雄略天皇 ゆうりゃくてんのう 別名:大泊瀬幼武命(おおはつせわかたけのみこと)

允恭天皇の第五皇子。母は忍坂(おしさか)大中姫。
安康三年(西暦463〜464年頃?)十一月、兄の二皇子・眉輪王・圓大臣(葛城氏)・市邊押磐皇子(履中第一皇子)らを滅ぼし、泊瀬朝倉宮に即位。大伴・物部を中心とした伴造系氏族の武力を背景とし、いわゆる「葛城系」の勢力を排除しての即位であった。平群真鳥を大臣、大伴室屋・物部目を大連に任命。雄略九年、朝貢を欠く新羅を征伐するため、大伴談・紀小弓・蘇我韓子らを大将とし、新羅に派遣する。雄略二十一年(477)、百済に任那の一部を割譲し、百済はこの地を新都として再興する。478年、倭王武(雄略天皇説有力)、宋に上表文を送る。「王の先祖が自ら甲冑を纏い山川を跋渉し戦を続け、東は毛人五十五カ国を征し、西は衆夷六十六カ国を服し、海北へ渡り九十五カ国を平らげる」旨ある。順帝、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙す。雄略二十三年(479)八月一日、崩御。陵墓は宮内庁によって丹比高鷲原陵(大阪府羽曳野市島泉)とされているが、大塚山古墳(大阪府松原市西大塚)説も有力視されている。
なお、埼玉県稲荷山古墳出土の大刀の銘文には部分的に日本化された漢文表記で「ワカタケル王」とあり、雄略天皇を指すとする説が有力である。また熊本県江田山古墳出土の鉄刀銘の文字も「ワカタケル」と読め、五世紀後半には大和朝廷の実権が日本全土の大半にまで及んでいた有力な証拠とされている。

雄略天皇の御製と伝わる歌は万葉集に二首、古事記に九首、日本書紀に三首見える。以下には万葉集の二首と古事記の九首、計十一首を抄した。

天皇御製歌

()もよ み()持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 名()らさね そらみつ 大和の国は おしなべて (われ)こそ()れ しきなべて (われ)こそ()せ (われ)こそば ()らめ 家をも名をも (万1-1)

【通釈】おや籠を、籠を持って、おや箆(へら)を、箆を持って、この岡で、菜を摘んでおいでの娘さんよ。お家を聞かせてくれよ。お名前おっしゃいよ。大和の国は、すっかり俺が治めているんだ。あたり一帯、俺が治めているんだ。ではまず、俺の方から名乗ろうよ、家も名前も。

【語釈】◇籠 菜を入れるための竹製の容器。◇掘串 菜を掘るための道具。竹や木で作ったヘラ。◇そらみつ 「大和」の枕詞。語義・掛かり方未詳。神武紀によれば、饒速日命が天磐船に乗って空から大和国を見て天降ったので「そらみつやまと」と言うようになったという。

【補記】万葉集巻頭歌。

【他出】鎌倉後期に編纂された『夫木和歌抄』(静嘉堂文庫蔵本)には雄略天皇御製として次のような形で載る。
 こけころも ちふくしもよ みふくしもて このをかに なつむすこか いゑ(ママ)さけ

【主な派生歌】
里人の家をも名をも花がたみかたみにとひて若菜をぞつむ(飛鳥井雅親)
朝菜つむ野辺のをとめに家とへばぬしだに知らずあとの霞に(*下河辺長流)
しばの野に葛引くをとめ家のらへ此野づかさに葛引くをとめ(*楫取魚彦)
霞たつ春野のさはに袖ひぢて若菜つむ子が家とはましを(本居宣長)
我が岡の雪間にもゆる初わかな家も名のらで摘むは誰が子ぞ(幽真)

泊瀬の朝倉の宮に天の下しらしめす大泊瀬幼武天皇の御製歌一首

夕されば小椋(をぐら)の山に()す鹿は今夜(こよひ)は鳴かず()ねにけらしも(万9-1664)

【通釈】夕方になると、いつも小椋山で臥す鹿が、今夜は鳴かないぞ。もう寝てしまったらしいなあ。

【語釈】◇小椋の山 不詳。奈良県桜井市あたりの山かと言う。平安期以後の歌枕小倉山(京都市右京区)とは別。舒明御製とする巻八の歌(下記参考歌)では原文「小倉乃山」。◇寝(い)ねにけらしも 原文は「寐家良霜」。「寐(い)」は睡眠を意味する名詞。これに下二段動詞「寝」をつけたのが「いね」である。

