見方をすれば 登山が更に楽しくなるに違いない。