仁徳天皇 にんとくてんのう 別名:大雀命(おおさざきのみこと)

西暦五世紀初め頃の大王。応神天皇の子。母は仲姫命(古事記によれば品陀真若王の王女、中日売命)。難波の高津宮に即位し、葛城襲津彦の娘磐之媛を皇后とする。ほかに日向の髪長媛、異母妹矢田(八田)皇女、吉備の黒比売などを妃とした。履中天皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇の父。
秦人を用いて茨田に堤と三宅を造り、丸邇の池・依羅の池、難波の堀江などを造成した。また墨江(住吉)の港を定めた。西暦413年、東晋の安帝に朝貢した倭王讃(『南史』)、また430年に貢献した倭王(『宋書』)を仁徳天皇と見る説がある。在位八十七年と伝える。陵墓は百舌鳥野陵。
以下には仁徳天皇御製と伝わる歌を古事記より五首、日本書紀より一首、新古今集より一首、計七首掲載した。

天皇、吉備の海部直あまのあたへむすめ、名は黒日売、それ容姿端正かほよしと聞こしめして、召上めさげて使ひたまひき。然れどもその大后のねたますをかしこみて、本つ国に逃げ下りにき。天皇、高台たかどのして、その黒日売の船出するを望瞻みさけまして歌ひたまはく

沖へには 小船をぶねつららく くろざやの まさづ子吾妹わぎも 国へ下らす

【通釈】沖の方には、小舟がたくさん連なって浮かび、美しい俺の奥様が、故郷の国へとお帰りだよ。

【語釈】◇大后 磐之媛。◇くろざやの 不詳。枕詞か。◇まさづ子 不詳。美しい子、あるいは愛しい子の意とする説などがある。

【補記】古事記中巻。仁徳天皇后磐之媛の嫉妬にかかわる一連の説話のうち。磐之媛はこの歌を聞いて激しく怒り、人を遣わして黒日売を船から追い出し、徒歩で行かせた。黒日売が恋しくてならぬ天皇は、淡路島に行幸し、次の歌を詠む。

天皇、その黒日売を恋ひたまひて、大后をあざむかして、淡道島を見たまはむとのりたまひて、でませる時に、淡道島にして、はろばろみさけまして歌ひたまはく

おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島あはしま 自凝おのごろ島 檳榔あぢまさの 島も見ゆ さけつ島見ゆ

【通釈】難波の崎から、船出して、淡路島に着いて、わが領土を眺望すると、淡島、おのごろ島、檳榔(あじまさ)の生える島も見える、離れ島も見えるよ。

【語釈】◇おしてるや 「難波」の枕詞◇淡島 古事記上巻に、伊邪那岐・伊邪那美の国土生成の際、蛭子(ひるこ)に次いで産んだ島として出る。その原文は「淡嶋」であるが、いわゆる万葉仮名を用いた歌謡の原文は「阿波志摩」とある。一説に阿波方面の島かという。◇自凝(おのごろ) 伊邪那岐・伊邪那美が最初に造った島。「おのずから凝り固まった島」の意であろう。一説に淡路島南方の沼島という。◇檳榔(あじまさ)の島 檳榔は蒲葵(ほき)の古名という。シュロに似た木。

【補記】古事記中巻。磐之媛によって追放された黒比売を思い、難波から淡路島に行幸して、島々を眺めて詠んだという歌。古事記の文脈から離れれば、王が自らの領土を眺望し、島々が生成された神代に思いを馳せた国見歌にほかならない。

すなはちその島より伝ひて、吉備の国にでましき。かれ黒日売、その国の山方やまがたところ大坐おほましまさしめて、大御飯おほみけ献りき。ここに大御あつものを煮むとして、そこの菘菜あをなめる時に、天皇その嬢子をとめの菜採むところに到りまして、歌ひたまはく

山県やまがたに 蒔ける青菜も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか

【通釈】山の畑に蒔いた青菜も、吉備の人である黒日売よ、お前といっしょに摘めば、楽しいもんだなあ。

【補記】古事記中巻。

天皇、大后山代やましろより上りでましぬと聞こしめして、舎人名は鳥山と謂ふ人を使はしてける時に、送りたまへる御歌

山代に いけ鳥山 い及けい及け 愛妻はしづまに い及き遇はむかも

【通釈】山代に行ってしまった奥さんに追い着け、鳥山よ。追い着け追い着け、俺の可愛い奥さんに、追い着いて会ってくれよ。

【補記】古事記中巻。磐之媛が紀国に行幸している間に、仁徳天皇は八田若郎女と昼夜遊び戯れていた。難波まで戻ったとき、この話を聞き知った磐之媛は大いに恨み怒り、堀江を遡って山代まで行き、さらに奈良山の手前まで行った。結局故郷の葛城へは帰らず、山代の綴喜(つつき)の地に留まった。天皇はこれを聞いて、鳥山という名の舎人を派遣し、上の歌を送り届けたという。

