笠金村 かさのかなむら 生没年未詳 略伝

元正朝末から聖武朝初期にかけて活躍した歌人。官人としての経歴は不明。養老七年(723)五月の元正天皇の吉野離宮行幸、神亀元年(724)十月の聖武天皇の紀伊行幸、同二年三月の三香原行幸、同年五月の吉野行幸、同年十月の難波宮行幸、同三年九月の播磨国行幸に従駕して歌を詠む。以上はほぼ長歌に反歌二首を添えた整然たる形をとる。天平五年(733)閏三月、入唐使に長短歌を贈る。また天平初め頃、伊香山(滋賀県伊香郡)での短歌二首、塩津山(伊香山の北西)を越える時の短歌二首、角鹿津(福井県敦賀市)で船に乗るときの長短歌があり、京から北陸へ下ったことが窺われる。万葉集には計三十首が載る(うち長歌八首)。ほかに「笠朝臣金村歌集」出典の歌も見られる。

 雑歌 12首 相聞 9首 羇旅 6首 挽歌 3首 計30首

雑歌

養老七年癸亥の夏五月、芳野離宮に(いでま)す時に、笠朝臣金村の作る歌 并せて短歌

滝の(うへ)の 三船(みふね)の山に 水枝(みづえ)さし (しじ)に生ひたる (とが)の木の いや()ぎ継ぎに 万代(よろづよ)に かくし()らさむ み吉野(よしの)の 秋津(あきづ)の宮は 神柄(かみから)か (たふと)かるらむ 国柄(くにから)か 見が()しからむ 山川(やまかは)を (きよ)みさやけみ 大宮(おほみや)と (うべ)し神代ゆ 神代の昔から 定めけらしも (万6-907) 

反歌二首

毎年(としのは)にかくも見てしかみ吉野の清き河内(かふち)(たぎ)つ白波(万6-908)

 

山高み白木綿花(しらゆふはな)に落ちたぎつ滝の河内は見れど飽かぬかも(万6-909)

【通釈】[長歌]急流のほとりに聳える三船の山に、瑞々しい枝を伸ばし、ぎっしりと生い茂っている、栂(つが)の木のように、さらに次から次へと続いて、万代にまで、こうしてお治めになるであろう、吉野の秋津の宮は、神の品格ゆえに尊いのであろうか。国の品格ゆえに見飽きないのであろうか。山と川が清らかなので、ここを皇居と、尤もなことに、定めたのであるらしいよ。
[反歌一]年毎に、このように見たいものだ。吉野の清らかな河内の、激しく滾る白波よ。
[反歌二]山が高いので、白木綿の花のように鮮やかに白く落ち滾る滝の周囲の地は、いくら見ても見飽きないことよ。

【語釈】[長歌]◇三船の山 吉野宮滝と吉野川をはさんで東南にある三船山。山裾を激流が下るので「滝の上の」を枕詞のように冠した。はやく弓削皇子の歌に詠まれている。◇秋津の宮 吉野離宮に同じ。離宮周辺を「秋津野」と言ったことから。
[反歌]◇河内(かふち) 川を中心とした一定の区域。◇白木綿花 白木綿とは、楮(こうぞ)の樹皮をはぎ、その繊維を裂いて糸状にしたもの。榊などに垂らして用いた。それを白い花になぞらえて「白木綿花」と呼んでいる。

【補記】養老七年(723)五月十九日から二十三日にかけて元正天皇が吉野離宮に行幸した際、従駕した笠金村が作った歌。翌年に控えた皇太子首(おびと)の即位を予祝するための行幸かとも言われ、掲出の長短歌は、皇統の祖天武天皇ゆかりの地である吉野の自然の豊饒を誉め讃えることで、天皇からやがて皇太子へと引き継がれる皇統の強固さを言祝(ことほ)いでいる。反歌二首は「河内」を主とし、吉野川の白波の美しさを爽快に描いて印象深い。聖武天皇代の讃美歌巻とも言うべき万葉集巻六の巻頭を飾る。

