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国事に私情を持ち込む政治家、軍人
大東亜戦争時の日米の政治家、軍人を例として
2025年9月20日

始めに
この記事を書いているのは、1950年(昭和25年)生まれの人間で、学校の歴史の授業では、 古代から話が始まり、せいぜい明治維新までしか進まなかったような気がする。 社会科の教師は、明治維新から先の近・現代史は意識的に避けていたのかもしれない。 したがって、大東亜戦争に関しても深く考察したり調べたりすることはなく、 せいぜい雑誌などで断片的に知るだけだった。

そして今年(2025年)は大東亜戦争終結(敗戦)80年、昭和の年号になおすと昭和100年だが、 ふとしたきっかけで、「人間はなぜ戦争をするのか」(日下公人著、クレスト社 1996年) という本を入手したので、この本を元に先の戦争を振り返るとともに、日米の政治家、 軍人が如何におのれの私的事情を持ち込んで国の方針を決定していたかを検証してみた。
まず「人間はなぜ戦争をするのか」の冒頭(序文)の一部を掲げておく。

○日本人は戦争を「道徳」で考え、「個人の良心のレベル」で答えを出そうとする。これはほとんど宗教である。

○目本では、戦争の歴史は真実を離れて単なる道徳の教科書になっている。「反省」と「謝罪」と「不戦の決意」が結論で、なぜそうなるかについてまで考えることは禁じられている。そんなこどを考える人は、それだけでたちまち反省が足りないとされる。

○「反省派」の人たちに問いたい。あなたは何を反省しているのか。第二次大戦の実際を知らなくては反省もできないではないか。「不戦決意派」の人にも聞きたい。あなたはどうすれば戦争を防げるか、研究したことがあるか。

○「謝罪派」の人にも問いたい。日本は何をしたか、何をしていないか。それを「日本国家」と「日本軍」と「日本人一般」と「日本人の一部」に分けて考えてみたことがあるか。五十年前の世界の常識はどんなものだったのか、それを知った上での謝罪でなければ値打ちがない。それから目本の侵略戦争が一番最近で、最後だから罪が重いと考えている人がいるが、それは本当か。

○戦争には戦争の論理があり、法則がある。それを心得ていなくては、戦争の予防も治療もできない。勝利を得ることもできない。それからもっと大事なことだが、国際外交ができない。経済外交だけでなんとか暮らせた時代は終ろうとしている。これからの外交は、親善から戦争までを含んだ本来の姿に戻るのである。

○東西冷戦が終って、旧社会主義国の人たちが、国際的イデオロギーの追求より個人経済の向上を求めるようになったのはよいが、それを日本式に「自分が働く」方法で実現するのは大変だと気がついた人たちがいる。なんとかして「他人を働かせる」方法はないか、「他人の富を奪う」方法はないかと、「近道」を考える勢力が台頭している。

○冷戦の主役だった米・露(ソ連)・英・仏・中の五大国は、軍需産業の民生転用を図るより、むしろ「紛争を作り出して」武力を行使したり、武器を輸出するほうが、豊かさへの「近道」だと考えるようになった。

○先進諸国には強大な核兵器と軍需産業が残っている。後進諸国には豊かさへの渇望と、ネズミ算的な人口増加がある。人口増加国は精強な兵士を持つことができる。兵器は製造できなくても、いくらでも買うことができる。


プロシアの名将カール・フォン・クラウゼビッツは、その著「戦争論」の中で、 「戦争は、他の手段をもってする政治の継続にほかならない」と書いている。 すなわち、「戦争とは外交の一手段である」といっているのだが、 このことを理解せず、ただ闇雲に戦争に突入したのが昭和の軍部だった。 開戦するなら、その前に戦争の大義名分を考え、どこで手を打つか、 そのための下工作をどのように行なうか、これらの設計をしっかり構築しておく べきであった。

日露戦争時には、上記の設計がしっかりできていたからこそ、辛うじて「勝ち」を 手にすることができたが、その後の軍部はこのことを学ばず、 ひたすら傲慢な道に走ってしまった。

「歴史の必然」を持ち出す人がいるが、一国の運営を司る政治家や軍人、官僚の中に、 その国の運営という公事(おおやけごと)に私事(わたくしごとを)を持ち込む輩が 少なからず存在している。その個人的な背景を探ると、歴史の転換理由が理解できる例が多い。

