
我が家の近所の鉄道廃線跡
五日市鉄道(JR五日市線)拝島〜立川間
(都立短大, および大神駅付近)
(東京都昭島市)
東京郊外の昭島市内には、かつて五日市鉄道(現・JR五日市線)が青梅鉄道(現・JR青梅線)と並行して、拝島〜立川間に自前の路線を有していましたが、戦時中に不用不急区間として廃止されたのだそうです。私の息子(当時2歳)の初めての散髪をするために昭島市大神町にある美容院へ行ったついでに、その付近に残る同線の廃線跡を初めて目にして、当ページを作り始めました。
戦時中、弾丸に加工する鉄を得るためだけの理由で線路をはがして廃線にしてしまいましたが、もしこの路線が現在も残っていたとしたら、昭島市の街並みは今ある姿とは全く異なったものになっていたことでしょう。
【参考になる文献】宮脇俊三編著「鉄道廃線跡を歩くIV」, pp.74-75(JTBキャンブックス ISBN4-533-02857-8)
都立短大付近(上掲地図の緑丸)
2006年2月撮影
JR立川駅から中央線下り直通で青梅線に進入する際に使われている「青梅第3線」(単線)が、今も現役の五日市鉄道遺構です。そこから分かれて青梅線の南側を並行して走っていた線路跡は、江戸街道に飲み込まれてわかりにくくなっています。同街道の都立短大交差点(昭島市東町四丁目)から始まる細い道に、廃線跡の面影が残っています。

都立短大交差点の南西に、廃線跡の上に建つ家があります(写真中央)。周囲の建物と方角が異なっているので、すぐに気がつきます。

その家の左脇の細道を進むと、木造の古い建物が真ん中に鎮座しています。東町第五自治会館です。廃線になって間もない時期に建てられたのでしょう。

反対側から東町第五自治会館を臨む。廃線跡の道路は手前からここまで拡幅整備されていますが、この会館に阻まれて正面の都立短大交差点に到達できないことがわかります。このように五日市鉄道廃線跡は、道路になっている箇所と、切り売りによって家屋が建っている箇所とが混在しています。家屋でも、塀の連続性に廃線跡の特徴が残っている場所があり、興味深いです。
大神駅付近(上掲地図の青丸)
1999年12月撮影

訪問した際には、ちょうど廃線跡の整備工事が行われていました。工事を告げる看板に「五鉄敷」(五日市鉄道線路敷)という表現が今も生き残っています。

廃線跡から、直交する道路(昭和通り)の橋を西向きに望む。橋の下は人がやっとしゃがめる程度の空間しかなく、柵でふさがれています。存在理由のわからない橋であることが廃線跡であることを示しています。

上記の橋上から廃線跡を東向きに望む。道路でもない不可解な土地が細長く伸びている光景は、廃線跡であることを知らない人でも「これは何だ?」と気がつくでしょう。

上記の橋上から廃線跡を西向きに望む。舗装工事の最中で、歩道も作られるようです。

JR八高線との有名な立体交差個所。安全のためか、ここだけは線路があった当時の深さが保たれており、前後の廃線跡とは階段で上り下りするようになっています。
2000年2月撮影
2000年2月に同じ場所を訪問した際には、道路工事がかなり進んでいました。

廃線跡の正式名称は「市道西725号」のようです。

1999年12月には存在していた昭和通りの橋(上掲写真)は撤去されていました。

廃線跡を道路にして、昭和通りと平面交差させるようです。

道路工事はかなり進んでいます。
2000年4月撮影
工事は完了し、なんと「大神駅」を復元したモニュメントが作られていました。

小さなプラットフォームが作られ、JR青梅線から寄贈されたというレールや台車が飾ってありました。この他に信号機や踏切警報機などが周囲に置かれていました。
2003年10月撮影
JR八高線との立体交差は、いつの間にか埋められて通り抜けできなくなっていました。五日市鉄道が走っていた時代の地面は姿を消したことになります。
2004年2月撮影
っと思ったら、2003年度末になって、コンクリート製の立派なアンダークロスが出来ました。
以下は私が撮影しYoutubeにアップロードした、五日市鉄道拝島〜立川間廃線跡の探訪記録映画です。第17回あきる野映画祭フィルムコンテスト15」(2001年)一次予選通過、二次審査落ちでした。
2000年1月20日開設
2013年3月17日最終更新
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