【他出】[反歌一]古今和歌六帖、五代集歌枕、歌枕名寄、歌林良材
[反歌二]古今和歌六帖、綺語抄、和歌童蒙抄、五代集歌枕、歌枕名寄、夫木和歌抄

神亀二年乙丑の夏五月、芳野離宮に幸す時に、笠朝臣金村の作る歌 并せて短歌

あしひきの み山もさやに 落ちたぎつ 吉野の川の 川の瀬の 浄きを見れば 上辺(かみへ)には 千鳥(ちどり)しば鳴き 下辺(しもへ)には (かはづ)妻呼ぶ ももしきの 大宮人(おほみやひと)も 彼方此方(をちこち)に (しじ)にしあれば 見るごとに あやにともしみ 玉葛(たまかづら) ()ゆることなく 万代(よろづよ)に 如此(かく)しもがもと 天地(あめつち)の 神をぞ(いの)る (かしこ)かれども(万6-920)

反歌二首

万代(よろづよ)に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮所(万6-921)

 

皆人の命も()がもみ吉野の滝の常磐(ときは)の常ならぬかも(万6-922)

【通釈】[長歌]山もすがすがしく、沸き返って流れ下る吉野川の、清らかな川の瀬を見ると、上流の方では、千鳥がしきりと鳴き、下流の方では、河鹿蛙が妻を呼んで鳴いている。宮廷に仕える人々も、あちらにこちらに、大勢いるので、見るたびに、不思議なばかりに心惹かれて、玉葛のように絶えることなく、万代までもこうあってほしいと、天地の神にお祈りするのだ、恐れ多いことだけれども。
[反歌一]万代までも見るとしても見飽きるだろうか。吉野の激流逆巻く河内の皇居は。
[反歌二]皆々の命も、私の命も、吉野の滝のように永久不変であってくれないものか。

【語釈】[長歌]◇あしひきの 「山」の枕詞。語義・掛かり方未詳。原文は「足引之」で、この用字からは「足を引いて登る程高い」といった意味が響く。◇ももしきの 「大宮」の枕詞。語義・掛かり方未詳。原文は「百礒城乃」で、「多くの岩石を用いた城」といった意が響く。◇玉葛 玉葛は蔓草の美称。途切れずに長く伸びることから、「絶ゆることなく」の枕詞として用いる。

【補記】聖武天皇即位の翌年、神亀二年(725)五月、再び吉野行幸に従駕しての作。長短歌の主題に変わりはないが、前回の作に比べると、千鳥と河鹿の鳴き声、河辺に遊ぶ大宮人たちの姿などが描かれ、より躍動感が出ている。

【他出】[反歌一]五代集歌枕、歌枕名寄、夫木和歌抄

冬十月、難波(なには)の宮に幸す時に、笠朝臣金村の作る歌 并せて短歌

おしてる 難波の国は 葦垣(あしかき)の ()りにし里と 人皆の 思ひやすみて つれもなく ありし間に 績麻(うみを)なす 長柄(ながら)の宮に 真木(まき)(ばしら) 太高(ふとたか)敷きて ()す国を (をさ)めたまへば 沖つ(とり) 味経(あぢふ)の原に 物部(もののふ)の 八十伴雄(やそとものを)は 廬りして 都となれり 旅にはあれども(万6-928)

反歌二首

荒野らに里はあれども大君の敷きます時は都となりぬ(万6-929)

 

海人をとめ棚無小舟(たななしをぶね)榜ぎ()らし旅の宿りに(かぢ)()聞こゆ(万6-930)

【通釈】[長歌] 難波の地は、古びてしまった里であると、人々皆が心にもかけずにいて、無関心であった間に、長柄の宮に、真木柱を太く高く並べて、皇国をお治めになるので、味経の原に、もろもろの氏族の宮人たちは、仮の宿を造って住み、都となっている。旅先の地ではあるけれども。
[反歌一] この里は荒野であるけれども、天皇が君臨される時は都となった。
[反歌二] 海人の娘たちが棚無し小舟を漕ぎ出すらしい。旅寝の宿に櫓(ろ)の音が聞こえる。