ここでは、大東亜戦争時の日米の政治家、軍人を例としてその例を検証してみた。


近衛文麿
この人は大東亜戦争突入時の首相だが、日米開戦に至る分岐点を調べてみると、 個人の事情という要素を度外視して考えることはできない。 決して「歴史の必然」とはいえない事情が現われてくる。

近衛文麿が首相に就任した時(1941年7月:第三次)、お公家さんだから無茶はしないだろう、 陸海軍を抑えられるだろう、いさぎよく支那から撤退するかもしれない、と国民は期待した。

陸海軍も、アメリカと戦えば負けるのがわかっていたので、近衛に期待する人はいた。 帝国陸軍はロシアを仮想敵国として造りあげてきたので、アメリカやインドシナ方面に作戦を遂行することは想定していなかった。そこで海軍に対して「アメリカとの戦争はできません」 と言ってくれと頼んだ。ところが、及川古志郎海軍大臣や岡敬純軍務局長は、 「膨大な予算をもらってきていて、今さら弱気なことは言えない」と断わってしまった。

仮に海軍が陸軍の頼みを聞き入れて戦争遂行の消極論を言い出せば、 「海軍が腰抜けだからやめた」と言うのではないか。 そうなると「陸軍の格好の宣伝になってしまう」と、海軍大臣や軍務局長らは考えた。 だから、海軍は「総理一任」ということにした。

ここでも国としての最善の策を真摯に模索するという態度はそっちのけにされ、 陸海軍それぞれのメンツ、省益が優先されている。

近衛は何も決められなかったという多数説と、対米戦もまたよし、 と思っていたという少数説があるが、どちらにせよ、「国より自分のメンツと保身」を 優先しただけのことだ。ここには「歴史の必然」などカケラも認められない。


山本五十六
「凡将・山本五十六」(生出寿著、現代史出版会 1983年)という本には、 山本五十六はまさに自分の都合、保身と出世、海軍の省益を最優先する 軍人だった事例が満載されている。

1936年11月から海軍次官に就任していた山本五十六が連合艦隊司令長官に任命されたのは、 昭和14年8月30日だが、その時の米内光政海軍大臣が山本を任命した理由が 何ともふるっている。「海軍大臣のほうがよかったかもしれないが、 そうなると陸軍の手先か右翼によって暗殺されるかもしれない」ということだった。

海軍はドイツ、イタリアとの三国同盟締結および対米開戦には反対で、 陸軍と対立していた。山本五十六には、三国同盟締結阻止、対米開戦反対に 尽力させるべきだった。従ってこれは、時局に応じた「適材適所」ではなく、 ただ私情に流されただけの人事である。このことは、軍人たる者、常住座臥、戦場にいる という覚悟ができていない証しである。

これは、日露戦争直前の連合艦隊司令長官の任命人事のいきさつに比べると雲泥の差だった。 その当時の山本権兵衞海軍大臣は、常備艦隊(のちの連合艦隊)司令長官である 日高壮乃丞を辞任させ、舞鶴鎮守府司令長官という閑職にあった 東郷平八郎を長官につけた。 理由は、日高壮乃丞は才気にあふれるあまり、大本営の命令に従わない可能性があるが、 東郷平八郎にはその心配が全くない、というものであった。 山本権兵衞と日高壮乃丞は戊辰戦争をともに戦い、築地の海軍兵学寮の入学も 同期で、いわば青年期からの盟友だったが、私情に流されることなく「適材適所」を 貫いたのである。

一方、山本五十六は軍政には精通しているが、戦術家ではなかったので、 この人事はミスマッチだった。連合艦隊司令長官の資質に適しているのは、 戦術のエキスパートである嶋田繁太郎(支那方面艦隊司令長官;当時)だった。

実際に、山本が提案したハワイ奇襲攻撃やミッドウェー攻略は、戦略、戦術ともに稚拙で、 やらずもがなの作戦だった(後述)。

昭和16年8月の時点で、連合艦隊司令長官としての山本の在任期間は2年を 迎えようとしていた。通常は長官交代の時期だったが、時の及川古志郎海軍大臣は、 山本を大本営にもどすと、三国同盟締結および日米開戦を阻止する動きを見せ、 陸軍との軋轢が強まると考え、山本を中央から遠ざけておくために、 山本を更迭しなかった。ここでも、国の将来を見据えた人事は後回しにされている。