【補記】万葉集巻九巻頭歌。左注に「右或本云崗本天皇御製、不審正指、因以累載」(右、或る本に云はく、崗本天皇の御製と。正指を審(つばひ)らかにせず、因りて累(かさ)ね載す)とある。万葉集巻八に見える舒明天皇の御製(旧国歌大観番号1511。下記参考歌)との重複についての注記である。舒明御製との違いは第三句「臥鹿之」の「臥す」一語のみ。

【参考歌】舒明天皇「万葉集」巻八
夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも

 

日下部(くさかべ)の 此方(こち)の山と 畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の 此方此方(こちごち)の 山の(かひ)に 立ち(ざか)ゆる 葉広(はびろ)熊白樫(くまがし) (もと)には いくみ(だけ)()ひ 末方(すゑべ)には たしみ(だけ)()ひ いくみ(だけ) いくみは()ず たしみ(だけ) たしには()寝ず 後もくみ寝む その思ひ妻あはれ

【通釈】日下部のこの山と、平群の山と、あっちこっちの山の峡に、さかんに生えている、葉の広い大きな樫の木。下の方には、こんもりと竹が生え、上の方にはぎっしりと竹が生えている。その「いくみ竹」のように、部屋に籠もって寝ることはできず、「たしみ竹」のように、確かに共寝することはできなかった。でも後でしっぽりと寝よう、私の恋しい妻よ、ああ。

【語釈】◇畳薦(たたみこも) 枕詞。畳薦とは真薦(まこも)で作った敷物で、「ひとへ」「ふたへ」と数えることから「へ」を頭音にもつ地名「平群」に掛かるという。◇平群(へぐり) 奈良県生駒郡平群町あたり。

【補記】古事記下巻。雄略天皇は若日下部王(わかくさかべのみこ)を娶ろうと、日下(くさか)の直越えの道を通って河内に行幸した。途中、経緯があって白い犬を得たので、それを妻問いの贈物にすることにしたが、若日下部王は「太陽に背を向けておいでになったのは恐れ多いことですから、私の方から直接宮へ参りましょう」と言ったので、天皇は宮へ戻ることにした。その時山の坂の上に立って詠んだのが上の歌であるという。

 

御諸(みもろ)の 厳白樫(いつかし)がもと 白樫(かし)がもと ゆゆしきかも 白樫原童女(かしはらをとめ)

【通釈】三輪山の神聖な樫の木の下、白樫の木の下は、侵してはならない場所。それみたいに、触れるのも憚られるよ、橿原の乙女は。

【語釈】◇白樫原童女 橿原地方の少女。古事記の文脈では引田赤猪子を指すことになる。

【補記】古事記下巻。次の一首と共に、引田赤猪子に与えた歌として伝わる。

 

引田(ひけた)の 若栗栖原(わかくるすばら) 若くへに ()寝てましもの 老いにけるかも

【通釈】引田の地に、若い栗林があるだろ。あれみたいに、若い時に一緒に寝たかったのに、お前は年老いてしまったなあ。

【補記】古事記下巻。上の二首については、引田赤猪子参照。

 

呉床座(あぐらゐ)の 神の御手(みて)もち 弾く琴に 舞する(をみな) 常世(とこよ)にもがも

【通釈】呉床(あぐら)に座っている神の御手で琴を弾く。それにあわせて舞う女よ、いつまでも若く美しくあってほしい。

【補記】古事記下巻。雄略天皇が吉野に行幸した時、吉野川のほとりで美しい少女を見つけ、性交した。のち、再び吉野に行幸し、同じ場所で少女に再会した。天皇は床几に坐して琴を弾き、少女に舞を舞わせた。その舞が素晴らしかったので、詠んだ歌という。

 

吉野(えしの)の 袁牟漏(をむろ)(たけ)に 猪鹿(しし)伏すと (たれ)ぞ 大前(おほまへ)(まを)す やすみしし 我が大君の 猪鹿(しし)待つと 呉座(あぐら)にいまし 白栲(しろたへ)の 衣手(そて)着そなふ 手腓(たこむら)に (あむ)かきつき その(あむ)を 蜻蛉(あきづ)早咋ひ かくの如 名に負はむと そらみつ (やまと)の国を 蜻蛉島とふ