【語釈】[長歌]◇おしてる 「難波」の枕詞。語義・掛かり方未詳。原文は「忍照」。◇難波(なには)の国 今の大阪市中心部のあたり。この「国」は「地方」「田舎」といった意。◇葦垣の 「古り」の枕詞。葦で編んだ垣は古びやすいことから。◇績麻(うみを)なす 「長柄」の枕詞。績麻は繊維をつむいで縒った麻糸。長いので同音をもつ「長柄」などに掛かる。◇長柄の宮 難波の宮に同じ。孝徳紀に「難波長柄豊碕宮」とある。◇真木柱(まきばしら) 杉檜などで作った立派な柱。◇食(を)す国 天皇が統治なさる国。「食す」は「治める」意の尊敬語。◇沖つ鳥 「味経」の枕詞。鴨の一種「あぢ」と同音であることから。◇味経の原 難波宮の南に広がる平地。◇物部(もののふ) 「八十(やそ)」の枕詞。「もののふ」は物部、文武の官人のこと。
[反歌]◇海人をとめ 「海人(あま)」は海辺に住み、海産物によって生計を立てていた人々。都の人はその風俗を珍しがり、一種のエキゾチシズムを感じていた。◇棚無小舟 船棚(舷側板)の無い舟。簡素な丸木舟。

【補記】神亀二年(725)十月、聖武天皇の難波行幸の時に作った歌。かつては田舎と見なされていた難波に長柄宮の立派な柱が立ち、その南に広がる味経の原には諸官人の仮住居が軒を並べている。行幸と共に都も難波へ移ったかのような有様を詠むことで、天皇の権威の盛大を讃えている。長歌の「都となれり」、第一反歌の「都となりぬ」、いずれも天武天皇が壬申の乱で勝利した際の歌「大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ」(大伴御行)を意識していよう。

【他出】[反歌二] 和歌童蒙抄、玉葉集

三年丙寅の秋九月十五日、播磨国印南野に幸す時に、笠朝臣金村の作る歌 并せて短歌

名寸隅(なきすみ)の 船瀬(ふなせ)ゆ見ゆる 淡路島(あはぢしま) 松帆(まつほ)の浦に 朝凪(あさなぎ)に 玉藻(たまも)刈りつつ 夕凪(ゆふなぎ)に 藻塩(もしほ)焼きつつ 海人(あま)をとめ ありとは聞けど 見に()かむ (よし)のなければ 大夫(ますらを)の 心は()しに 手弱女(たわやめ)の 思ひ(たわ)みて 徘徊(たもとほ)り (あれ)はぞ恋ふる 船楫(ふねかぢ)を無み (万6-935)

反歌二首

玉藻刈る海人(あま)をとめども見に行かむ船楫(ふなかぢ)もがも波高くとも(万6-936)

 

往き還り見とも飽かめや名寸隅(なきすみ)の船瀬の浜にしきる白波(万6-937)

【通釈】[長歌] 名寸隅の船着場から見える、淡路島の松帆の浦で、朝凪のうちに海藻を刈ったり、夕凪のうちに藻塩を焼いたりして、海人の娘たちがいるとは聞くけれど、見に行く手だてもないので、ますらおの雄々しい心はなく、手弱女(たわやめ)のように思い萎れて、うろうろするばかりで、私は恋い焦がれている、舟も櫓もないので。
[反歌一] 海藻を刈り取る海人の娘たちを見に行くための船や櫓があったらよいのに。たとえ波が高いとしても。
[反歌二] 往きに帰りに、いくら見ても見飽きることなどあろうか。名寸隅の船着場の浜にしきりに打ち寄せる白波は。

【語釈】[長歌]◇名寸隅(なきすみ) 明石市西端の魚住町付近かという。◇松帆の浦 淡路島北端の浦。

【補記】題詞には神亀三年秋九月とあるが、続日本紀によれば聖武天皇の播磨国印南野行幸は同年十月七日の出発である。明石海峡に臨む「名寸隅」の船着場から淡路島北端の松帆の浦を眺めやり、エキゾチックな海人娘子たちへの憧憬を詠んだ。実は、行幸の途次に目にする景色を持ち上げた、いわゆる「土地讃め」の歌である。因みに百人一首で名高い藤原定家「松帆の浦」の歌は、掲出長歌の本歌取りである。

【他出】五代集歌枕、歌枕名寄、夫木和歌抄

相聞

天平五年癸酉の春閏三月、笠朝臣金村、入唐使に贈る歌一首 并せて短歌

玉襷(たまたすき) ()けぬ時なく 息の()に ()が思ふ君は うつせみの 世の人なれば 大君(おほきみ)の (みこと)(かしこ)み (ゆふ)されば (たづ)が妻呼ぶ 難波潟(なにはがた) 御津(みつ)の崎より 大船(おほぶね)に 真楫(まかぢ)繁貫(しじぬ)き 白波(しらなみ)の 高き荒海(あるみ)を 島伝ひ い別れ行かば (とど)まれる 我は(ぬさ)引き (いは)ひつつ 君をば待たむ 早帰りませ(万8-1453)