天皇、八田若郎女やたのわきいらつめを恋ひたまひて、御歌をおくりたまへる。その御歌

八田やたの 一本菅ひともとすげは 子持たず 立ちか荒れなむ あたら菅原すがはら ことをこそ 菅原すがはらと言はめ あたらすが

【通釈】八田に生えている一本の菅は、子も産まずに、立ち枯れして朽ちてしまうのだろうか。もったいない菅原だよ。言葉では菅原と言っておくけど、ほんとうは、お前のことを言ってるんだ。清らかな娘がもったいないよ。

【補記】古事記中巻。皇后の激しい嫉妬に困り果て、天皇は八田郎女を故郷の八田の地に帰した。ひとり寂しく過ごす郎女のもとへ、上の歌を送ったという。郎女の返し歌は、「八田の 一本菅は 独り居りとも 大君し よしと聞こさば 独り居りとも」(私は独りでおりましょうとも、大君がそれでよいと思し召しでしたら、仕方ありません)。

【補記】五・七・五・七・七の短歌に五・七・七の片歌を添えた形式。古事記の木梨軽皇子の歌に同じ形式が見られる。

仁徳天皇十七年十一月、天皇、浮江かはふねより山背にでます。時に桑の、水に沿したがひて流る。天皇、桑の枝をみそなはして御歌よみたまはく

つのさはふ 磐之媛いはのひめが おほろかに 聞こさぬ 末桑うらぐはの樹 寄るましじき 川の隈々くまぐま ろほひ行くかも 末桑うらぐはの樹

【通釈】俺は心のうちでは磐之媛も八田郎女もどっちも好きなんだが、磐之媛がおいそれとは承知してくださらぬ。まるであの桑の木だ。どっちかの岸に寄せようにも寄せられず、川の曲り目ごとに、よろよろと流れて行くなあ、あの桑の木。

【語釈】◇つのさはふ 「磐(いは)」の枕詞。「つの」は綱のことで蔦の意か。「さ」はよく解らないが、「はふ」は「這ふ」で、蔦が這う意から岩に掛かるものと思われる。

【補記】日本書紀巻十一。山背に引き籠ってしまった磐之媛皇后を説得しに、天皇は川舟で淀川を遡った。その時、桑の枝が川を流れて行くのを見て、あっちに寄りこっちに寄り、結局磐之媛にも八田郎女にも逢えなくなってしまった自らの境遇を詠んだ。

みつぎ物ゆるされて、国富めるを御覧じて

高き屋にのぼりて見ればけぶり立つ民のかまどはにぎはひにけり(新古707)

【通釈】高殿に登って国のありさまを見わたすと、民家からは煙がたちのぼっている。民のかまども豊かに栄えているのだった。

【語釈】◇みつぎ物ゆるされて 租税を免じられて。

【補記】新古今集巻七賀歌巻頭。延喜六年(906)の「日本紀竟宴和歌」の「たかどのにのぼりてみれば天の下四方に煙りて今ぞ富みぬる」が誤伝され、仁徳天皇御製として伝わった歌という。例えば『和漢朗詠集』には作者不明として見え、『水鏡』『古来風躰抄』などには仁徳天皇御製として載っている。

【主な派生歌】
見渡せば村の朝けぞ霞みゆく民のかまども春にあふ比(後鳥羽院[玉葉])
高き屋に治まれる世を空にみて民のかまども煙立つなり(藤原雅経[続後撰])
足曳の山田の早苗とりどりに民のしわざはにぎはひにけり(後嵯峨院[続後拾遺])
今も猶民のかまどの煙までまもりやすらん我が国のため(後宇多院[新千載])
たかきやにけむりをのぞむ古にたちもおよばぬ身をなげきつつ(長慶天皇)
かまどよりたつや煙も高き屋にのぼる霞の色とみゆらん(正徹)
これまでやなにはの宮のたかき屋に煙をそへてみつの浜松(〃)
世は春の民の朝けの烟より霞も四方の空に立つらん(後水尾院)
高き家(や)に君とのぼれば春の国河遠白し朝の鐘なる(与謝野晶子)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月03日