当の山本五十六は、対米戦には終始反対していたが、それが避けられないとなれば、 ハワイ奇襲によって機先を制することを強く主張していた。 昭和16年1月7日付の及川海軍大臣に宛てた「戦備に関する意見」という書簡の中で 「日米戦争において我の第一に遂行せざるべからず要項は、 開戦劈頭に敵主力艦隊を猛撃、撃破して、米国海軍および米国民をして 救うべからざる程度にその士気を阻喪せしむること是なり」と書いている。

これが有名な真珠湾攻撃作戦であるが、博打のようなこの作戦は、 周囲の海軍関係者からは、おしなべて反対されていた。 山本五十六は大のバクチ好きで、しかもブラフ(はったり)をかますのが得意だったと 言われていたが、この作戦も山本流のはったりの延長線上にあるといえるだろう。

それと、もうひとつ、日露戦争中のことだが、ロシアのウラジオ艦隊に所属している 軍艦3隻が日本本土に接近したことがあった(明治37年7月)、このときは日本中が 大騒ぎとなり、ウラジオ艦隊を制圧する任務についていた第二艦隊の 司令長官だった上村彦乃丞中将の自宅に群衆が押しかけ、罵声を浴びせたり、 投石するなどの乱暴狼藉をはたらいた。

このような前例があるので、アメリカでも外敵から自国を襲撃されれば、 さぞかしアメリカ国民は震えあがるだろう、と山本は予想していたに相違ない。 自分がそうなら、相手も同じように反応するだろう、という誤った認識である (実際はまったく逆の反応をアメリカ国民は示した)。

それにしても日米開戦反対派の人間が、いざ開戦となればハワイ奇襲攻撃に 固執するとはどういうことだろう?。

開戦するなら、東に向かうのではなく、西すなわちインドシナからインド方面だろう。 そして開戦理由として「民族解放」を強く前面に押し出すべきだった。 本音は独立した新政府からの石油獲得だ。そうすると、アメリカとイギリスは 手を組めなくなり、アメリカの参戦は困難になっていただろう。

もっとも、戦術しか学んでこなかった軍人が国のトップに座っていたのでは、 国際情勢や国家戦略など、まったく理解できていなかったに違いない。

また連合艦隊参謀だった千早正隆は、戦後になってからこの書簡に関して 「山本さんがこの書簡を書いたのは、作戦計画のことよりも、米内さんを 連合艦隊司令長官にしてもらいたいというのが一番の狙いだったと思う」 と言っている。その場合、山本自身は機動部隊司令長官に治まる(格下げ就任)つもりだった。

開戦反対派の米内が連合艦隊司令長官になれば、「日本海軍は、米英を敵にして 戦うように設計されておりません」と言うだろう。そうすれば日米戦は 回避されるだろう。そうなれば山本自身は「日米戦回避」を広言する必要がなくなり、 故郷の人たち(新潟県長岡市)や、海軍周囲の人間から「臆病者、小心者」として 指弾されずにすむ、と考えていたフシがある。これが真意なら、 国として最善の道を探ることはどこへやら、自分のメンツばかりを優先していることになる。

その後の海軍人事は及川海軍大臣に続く嶋田繁太郎海軍大臣、永野修身軍令部総長という 顔ぶれとなったが、永野修身は就任後間もなく対米戦を支持するようになり、 この三名が開戦に関する海軍の三代責任者となったのである。

ハワイ奇襲作戦に関しても、山本は、「この作戦が却下されるなら、 連合艦隊司令長官の職を辞する」とまでいってゴネタにも拘わらず、 いざ蓋を開けてみると、自分は瀬戸内海の柱島に碇泊している戦艦長門に居座ったままで、 実行部隊の司令長官には南雲忠一中将を送り込んでいる。 あれだけ奇襲作戦をゴリ押ししたのなら、自身が先頭に立って実行部隊を率いるべきであろう。

海軍首脳は、何に遠慮して山本のゴリ押しを受け入れたのだろうか? そのまま却下して山本を艦隊司令長官から辞任させればよかったと思うのだが、 このあたりの人事は、海軍の「仲良しクラブ」の雰囲気が色濃く感じられる。 ここでも情実人事の匂いがプンプンしている。