反歌

波の(うへ)ゆ見ゆる小島の雲隠りあな息づかし相別れなば(万8-1454)

 

玉きはる命に向ひ恋ひむゆは君が御船の楫柄(かぢから)にもが(万8-1455)

【通釈】[長歌] 心に懸けない時とてなく、命にかけて私が思うあなたは、現世に生きる人なので、天皇の勅命を謹んで承り、夕方になれば、鶴が妻を呼んで鳴く、難波潟の御津の崎から、大きな船に、真楫をいっぱい通し、白波が高く立つ荒海を、島伝いに、別れて行ったなら、都に留まっている私は幣を引き、潔斎しながら、あなたを待ちましょう。早くお帰り下さい。
[反歌一] 波越しに見える小島が雲に隠れるように、あなたの船が見えなくなって、溜息が吐かれる。これでお別れなので。
[反歌二] 死にそうな思いで恋い慕っているよりは、いっそあなたの船の櫂の柄(え)にでもなりたい

【語釈】[長歌]◇玉襷 「懸け」の枕詞。襷は項に懸けるものであることから。◇うつせみの 「世の人」の枕詞。「現(うつ)し臣(おみ)」の意かという。◇難波潟 かつて大阪平野に広がっていた浅海。「難波八十島(やそしま)」と言われるほど多くの小島があった。◇御津の崎 三津の崎とも。難波の港があった崎。◇真楫 左右一対揃った楫。◇幣引き 幣(ぬさ)を引き寄せる動作を言うか。幣は麻・木綿などを細かく切ったもので、神への捧げ物とした。
[反歌]◇玉きはる 「命」の枕詞。「玉」は魂。「きはる」は未詳。

【補記】万葉集巻八、春相聞。題詞に「入唐使」とあるのは、天平五年(733)四月に難波を出航した遣唐使で、大使は丹比真人広成。親しい人――おそらく妻――の身になって、別れを惜しみ、無事な帰還を願った歌である。餞別の宴での作であろうという。

【他出】[反歌二] 五代集歌枕、色葉和難集、歌枕名寄、井蛙抄

神亀元年甲子の冬十月、紀伊国に幸す時に、従駕の人に贈らむ為に、娘子(をとめ)(あとら)へらえて笠朝臣金村の作る歌 并せて短歌

大君(おほきみ)の 行幸(みゆき)のまにま 物部(もののふ)の 八十伴男(やそとものを)と ()でゆきし (うるは)(づま)は (あま)飛ぶや (かる)(みち)より 玉襷(たまたすき) 畝火(うねび)を見つつ 麻裳(あさも)もよし 紀路(きぢ)に入り立ち 真土山(まつちやま) ()ゆらむ君は もみち葉の 散り飛ぶ見つつ (にき)びにし (われ)は思はず 草枕 旅をよろしと 思ひつつ 君はあらむと (あそ)そには かつは知れども (しか)すがに (もだ)もえあらねば 我が背子が 行きのまにまに 追はむとは 千たび思へど 手弱女(たわやめ)の ()が身にしあれば 道守(みちもり)の 問はむ(こたへ)を 言ひ遣らむ すべを知らにと 立ちてつまづく(万4-543)

反歌

(おく)れ居て恋ひつつあらずは紀の国の妹背(いもせ)の山にあらましものを(万4-544)

 

我が背子が跡踏み求め追ひゆかば紀の関守い留めてむかも(万4-545)

【通釈】[長歌] 天皇の行幸のままに従って大勢の官人たちと共に出発した、愛しい夫は、軽の道から、畝傍山を見ながら、紀伊国に入り込み、真土山を越えてゆくあなたは、紅葉した葉の舞い飛ぶさまを見ながら、馴れ親しんだ私のことは思わず、旅も悪くないとあなたは思っているだろうと、うすうすは知っている一方で、そうは言っても、黙ってもいられないので、あなたが旅を行く道のままに、後を追って行こうとは、繰り返し思うのだけれども、我が身はかよわい女であるので、道の関の番人が、問いただす時の答えを、どう言い遣ればよいのか、すべを知らずに、出掛けようとしては躊躇っている。
[反歌一] 後に残って恋しがっているよりは、紀の国の妹背山のように向かい合っていたいものを。
[反歌二] あなたの後を追い求めて行けば、紀伊の関の番人が押し止めるだろうか。

