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修学院離宮、京都御所
Shuugakuin Rikyu, Kyoto Gosho

修学院離宮のハイライトともいえる浴竜池。堰堤でせき止めた人工湖です。まだ雨は降っていないけれど不穏な空。

 京都には皇室関連施設があちこちにあり、それらは見学は無料なのですが、宮内庁への事前予約が必要ということになっています。まあ明治以前に天皇は代々ずっとこの地にいたのだからそういうものなのでしょう。人気の桂離宮は予約開始日に一気に埋まってしまうようですが、修学院はそこまでではないし、京都御所は比較的大人数を受け入れられることから取りやすい。そんなことから、今回は予約が取れた2施設を訪ねることにしました。

 修学院離宮
 離宮というのは、皇居・・・皇室が住む場所以外のものをさすそうで、別荘とまではいかないけれど、別邸という感じでしょうか。後水尾天皇の指示で、17世紀中頃に作られたとあります。天皇退位後の別邸で、こういうものを作ってしまうというのも、権力の大きさを感じます。とはいえどこかの国のように金ぴかのものではない。自然と対話し、自然を楽しむための施設といえるかもしれません。でもその自然はありのままではなく、人間が手を加え、それに動植物が応えているものなのですが。
 
 天皇も昔は終身制度でなく、ある時期で退位していたのですね。ここでリタイヤの後の気ままな時間を送ったのでしょうか。後水尾天皇はウィキによれば「退位後にも中宮以外の女性に30余人の子を産ませ、56歳で出家した後も精力や欲求は衰えず、58歳で後の霊元天皇を産ませている。」とあります。いやマメというか、根っからの好き者だったのでしょう。そこからくるイメージとここ修学院が全く結びつかないのですが。
 
 ここのロケーションの一番の特徴は下離宮、中離宮、上離宮と3つに分かれていることでしょう。その間は借景としての田園地帯・・・具体には水田が配置されています。そこまでを離宮としなかったのは資金が無かったからなのかどうかは分かりません。離宮本体でも54haという大規模なものです。多分人々の自然への働きかけ・・・農作業を借景にしたかったのでしょう。単に庭だけでは面白くない。人々の農作業も、その結果としての四季の移ろいを楽しみたい。そんな所だったのでしょう。結果山の上までダイナミックに離宮が配置されています。また水田は戦後に宮内庁が買い上げ、周辺の農家の人々に耕作委託をしているようです。そうしないとこの景観が維持出来なくなるという危機感が、高度成長期にあったのだと思います。
 
 行った日は曇りで、天気は下り坂。何とかもっていた天気も見学の最後になってポツポツと雨が降り出し、それがここを出てバス停に行く頃に大降りになり、午後には記録的集中豪雨となっていくのでした。そんなこともあり、印象に残った訪問でした。

 

表総門を入るとこの風景が飛び込んできました。手入れの良さ、そして品格を感じます。8月なのに紅葉の予兆が。 上離宮に立つ雲隣亭。晴れていたらいい眺めでしょうね。足許に埋め込まれた小石がなかなかです。
雲の隣とは随分大きく出たと思っていたら、徐々に雨が近づいてきて、雲が棚引いてきました。もう少しで霧が雲隣亭まで届きそうです。 上離宮に行く道の周辺の水田。とても奇麗に耕作しています。ところでここで収穫した米はどうするのでしょうか。
雲隣亭から見た浴竜池。堰堤によって池を作った結果、その向こう側との高低差がかなり生じたというのが分かります。言わばダム湖になる訳か。下界が低くなりました。かなり登ってきたのですね。
京都御所
 都市の真ん中に天皇の居住する場所があったのが京都、そしてあるのは東京ということになります。東京は江戸城西の丸や吹上火除け地あたりが明治以降皇居になったのに対し、京都は日本建築史図集によれば、「南北朝に里内裏のひとつであった東洞院土御門殿(ひがしのとういんつちみかどどの)の地で、以降ここが皇居となった」とあります。南北朝時代の混乱の中でそれとはいわずここに収斂していったのでしょうか。ちょっと北寄りの市街の中心、ロケーションは非常にいいといえます。まあ市街に起伏はありませんから、地形的特徴はありません。
 
 しかし建物構成はよく分からないのです。建てては火災で焼け、また再建し、時にあちらこちらに移築し、また新築し・・・と非常にせわしなく複雑なのです。そして全体計画がしっかりしておらず、あちらこちらに半分気ままに建てられている感がします。シンボリックなのは正面の建礼門、承明門、紫宸殿と続く部分だけで、あとはばらばらというか、まるで増築を繰り返した地方の老舗旅館のような、といっては失礼ですが、そんな気もします。日本の都市内の建物の宿命としての火災によって、何度も増改築が成された結果なのでしょう。
 
 そうした背景があるのですが、建築史図集によれば、寛政の造営にあたって復古が企てられたとあります。寛政年間といえば18世紀末期になるのか。この復古の結果によって、正面の一角が完成し、平安の雰囲気が今に伝わっているのでしょう。とすれば老舗の地方旅館ではなく、蘇った寝殿造だと言っておきましょう。
 
 またここから各地の寺社に移築されたとものが多いというのも面白い。伊勢神宮は遷宮の度に建築部材を各地の神社にもっていって活用したのですが、京都御所では建物ごと移築し、本殿、拝殿、本堂、門などにしたとか。いやいや、日本建築の融通無碍さが何ともいえないですね。
 
 本当はじっくりと建物の時代別変遷などを楽しみかったのですが、その建築や再築の複雑さと、見学時間の制約からどれが何時のものなのか分からなくなり、結局どうでもよくなってきてしまいました。建物の詳細よりは全体の雰囲気を味わう場なのかもしれません。

やはり建礼門が最初に来なくては。正面入り口の門は本当に選ばれた人しか通ることが出来ません。 承明門越しの紫宸殿。儀式の場といえるものは江戸末期の建物だそうです。
新御車寄(しんおくるまよせ)は、大正天皇即位の際に建てられたとか。 清涼殿。こちらは生活の場になるのでしょうか。これも江戸末期の建物。軒の高さが御所っぽいですね。
北東角は鬼門の方向。猿が辻といってここだけ凹ませ、猿を祀り、魔除けとしています。このこだわりよう。猿は金網越しでちょっと残念でした。しかし非常に長い塀ですね。