そして「奇襲作戦成功」の報せを受け取るや、山本は「実行部隊を収容する」 という名目のもと、昭和16年12月8日正午に連合艦隊主力部隊を率いて柱島を出発し、 小笠原諸島まで到達した後、特に何もせず、12月13日には柱島に帰還している。 これは明らかに、自分も作戦に参加したという形を取ることによる 加俸や勲章を目的とした行動である。


真珠湾攻撃は失敗だった
しかしこの真珠湾攻撃は一応「成功した」とはいっても、 当日は真珠湾に空母は一隻も碇泊していなかったので、 当然のこと撃沈できず、撃沈したという戦艦も、水深が浅いために引き上げて 修復したりして数ヶ月後には現場復帰を果たしている。

実は、日本軍による奇襲を前もって知っていたルーズベルトは、ハワイの米太平洋艦隊に 所属する3隻の空母のうちエンタープライズをウェーク島に、レキシントンを ミッドウェー島に適当な理由をつけて派遣し、真珠湾から退避させていたのである (サラトガはサンディエゴで整備中だった)。

そして日本からの宣戦布告が攻撃開始時刻よりも遅れたこともあり、 参戦反対派が多数を占めるアメリカ国民は、このニュースを耳にするや、 闇討ち、だまし討ちをされたと思い込み込み、「リメンバー・パール・ハーバー」 の標語のもと、一気に開戦派に傾くのである。

とうてい「米国海軍および米国民をして救うべからざる程度にその士気を阻喪せしむる」 という目的を達したとはいえず、アメリカにとってはほんのかすり傷程度で、 その意味ではまったくの逆効果だった。

山本五十六は2年間もアメリカに留学(ハーバード大学)して、何を見てきたのだろう。 裏ではどうであれ、表向きには正々堂々(フェア)を重んじるアメリカ国民の気性を まるで理解していなかったと言わざるを得ない。

なお、ルーズベルトがこの真珠湾攻撃をあらかじめ知っていたという事実は 現在では衆知のことである。
「真珠湾」事前に知っていたルーズベルト


ミッドウェー作戦の失敗
ミッドウェー海戦:1942年6月5日~7日
昭和17年3月初旬の時点で、陸海軍はフィジー、サモア、ニューカレドニアの諸島を 陸海軍共同で占領し、米豪間の連絡を遮断してオーストラリアを孤立させることで 合意していた(FS作戦:6月下旬に実行予定)。

ところが連合艦隊司令部は、この作戦実行の前にミッドウェー島攻略を 行なう必要があると言い出した。その理由は、「ミッドウェーから発進した 米空母部隊が日本本土を空襲するのを防ぎたい」というものだった。

ネットやYouTubeでは、この海戦の目的は「ミッドウェー島を攻略し、 アメリカ艦隊を誘い出して捕捉撃滅すること」という解説が主流である。 この解説を容認するとしても、「攻略と撃滅という目的が2つある作戦」は 戦術上きわめて不適切である。大部隊を指揮する時、ひとつの目的から もう一つの目的に移行するとき、混乱を来すことは避けられない。 したがって戦術としては最悪である。

そしてミッドウェー攻略と敵艦隊の撃滅を目的とするのは、結局は 「米軍による本土空襲を阻止するため」である。

ミッドウェー島は日本から東へおよそ4100Km、ハワイの西北2800Kmの位置にあり、 攻略は容易であるとしても、物資や兵員の輸送(兵站)が難しいことは 素人でもわかることである。当然ながら陸軍、海軍ともに猛反対したが、 ここでも山本はゴネまくったのである。 そして連合艦隊司令部、軍令部、陸軍の間でおよそ1ヶ月間すったもんだの駆け引きの末、 この作戦は4月16日に正式発令された。

これを発案したのは、山本五十六が極度に「米軍による日本本土攻撃」によって 国民から非難を浴びるのを恐れたからだろうと、このサイトの管理人はみている。

実際、4月18日には空母ホーネットを発進したドーリットル中佐率いる16機の 米国陸軍B25爆撃機が、東京、名古屋、大阪に散発的に空襲を実行し、 中国本土やウラジオストックに飛び去っている。日本の被害はほんの僅かだったが、 どうしたことか日本政府や陸海軍の首脳部は大きなショックを受けたのである。 このショックも、自分たちのメンツを潰されたことによるものだろう。 まったく、どいつもこいつも自分の保身とメンツばかりを気にしていて、 日本全体のことを客観的に判断する目を失っているとしか思えない。