【語釈】[長歌]◇天飛ぶや 地名「軽」の枕詞。「雁(かり)」と音が近いことから。◇玉襷 襷は項(うなじ)に懸けることから、音の近い「うねび」に掛かる。◇畝火山 畝傍山。大和三山の一つ。◇麻裳(あさも)よし 「紀(紀伊)」の枕詞。紀伊国は麻裳の良い産地であったことから。◇真土山 紀伊国の山。和歌山県橋本市に「真土」の地名が残る。奈良県五条市の待乳山(待乳峠)かとも言う。◇草枕 「旅」の枕詞。旅寝の際、草を編んで枕としたことから。◇君はあらむと 「あらむ」の原文は「將有」。ここは「あるらむ」の意で用いる(助動詞「む」の【機能】4参照)。
[反歌]◇妹背の山 和歌山県伊都郡かつらぎ町の妹山と背ノ山。紀ノ川を挟んで北に背ノ山、南に妹山がある。◇紀の関守い 「紀の関守」は大和国と紀伊国(きのくに)の境に設けられた関(所在未詳)の番人。「い」は主格を示して強調する助詞。

【補記】神亀元年(724)十月五日〜二十三日、聖武天皇の紀伊国和歌の浦への行幸の際、従駕の人に贈るため、大和に残った娘子に頼まれて作ったという歌。娘子の身になりきって、大和と紀伊の国境の真土山を越えてゆく恋人(または夫)を偲びつつ、後を追って行きたいが手弱女の自分には叶うまいと嘆いている。反歌では、いっそ妹背の山になりたいと言い、また長歌の末尾を反復して紀伊の関所で留められてしまうかと躊躇う心情を詠んでいる。

【他出】[反歌二] 五代集歌枕、歌枕名寄、夫木和歌抄

【参考歌】但馬皇女「万葉集」巻二
おくれゐて恋ひつつあらずは追ひしかむ道の隈廻に標結へ我が背

二年乙丑の春三月、三香原(みかのはら)離宮(とつみや)に幸す時に、娘子を得て、笠朝臣金村の作る歌 并せて短歌

三香(みか)の原 旅の宿りに 玉桙(たまほこ)の 道の()き逢ひに 天雲(あまくも)の よそのみ見つつ (こと)問はむ (よし)の無ければ 心のみ ()せつつあるに 天地(あめつち)の 神事依(ことよ)せて 敷栲(しきたへ)の 衣手()へて 己妻(おのつま)と (たの)める今夜(こよひ) 秋の()の 百夜(ももよ)の長さ ありこせぬかも(万4-547)

反歌

天雲のよそに見しより我妹子(わぎもこ)に心も身さへ寄りにしものを(万4-547)

 

この夜らの早く明けなばすべを無み秋の百夜(ももよ)を願ひつるかも(万4-548)

【通釈】[長歌] 三香原の旅の宿りにあって、道での偶然のめぐり逢いに見かけた美しい娘子をよそながら見るばかりで、言葉を掛ける手だてがないので、心が塞がるような思いばかりしていた折、天地の神が加護して下さって、袖を差し交わして、我が妻と、頼りにする今宵は、秋の夜長の百夜分の長さが、あってくれないものか。
[反歌一] よそながら見てからというもの、あなたに身も心もすっかり傾けていたのだったよ。
[反歌二] この夜が早く明けてしまったら、やりきれないので、秋の夜長が百夜続くことを願ってしまったよ。

【語釈】[長歌]◇三香原 山城国相楽郡。今の京都府木津川市。聖武天皇の離宮があった。◇玉ほこの 「道」の枕詞。玉鉾(玉矛)は魔除けのため道に立てられた陽石のことかという。◇天雲の 「よそ」の枕詞。◇神事依せて 「神が関係づけてくれて」「仲を取り持ってくれて」程の意。◇敷栲の 「袖」の枕詞。「敷栲(しきたへ)」は寝床に敷く布。

