倭建命 やまとたけるのみこと

日本書紀には日本武尊、古事記には倭建命とある。もとの名は小碓命(おうすのみこと)といい、また倭男具那(やまとおぐな)とも名のった。景行天皇の皇子。両道入姫命(ふたじのいりびめのみこと)・吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)弟橘比売らを妃とし、子には仲哀天皇ほかがいる。叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)は伊勢神宮の神話上の初代斎宮である。
古事記によれば、父景行天皇の命により西征し、熊曾建(くまそたける)・出雲建(いずもたける)を討伐した後、東征して「荒ぶる神、伏(まつろ)わぬ人ども」を悉く平定した。帰途、伊吹山で病を得、伊勢の能煩野(のぼの)で崩じた。この地に陵を作ったが、八尋(やひろ)の白鳥となって天翔り、河内国の志幾(しき)に留まったので、再び陵を作り白鳥(しらとり)の御陵(みささぎ)と名付けた。しかし倭建命の魂はここからも天翔って行ったという。
いわゆる「筑波問答」により、連歌俳諧の祖とされた。
以下は古事記に載る、倭建命御製と伝わる全八首である。

 

やつめさす 出雲建いづもたけるが ける大刀たち つづらさはき さ身無しにあはれ

【通釈】出雲建が腰にさした大刀ね、蔓草をいっぱい巻いてご立派なもんだが、肝心の刀の身がないときちゃあ、おかしいったらないぜ!

【語釈】◇やつめさす 「出雲」の枕詞。語義・掛かり方未詳。

【補記】古事記中巻(以下同じ)。倭建命はまず出雲建と親しくなった上で、ひそかに偽刀を作り、自らの腰にさしておいた。肥の河でともに水浴をしたあと、先に河からあがって出雲建の大刀を佩き、「大刀易えをしよう」と提案した。出雲建も河から出て、倭建命の大刀を佩いた。そこで命は「大刀合せをしよう」と挑み、大刀を抜いたが、出雲建は刀身を抜くことができない。ついに命は出雲建を打ち殺し、この歌を詠んだという。

【主な派生詩歌】
(ほむら)だつ詩歌棄てなむ初霜にうるむ桔梗のさみなしにあはれ(塚本邦雄)
さみなしにあはれ風鐸鳴りいでて天秋秘色悲慕(しぬ)ぶことあり(山中智恵子)
やつめさす/出雲/よせあつめ 縫い合された国/出雲/つくられた神がたり/出雲/借りものの まがいものの/出雲よ/さみなしにあわれ〔後略〕(入沢康夫)

すなはちその国より越えて、甲斐に出でて、酒折さかをりの宮にましましける時に歌ひたまはく

新治にひばり 筑波つくはを過ぎて いく夜か寝つる

ここにその御火焼みひたき老人おきな御歌みうたにつぎて歌よみして曰ひしく、

 かがなべて には九夜ここのよ 日には十日を

【通釈】苦労して蝦夷を平らげたあと、常陸からはるばる甲斐までやって来たものさ。新治を過ぎ、筑波も過ぎて…。いったい、いくつの夜を仮の宿で寝たのだろうか(倭建命)。日数をかさねて、夜で申せば九夜、日で申せば十日でございます(火焚きの老人)。

【語釈】◇新治 常陸国の郡名。筑波山の西北。現在の茨城県新治郡とは異なる。

【補記】天皇に東国征討を命ぜられた倭建命は、尾張・相模などを経て蝦夷の土地に入り、荒ぶる神ともども平らげた。その後、足柄山を越えて甲斐の酒折宮に入って歌を詠み、これに火焚きの翁が答えた。片歌の問答形式と言われるものであるが、後世、連歌の起源とされた。連歌を「筑波の道」とも呼ぶのは、このためである。

【主な派生歌】
都いでて今日ここぬかになりにけり 十日の国にいたりにしがな(大江匡衡・赤染衛門)

ここに大御食おほみけ献る時に、その美夜受比売みやずひめ、大御酒盞さかづきを捧げて献る。ここに美夜受比売、それおすひすそ月経さはりのもの著きたり。かれそを見そなはして、御歌みうたよみしたまはく

ひさかたの あめの香具山 利鎌とがまに さ渡るくび 弱細ひはぼそ 手弱腕たわやがひなを かむとは あれはすれど さ寝むとは 我は思へど せる おすひの裾に 月立ちにけり

【通釈】天の香具山、その上をするどい鎌みたいに見えて、渡ってゆく白鳥の首。あれみたいに細くてしなやかなお前の腕を、抱こうと俺はするけど、いっしょに寝ようと俺は思うけど、お前が着ている上着の裾に、月が出ているのだったよ。