結局、この作戦は機動部隊の判断ミスによって大敗北を喫し、 戦況は一気に日本にとって不利となってゆく。

日本側の損失:
実行部隊の空母4隻すべて(赤城、加賀、蒼竜、飛竜)
重巡洋艦1隻
航空機およそ320機
戦死者およそ3千人

アメリカ側の損失:
空母3隻中ヨークタウン1隻と駆逐艦1隻
航空機およそ150機
戦死者307人

この時の海軍の戦力構成は、アリューシャン列島攻略のための機動部隊と ミッドウェー攻略部隊、連合艦隊主力部隊の3つに分散していて、 戦術の基本である「戦力の逐次投入は不可」を破っていた。

戦術の基本を無視したうえ、作戦成功を楽観していた山本五十六は、 ミッドウェー機動部隊を後方から支援するとして、連合艦隊主力(旗艦=戦艦大和)を率い、 そのはるか後方560Kmをのこのこ「随行」して行ったのである。 主力部隊が空母を囲み、空からの攻撃を防いでいれば、 あのような惨敗はなかっただろうに。

また日露戦時の艦隊同士による決戦を目指しているなら、なおのこと 実行部隊とともに進航しないとダメだろう。

山本五十六は、ハワイ奇襲作戦の時のように、自分も作戦に参加していることを装い、 加俸や勲章を目的にしていたとしか思えない。とにかくこの人物は最前線で 戦うことを避けていたようである。

戦後、空母赤城飛行隊長だった淵田美津雄中佐、第二機動部隊の参謀だった 奥宮正武中佐が著した「ミッドウェー」(日本出版協同・1951年)のなかで、 「運命の五分間」つまりあと5分あれば日本側の攻撃隊が発艦できた、と書いている。

これは機動部隊首脳の無能ぶりを糊塗するための明らかなでっちあげだった。 「陸用爆弾から魚雷に兵装転換の5分間のために米軍の攻撃を防げなかった」 という、ありもしないをことを書いたのである。

この言い訳がまったくのでっち上げ、ウソであることは、 「滄海よ眠れ ミッドウェー海戦の生と死」 (全16巻 毎日新聞社 1984年)の中で、澤地久枝が当時の戦闘員から逐一聞き取り調査し、 証明している。

また海戦後、連合艦隊首脳(山本五十六大将、南雲忠一中将、山口多聞少将以下の参謀たち) にはなんのお咎めもなく、格下ともいえる空母赤城の艦長だった青木泰二郎大佐は予備役にまわされ、沈没した空母四隻の多数の下級士官や下士官兵たちは、 この海戦惨敗の口封じのために南海の遠い島々や僻地の最前線に飛ばされた。 いわゆる「トカゲの尻尾切り」である。

これも要するに海軍首脳部の「仲良しクラブ」的な情実人事である。 それにしても山本五十六という人物は、作戦発想があくまでも「自分のメンツ」第一で、 なんの合理的な根拠のない作戦ばかりを提案したものだ。こうなると「凡将」ではなく 「愚将」と言わざるをえない。


山本五十六は臆病者、小心者だった?
「凡将・山本五十六」の中で「山本五十六の世論恐怖症」という章を立てて、 五十六が希代の臆病者だったのはないか、を論じているので、 それを抄録してみる。

山本五十六の父は旧越後長岡藩士高野貞吉(禄高120石)である(六男)。 そして五十六が海軍大学校を卒業する31才の時に、断絶していた長岡藩の上席家老の 家名「山本家」を継いでいる。五十六は「山本家の家名を汚してはならない」 という思いが常に頭の中にあったのではないかと、当サイト管理人は推量する。

そしてアメリカ軍による本土空襲によって海軍、ひいては自分や山本家の評判が 貶められるのをまえもって防ぐために考え出したのがミッドウェー攻略作戦だったと 管理人は考える。ここには国家戦略などどこにもみられない。

このことは、長州藩士高杉小忠太(200石)の長男として生まれた高杉晋作に比べると 雲泥の差である。

またハワイ奇襲攻撃の際には瀬戸内海の柱島に碇泊していた旗艦長門に居座ったり、 ミッドウェー攻略に際しても、戦艦大和に乗って実行部隊の遙か後方(560Km)を ついて行ったことなどを考えあわせると、性格としても「臆病」だったように思われる。