【補記】神亀二年(725)三月、三香原離宮行幸の際の作。旅の途中で行き遭った娘子に一目惚れし、言葉をかけるきっかけもないと煩悶していた折、神の計らいで夜を共に過ごすことが出来たが、春の夜は短い。秋の長夜を百夜重ねるほど長く共に寝ていたい、と願った歌。題詞に「娘子を得て」と言うのは、旅人が宿の主人から一夜妻をあてがわれるという風習に基づくものと思われる。もとより歌人の個人的な体験や心情を詠んだわけでなく、行幸に従駕した官人たちが共有する土地の娘子への思いを歌にしたものであろう。

羇旅歌

笠朝臣金村の伊香山(いかごやま)にて作る歌二首

草枕旅ゆく人も行き触ればにほひぬべくも咲ける萩かも(万8-1532)

【通釈】旅をゆく人も、通りすがりに触れたなら、色に染まりそうなほどにも美しく咲いている萩の花であるよ。

 

伊香山野辺に咲きたる萩見れば君が家なる尾花(をばな)し思ほゆ(万8-1533)

【通釈】伊香山の野辺に咲いている萩を見ると、あなたの家にある尾花がしきりと思われます。

【他出】古今和歌六帖、夫木和歌抄

【語釈】◇伊香山 滋賀県伊香郡の賤ヶ岳かという。

【補記】北陸方面へ下った時、近江国の伊香山で作った歌。一首目は伊香山の麓の野辺に咲く萩の色美しさ(「にほひ」はここでは紅紫に映える花の色を言う)を称えて、通過する土地を讃める歌としている。二首目は「故郷の友へ、よみてやれるなるべし」(万葉集略解)。萩とともに秋の草花の代表格である薄を思いやり、京の家を偲ぶ。

笠朝臣金村の塩津(しほつ)山にて作る歌二首

大夫(ますらを)弓末(ゆすゑ)振り起こし射つる矢をのち見む人は語り継ぐがね(万3-364)

【通釈】勇士が弓末を勢いよく立てて射た矢を、のちに見る人は語り継いでほしい。

【語釈】◇語り継ぐがね 「がね」は願望をあらわす。

 

塩津山打ち越え行けば()が乗れる馬ぞつまづく家恋ふらしも(万3-365)

【通釈】塩津山を越えて行くと、私の乗っている馬が躓くのだ。家を恋しがるらしい。

【語釈】◇塩津山 伊香山の西北にある山。近江と越前の国境をなす。

【補記】一首目は、塩津峠を越える際、神木に矢を射立て、旅の無事を祈った歌。二首目は、馬の躓きによって余韻深く家郷思慕を詠む。

【他出】和歌童蒙抄、五代集歌枕、和歌色葉、歌枕名寄、夫木和歌抄、風雅集
(第二句「うちこえくれば」、第四句「駒ぞつまづく」とする本が多い。)

【主な派生歌】
磯のうへは心してゆけ真砂ぢや根這ふつままに駒ぞつまづく(藤原信実)
秋風に雲のかけはし吹き断えて駒ぞ跌(つまづ)く家思ふかも(岡倉天心)

角鹿津(つのがのつ)にて船に乗れる時に笠朝臣金村の作る歌 并せて短歌

(こし)の海の 角鹿(つのが)の浜ゆ 大船(おほぶね)に 真楫(まかぢ)()き下ろし いさなとり 海路(うみぢ)に出でて (あへ)きつつ 我が()ぎ行けば 大夫(ますらを)の 手結(たゆひ)が浦に 海人(あま)をとめ 塩焼く(けぶり) 草枕 旅にしあれば 独りして 見るしるし無み 海神(わたつみ)の 手に()かしたる 玉襷(たまたすき) 懸けて(しの)ひつ 大和島根を(万3-366)

反歌

(こし)の海の手結(たゆひ)が浦を旅にして見れば(とも)しみ大和偲ひつ(万3-367)

【通釈】[長歌] 越の海の角鹿の浜から、大きな船に、真楫を突き通して、海路に出て、喘ぎながら、我々が漕いでゆくと、手結が浦に、海人の娘たちの塩を焼く煙、旅の途上であるので、その煙を独りで見る甲斐がないので、海の神が手に巻いておられる玉襷ではないが、心に懸けて恋い慕ったことであるよ、大和の陸地を。
[反歌] 越の海の手結の浦を旅の途上にあって見ると、羨ましくて、故郷の大和の家を恋い慕うのだった。