【語釈】◇ひさかたの 「天(あめ)」の枕詞。

【補記】甲斐・信濃を通って尾張に戻った倭建命は、往路に立ち寄って結婚の約束をした美夜受比売の家に入った。そこで御馳走がふるまわれたが、盃を捧げようとした比売の襲(羽織るように着る上衣)の裾に月のさわりのものが付いていた。そこで命が詠んだ歌という。

尾津をつさきの一つ松のもとに到りませるに、先に御食みをしせし時、そこに忘らしたりし御刀みはかし、失せずてなほ有りき。かれ御歌みうたよみしたまはく

尾張に ただに向かへる 尾津の崎なる 一つ松 吾兄あせを 一つ松 人にありせば 大刀佩けましを きぬ著せましを 一つ松 あせを

【通釈】尾張の国に、まっすぐ向かっている、尾津の崎、そこに生えている一本松よ。ああ、お前は、よくぞ俺の大刀を守っていてくれたな。褒美として、一本松よ、お前が人だったなら、大刀を佩かせてやりたかったのに。服を着せてやりたかったのに。一本松よ、ああお前は。

【語釈】◇尾津 伊勢国桑名郡尾津郷。今の三重県桑名市多度町かという。

【補記】伊吹山の山の神の悪気にやられた倭建命は歩くことも困難になり、杖をつきながら、故郷の大和をめざした。伊勢の国の尾津の崎に到ると、往路に忘れてきた大刀が一本松のもとに残っていた。それを見て詠んだ歌という。部分的には五七調をなすが、一貫せず、雑体の歌である。

【主な派生歌】
角田川つつみの桜人ならば笠きせましを蓑かさましを(橘千蔭)

そこよりでまして、能煩野のぼのに到りませる時に、国しのはして歌ひたまはく

やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるはし

【通釈】大和は、たくさんの島や国からなるこの国のなかで、ぬきんでてすぐれたところ。寄り合い重なり合っている、青い垣をめぐらしたよう。そんな山々に包まれている、大和がなつかしい。

【補記】足の病がいよいよ重くなるのに耐えて、能煩野(伊勢国鈴鹿郡)に辿り着き、望郷の思いを詠んだ歌。次の歌とともに、「思国歌」(くにしのひうた)と呼ばれる。

【語釈】◇まほろば 「まほらま」の転。マ(讃美をしめす接頭語)ホ(抜きん出て優れたもの)ラ(漠然と場所をあらわす語)マ(状態をあらわす接尾語)。◇うるはし 姿形が美しいという意味と、愛(いつく)しく思う意味と、両方ある。本居宣長は万葉集に「うるはしと我が思ふ妹を」とある例などをあげ、「愛(うつく)しむことを、宇流波斯(うるはし)と云るなほ多し」と言う(『古事記伝』)。

【主な派生歌】
美豆(みづ)山の青垣山の神樹葉(さかきば)の茂みが奥に吾が魂こもる(*橘曙覧)

 

命の またけむ人は 畳薦たたみこも 平群へぐりの山の 熊白橿くまかしが葉を 髻華うずに挿せ その子

【通釈】俺の命はもう長くないだろう。故郷の土を踏むこともあるまい。だが、無事生き長らえ大和に辿り着いた者は、平群の山の大きい樫の葉を、髪に挿して飾れ。いいかお前たち。忘れるなよ。

【語釈】◇命の 全けむ人は 命が完全であろう人は。◇畳薦 「平群」にかかる枕詞。◇平群の山 奈良県生駒郡平群町あたりの山々。◇髻華 髪や冠に木の葉や花を挿したもの。植物の生命力を自らに付着させるための呪物。◇その子 そこにいた従者たちを指す。「子」は親しみをこめた呼称。

【補記】「倭は…」に続けて詠んだ歌という。

 

しけやし の方よ 雲居ち来も

【通釈】ああなつかしい。俺の家のある方から、雲がたちのぼってくるなあ。

【補記】「命の…」に続けて詠んだ歌。「こは片歌なり」と古事記にある。このあと倭建命の病は急に悪化し、つづいて辞世の歌を詠む。

 

嬢子をとめの とこに 我が置きし つるぎの大刀たち その大刀はや

【通釈】美夜受比売の寝床のかたわらに、俺が置いてきた、剣大刀。あの大刀よ、ああ。あの大刀さえあれば…。

【補記】尾張を発って伊吹山へ向かった時、倭建命は美夜受比売の家に草薙の剣を置いてきた。伊勢神宮で叔母の倭比売から「急な時にはこれを使いなさい」と言われて授かった剣である。この歌を歌い終わるや否や、倭建命は亡くなった。


【読書案内】


更新日:平成15年03月20日
最終更新日:平成21年04月14日