ミッドウェー海戦5日前の1942年5月30日の時点で、戦艦大和上の連合艦隊司令部は 「敵の有力なる機動部隊がハワイを出航した可能性が大きい」という情報を つかんでいた(参謀長宇垣纏の日記)。しかしこの情報を実行部隊に知らせると 大和の位置が敵に知れてしまうことを怖れ、「実行部隊も知っているだろう」と楽観して、 知らせなかった。これも、大和が攻撃されないようにという思惑から出た措置だった。 もっとも、この作戦も「奇襲」であるため、まえもって「無線封止」を 通達していたのではあるが、たとえこの通信が米軍に傍受されたとしても、 「大和」の位置が敵に知れるだけで、機動部隊の位置がばれることはないのである。


ドイツ外務大臣リッベントロップ
ドイツの対英開戦に関しても、「歴史の必然」などどこへやら、 時のトップ政治家が私情を優先した形跡が見て取れる。

ドイツの対英開戦にも複数の要因があったが、1939年(昭和14年)当時、 ヒトラーはイギリスと戦争する気はあまりなかった。 しかし、外務大臣リッベントロップが対英開戦を強く主張したのだ。

彼はイギリス大使就任時、自分の子どもをイギリスの上流階級の学校へ入れようとしたら、 入学を拒否されてしまったのである。自分の息子の特別扱いを期待していたのが、 断られてしまったので、このことに憤慨し、帰国後は対英開戦を主張する急先鋒になった。 ここでも個人的な事情が優先されている。


フランクリン・ルーズベルト
日米開戦前、米国大統領フランクリン・ルーズベルトは「欧州の戦争には参戦しない」 という公約で大統領に当選したので(1940年11月に3選)、 自分から参戦するとは広言できなかった。 アメリカ国民も欧州の戦争に参戦することには大多数が反対だった。

ところがルーズベルトの母方の祖父はアヘンの密売で巨万の富を手にした人物で、 ルーズベルトは大金持ちのお坊ちゃん気質で、幼い頃から支那に侵攻した日本に対して、 祖父から憎悪の念を植えつけられていた。そして英国はなんとしてもアメリカを参戦させたいと 考えており、ルーズベルトも英国に加担したいと考えていたので、 参戦する口実をでっちあげるために、日本が先に立ち上がるように仕向けてきた。 それがABCD包囲網と、日本にとって到底受け入れることのできない項目を掲げた ハル・ノートの突きつけだった。 その結果、日本海軍は機動部隊をハワイに送り、真珠湾攻撃を実行することになったのである。

なお、このハル・ノートは当時米国民には公表されず秘匿されたままだった。公表すれば、反戦派の国民から猛反発を食らうことが明らかだったためである。

○米軍のガダルカナル島攻略は、ルーズベルトの「中間選挙対策」だった
1941年12月8日(昭和16年)から1942年の春まで、米国にとっては悪いニュースばかりだった。 このままでは、1942年11月の中間選挙で民主党は危ないという状況だった。 そこで何か民主党に有利な話題を提供するために考え出されたのが、この作戦だった。

作戦は1942年(昭和17年)8月7日に開始された。急遽計画された作戦のため、 準備不足もあって当初は日本軍が有利に戦っていたが、後半は日本軍 (三川軍一中将率いる第八艦隊)のミスのおかげで米軍は大成功をおさめた。

この作戦成功のおかげで同年11月の中間選挙も、それに続く2年後の大統領選挙(1944年11月)も ルーズベルトは無事に乗り切ったのである。


トルーマン
トルーマンは、子どもの頃からひ弱い坊やと言われていた. 1945年4月12日、ルーズベルトが脳出血で急死したあとを継いで大統領になった時には、 頼りないという世間の評判だった。本人も当初は自信が持てないと日記に書いている。 だから、男らしいところを見せようと振る舞っているところへ 原爆完成の報告がきたので、早速、原爆投下を決定したのだと暴露している人がいる。
「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」
(ロナルド・タカキ著、山岡洋一訳、草思社刊 1995年)

また、ルーズベルトと同様、トルーマンも極端な人種差別主義者で、 アジア人は「獣」としか認めていなかった。だから日本人が何十万人死のうが、 まったく良心の呵責を感じることはなかったと、 戦後のメディアのインタビューに答えている。
最初から落とすつもりだった原爆