【語釈】[長歌]◇越(こし)の海 越の国(越前・越中・越後)に面した海。◇角鹿 現在の福井県敦賀市。◇いさなとり 「海」の枕詞。「いさな(勇魚)」は鯨のこと。◇丈夫(ますらを) 「手結が浦」の枕詞。益荒男は手結い(袖口を結ぶこと)をしているので。◇手結が浦 敦賀湾の東岸、田結(たい)のあたり。◇大和島根 海上から眺めた陸地をこう呼んでいる。

【補記】越の国の玄関口である角鹿の港から船に乗り、さらに北へと向かう時の詠。通過してゆく「手結が浦」の「手結」という名は、衣の紐を結んでくれた妻を思い出させるものである。海人の娘が塩を焼くエキゾチックな景色も、孤独な旅人には見甲斐がなく、ひたすら大和の故郷を偲ぶ心情を詠んでいる。末尾近く「海神の手に巻かしたる玉襷」は「懸けて」を導く序。

【他出】[反歌] 五代集歌枕、歌枕名寄、夫木和歌抄

挽歌

霊亀元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨ぜし時に作る歌 并せて短歌

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 幸矢(さつや)手挟(たばさ)み 立ち(むか)ふ 高円山(たかまとやま)に 春野(はるの)焼く 野火(のび)と見るまで 燃ゆる火を いかにと問へば 玉桙(たまほこ)の 道来る人の 泣く(なみた) 小雨(こさめ)に降れば 白栲(しろたへ)の (ころも)ひづちて 立ち留まり 我に語らく 何しかも もとなとぶらふ 聞けば ()のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇(すめろき)の 神の御子(みこ)の 御駕(いでまし)の 手火(たひ)の光ぞ ここだ照りたる(万2-230)

短歌二首

高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに(万2-231)

 

御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに(万2-232)

右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出でたり。或本の歌に曰く
高円の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ(万2-233)
御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに(万2-234)

【通釈】[長歌] 梓弓を手に取り持って、勇士たちが、狩の矢を指に挟み持ち、立ち向かう的――その名も高円山に、春野を焼く野火かと見える程盛んに燃える火を、何故と問うと、道を歩いて来る人の、泣く涙が小雨のように降るので、真白な喪の服が濡れていて――立ち止まり、私に語ることには、「どうしてまた、そんなことをお尋ねになる。聞けば、ただ泣けるばかり。語れば、心が痛い。天皇の尊い皇子様の、御葬列の送り火の光が、これほど赤々と照っているのです」。
[短歌一] 高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散っているのだろうか。見る人もなしに。
[短歌二] 御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。

高円山
高円山

【語釈】[長歌]◇高円山 奈良市春日山の南に続く丘陵地帯。志貴皇子の宮は高円山の麓の白毫寺あたりにあったと伝わる。山陵は田原西陵と称され、高円山の東南麓、奈良市須山町にある。

【補記】万葉集巻二挽歌巻末。野辺で行き違う「我」と「道来る人」の間で交わされる問答という、きわめて間接的な手法を用い、しかもドラマティックに皇子の葬送の情景を描き出した、万葉挽歌の一傑作。初句「梓弓」から「立ち向かふ」までは「高円山」を起こす序。「短歌二首」は、志貴皇子の遺族が詠んだ「或本の歌」二首233・234の改変とする伊藤博説(萬葉集釋注)が説得的と思える。一首目「見る人なしに」の詠嘆は皇子がこの世にないことをやはり間接的に語って余情が深い。二首目は皇子の宮へ通う道が荒れたことによって、これも皇子の不在を暗示的に表現している。なお、続日本紀は薨去の日を霊亀二年(716)八月十一日とし、万葉題詞と食い違いを見せる。

【他出】[反歌一] 五代集歌枕、歌枕名寄、玉葉集、井蛙抄

【主な派生歌】
故郷のもとあらの小萩いたづらに見る人なしみ咲きか散りなむ(源実朝)
山深み年をふる木の桜花さてや散りなむ見る人なしに(小沢蘆庵)
うづら鳴くふりにし里の桜花見る人なしに散りかすぎなむ(本居宣長)
いにしへの人がいひたる如くにし萩が花散る見る人なしに(斎藤茂吉)


更新日:平成15年09月11日
最終更新日:平成21年03月29日