【通釈】吉野の小牟漏(おむろ)の岳に、獣が隠れていると、誰が俺の大前に申す。そこで大王様たる俺が狩に出かけ、獲物が現れるのを待とうと、呉座にお座りになって、白い袖で覆われた腕の筋肉に、虻が食いつき、その虻を、蜻蛉がさっと来て食い、このように、蜻蛉が自分の名を立てようして、大和の国を蜻蛉島と言う。

【語釈】◇袁牟漏が嶽 東吉野村に小牟漏岳(おむろだけ)と呼ばれる山がある。

【補記】古事記下巻。雄略天皇が秋津野に行幸して狩をしていた時、床几に座していると虻に腕を食われた。その直後、蜻蛉が飛んで来てその虻を食い、飛び去って行った。そこで詠んだのがこの歌であるという。

 

やすみしし 我が大君の 遊ばしし (しし)の 病猪(やみしし)の (うた)き畏み 我が逃げ登りし 在丘(ありを)の 榛の木の枝

【通釈】大王である俺様は、狩で猪を射られた。その猪の、手負いの猪のさ、唸り声があんまり恐ろしいので、俺が逃げ登った、そこの丘の、ハンノキの枝よ。

【補記】古事記下巻。雄略天皇が葛城山で狩猟をした時の歌。

 

媛女(をとめ)の い隠る岡を 金鋤(かなすき)も 五百箇(いほち)もがも 鋤き撥ぬるもの

【通釈】金鋤がいっぱいあればなあ。乙女が隠れている丘を鋤いて、土をはじき飛ばしてやるのに。

【補記】古事記下巻。丸邇(わに)の佐都紀(さつき)臣のむすめ袁杼比売(おどひめ)に求婚しに春日に行幸した時、道で乙女に遇ったが、岡の辺に逃げ隠れてしまった。そこで天皇が詠んだ歌という。

 

ももしきの 大宮人は 鶉鳥(うづらとり) 領布(ひれ)取り懸けて 鶺鴒(まなばしら) 尾()()へ 庭雀 うずすまり居て 今日もかも 酒漬(さかみづ)くらし 高光る 日の宮人 事の 語り言も 是をば

【通釈】宮廷の人々は、鶉のように領布(ひれ)を肩にかけ、鶺鴒(せきれい)の尾のように裳裾(もすそ)を行き交わせ、庭の雀のように群がり集っていて、今日はまあ、酒浸りになっているらしいよ、太陽のようにかがやく宮廷の人たちは。事の語り伝えは、かようでございます。

【語釈】◇ももしきの 「大宮」の枕詞。語義・掛かり方未詳。「百石木」の意で、宮殿は多くの石と木から造られるゆえとする説などがある。◇領布(ひれ) 衣の上から肩にかけて垂らした細長い布で、スカーフのようなもの。女子の装身具。◇高光る 「日」の枕詞。天高く輝く意。◇日の宮人 「日の宮」すなわち天皇の宮廷に仕える人々。

【補記】古事記下巻。長谷(はつせ)の大ケヤキの下で宴会をした時に詠んだ歌。三重采女の歌参照。これは天語歌(あまがたりうた)のひとつ。

 

水灌(みなそそ)く (おみ)嬢子(をとめ) 秀瓶(ほだり)取らすも 秀瓶(ほだり)取り (かた)く取らせ 下堅(したがた)く ()(がた)く取らせ 秀瓶(ほだり)取らす子 

【通釈】臣下の乙女は、りっぱな徳利をお持ちだことよ。りっぱな徳利を、しっかり手にお持ちなさいよ。下も上も、しっかりとお持ちなさいよ、徳利をお持ちの娘さんよ。

【語釈】◇水灌ぐ 「臣」にかかる枕詞。掛かり方未詳。◇秀瓶(ほだり) 酒を注ぐ器。「秀(ほ)」はすぐれていることを示す語。あるいは注ぎ口が突き出ていることを意味するか。◇弥堅く取らせ 「上堅(ウハガタ)く取れか、宇波(ウハ)は和(ワ)と切(ツヅ)まれども、通はして、夜(ヤ)とも云るにや」(古事記伝)。

【補記】古事記下巻。長谷における宴で、袁杼比売(おどひめ)が大御酒を献った時に天皇が詠んだ歌。前半は五・七・七の片歌、後半は五・七・五・七・七の短歌形式。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年03月10日