後朱雀天皇の第一皇子。母は道長女、藤原嬉子。
長暦元年(1037)、十三歳で立太子。寛徳二年(1045)、即位。永承六年(1051)、藤原寛子(頼通女)を皇后とする。在位は二十三年に及んだ。永承年間、三度の内裏歌合を催行する。漢才もあり、『新撰朗詠集』に作を残している。『後冷泉院御記』がある。後拾遺集初出。勅撰入集七首。
七月七日、二条院の御方にたてまつらせ給ひける
逢ふことはたなばたつめに貸しつれど渡らまほしき
【通釈】今日は七夕なので逢うことは織姫に貸してしまったけれども、私も鵲の橋を渡ってあなたのもとへ行きたいのです。
【語釈】◇鵲の橋 鵲が翼を並べて天の川に橋を渡すという伝説による。
【補記】詞書の「二条院の御方」は後一条天皇の皇女、章子内親王。長暦元年(1037)、後冷泉天皇が皇太子であった時、入内した。
【参考歌】凡河内躬恒「古今集」
織女にかしつる糸の打ちはへて年の緒ながく恋ひやわたらむ
小大君「千載集」
たなばたに貸しつと思ひし逢ふことをその夜なき名のたちにけるかな
岩間よりながるる水ははやけれどうつれる月の影ぞのどけき(後拾遺)
【通釈】岩の間を通って流れる水は速いけれども、映っている月の光はのどかである。
【語釈】◇賀陽院 もと賀陽親王邸だった京の邸を、藤原頼通が治安元年(1027)に自邸として拡張した。康平三年(1060)以後は専ら天皇の里内裏となった。
更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日