原爆投下の本当の理由はソ連に対する示威で、目的は戦後の国際社会でアメリカが 主導権を握るためだった。広島や長崎の市民はアメリカの戦後戦略のための犠牲に なったのである。きわめて残念なことに、大東亜戦争後期のB29による日本本土への 大規模空襲や原爆投下など、非戦闘員の大量殺戮を目的とした明らかな戦争犯罪を 糾弾する動きは、国際社会でも、日本国内でも皆無である。

日本では「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(原爆記念碑)とか 「日本国民は、・・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、 われらの安全と生存を保持しようと決意した」(日本国憲法・前文)などの 例に見られるように、連合国側が文句なしの「善」で日本だけが「悪」であったという印 象を与える例が多い。
押し付けられた日本国憲法

先に書いたように「戦争とは外交政策の一手段」であるから、そこにあるのは 「国家間のエゴのぶつかり合い」で、戦争終結にあたっては、仲介国の呼びかけに応じて 対戦国同士の納得する地点の交渉が行なわれる。ここには、どちらが「善」でどちらが 「悪」という概念が入る余地はない。

ところが、ルーズベルトは「戦争とは善と悪のぶつかり合いである」という概念を持ち出し、 (これがすなわちイデオロギー戦争)そうなると戦争は一方が完全に降伏するまで 続けられることになる。

第二次大戦後もアメリカは「世界の警察」を自認し、世界各国で「民主主義」という 「善」を広める活動を展開しているが、成功したようにみえるのは日本の場合だけで、 あとはことごとく失敗している。


終わりに
夏目漱石は「三四郎」(春陽堂 1909年)の中で、日露戦争に勝って 世の中が浮き足立っている雰囲気の中で、「これから日本もだんだん発展するでしょう」と 三四郎が言うのに対して、広田先生に「滅びるね」と、熊本から東京に向かう汽車の中で 言わせている。実際、この小説が発刊された36年後に、日本は対米戦に敗北し、 事実上滅びてしまった。漱石の慧眼には舌を巻くほかない。 人物の劣化が甚だしいのを見抜いていたのだ。

劇作家の井上ひさし(1934年~2010年)は思春期の頃から、政治家たちの自分勝手で 利権まみれの政治のやり方に絶望していたのだろう。 仙台一高在学中に、日本の中に自分の理想とする国をつくればよいのでは、という着想を得、 ほゞ30年後の1981年に「吉里吉里人」(新潮社)という喜劇仕立ての作品を上梓している。 この人も政治家の劣化に嫌気がさしていたとみられる。

福沢諭吉 (1835年~1901年)
諭吉の父親は大分の中津藩蔵屋敷(大阪の堂島)に勤める下級武士だった。 従って、あまり喧伝されることはないが、諭吉は大阪生まれである。 2才の時に父親が死ぬと大分に戻って成人するが、20才で大阪・北浜にある 緒方洪庵の適塾に入塾している。
有名な話であるが諭吉は幕末(1860年)、遣米使節・木村摂津守の従者として勝海舟が船長を務める咸臨丸に乗ってアメリカを訪れ、ひどく感銘を受けて帰国している。
いわく、「アメリカでは国の将軍を入れ札(投票)で決めている」とか、 「将軍が小間使いの給料の心配までしている」。
「幕藩体制は親の敵でござる」といった福沢諭吉が、大正、昭和、平成、令和に続く 政治のありさまを見たら何というだろうか。

・支那の科挙のようにペーパーテストの成績だけでキャリア官僚を採用する制度 :前例偏重主義と改革に後ろ向きな官僚、定年後の天下り制度
・上は首相から国会議員、下は地方議員まで、資金力のある者が当選する現実
・ハニー・トラップにかかり、どこぞの国の手先・スパイとなりはてている国会議員
・利権にしがみついている議員
・ほとんど世襲制のようになっている二世議員
・30年にもおよぶ経済停滞をもたらしながら、依然として政権を握っている政党
・安価な労働力を目当てとする移民政策
・海外のスパイが日本の技術を盗んでいるのを放置している政府
・外国人による土地やマンション、建物の買い占めを放置している政府
・外国人が日本の健康保険制度や外免切り替え制度、経営管理ビザ、 生活保護制度を悪用しているのを規制しない政府

ああ、このように書いていると、目眩がしてくる。

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