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一関・郡山 05.7.10

一関城から
田村神社(一関)
城山八幡
田村神社(郡山)

今回は田村麻呂信仰を追い求めて、一関・郡山に行って参りました。先月も探索に行った一関(先月の一関探索日記参照)はうちの母型の姓の祖先の地であり、郡山は父方の姓の祖先の地であります。そして両市は姉妹都市であります。そもそも室町時代に郡山、三春周辺には田村氏が拠点を置いて勢力を伸ばしていました。その後江戸時代に入り伊達騒動で一関藩主が去った後、三春の田村氏がそこも所領として管轄したことに、一関と郡山のご縁ができたそうです。一関藩の田村氏は三万石を領し、忠臣蔵の浅野匠守が切腹したのも一関藩の江戸屋敷だったそうです。一関藩の領地は一関市の磐井川右岸のほか、花泉、藤沢、川崎・・とうちの母型の姓の領地を領有していたそうで、因縁じみた不思議さがありました。

9日夜に一関に入り一泊し、10日朝から一関駅から藩の拠館があった役所前を通って、釣山公園へ。この釣山公園は一関城があったところでして、古くは田村麻呂が蝦夷遠征の際に城を構えたとも言われ、、阿倍家任、源頼義・義家父子が陣を構えたそうです。その後、天正年中に小野寺伊賀守道照、慶長年中から留守正景(まさかげ)が居城したそうです。そして一関藩に移ってきた田村氏が城を構えたところです。ちょうど拠館の裏山にあたり、江戸時代までは防衛拠点だったので禁足の地だったそうです。

丘陵を上っていくと、途中に庭園や城柵があります。頂上までではかなりの急勾配で大変です。頂上は平坦にされており、そこに田村神社があります。この田村神社は田村氏が祀ったものですが、 八幡神社の相殿で、田村氏が祖とする坂上田村麻呂が祭神。北方鎮護の鹿島神宮と同じく北向きに建てられ、もと、田村氏の江戸藩邸にあった田村大明神を大正年間に子爵の田村家が一関に常駐するようになったとき、一関に移したとのことです。また隣におさん稲荷があり、そこの狐と産婆の話はなかなかおもしろいものがあります。。

その後、釣山公園を下って一関藩の田村氏の菩提寺祥雲寺に行きました。詳しくは以下のHPをご参照ください。 今回はそのお寺になる田村記念館を見ることができませんでしたが、予約をすれば案内してくださるそうです。http://www.teganuma.ne.jp/ichi/rekishi/shouunji/husahime/husahime-i.html

祥雲寺を後にして、バスで一関駅にもどり、電車で福島郡山駅へ。そこから水郡線に乗り換え、磐城守山駅で降ります。そこから歩いて10分位いくと守山城に着きました。守山城は一四世紀以前から田村氏の居城であり、三春城とともに田村氏の中心拠点だったようです。田村氏の詳しい歴史はこちらから。http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/tamura.html

この守山城は今では外堀の跡が見えるだけですが、正八幡神社(城山八幡宮)が今でも残っています。この正八幡神社の鳥居の形、以前一関の保呂羽神社や田村麻呂ゆかりの達谷窟にあった、二本の支柱が三本の短い柱で構成される形でした。どうもこの鳥居の様式は両部鳥居(りょうぶとりい)というらしく、神仏習合で栄えた神社に見られるとのことです。詳細は以下のHPで。
http://www.do-rosyo-shiki.com/mame/torikeitou.html
http://searchengine.jp/weblog/
http://www.wiwi.co.jp/kanko/kataribe/01/detail_02.html

そこから、500メートルほど歩くと田村神社があります。丘陵の上にあるのですが、この階段がまたおそろしく急勾配でした。この神社は非常に珍しいものがたくさんあります。太鼓や桶ががぶらさがっていたり、絵馬や厨子などの神宝類、社宝の神鏡銅製松喰鶴鏡は国の重要美術品に指定されている大変貴重なものだそうです。
そのほか馬力神、菅原神などの摂社があるのですが、蚕養神社(坂上神社)に厨子があるそうです。大元帥明王を祀るそうですが、田村麻呂との関連も強いのでしょう。そのほか獅子舞なども有名だそうで、どこか武勇の感じが見て取れます。。田村神社については以下のHPをご参照ください。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/densetutanbo/tamuramaro/tamuraso.htm

その後磐城守山駅に戻って、郡山へもどろうかと思ったのですが、一時間に一本しかこないこともあり、かなり時間がありました。そこで隣の谷田川駅周辺の菅船神社へ寄ってから帰ることにしました。駅前のお店でタクシーの番号を教えていただき、タクシーに乗って谷田川方面へ。運転手さんとお話しているうち、谷田川から数キロ山奥に入ったところにある中田町下枝の地まで行けそうとのことでした。そう、私の祖先の発祥の地であるようなので、ぜひこの際見せていただくことにしました。

まず谷田川駅そばの菅船神社へ。菅船神社はこの周囲に四社ほどみえるのですが、全国にはどうもこの辺だけのようです。祀神は猿田彦だそうです。夫婦岩(一関藤沢の八坂神社にも夫婦岩がある)など大きな岩の信仰と関係があり、蓮田岳の山頂にある菅船神社の伝承としては、日本武尊が奥羽征討の際、蓬田岳に住む水鬼、風鬼という賊を平定したときに、それを祝して建てられたものと言われているそうです。http://www.jalps.com/nwgt/touhoku/DATA/yomogida/yomogida.htm

どこか修験道的な信仰を思わせるものがありますが、きっとそのような信仰の中にうちの父方の祖先もいたのかもしれません。その後さらに山奥へ東北方向へ走り、中田町下枝にある菅船神社へ。かなり丘陵の上のほうまで行ったところにありました。天照皇太神を祀った石碑もあり、猿田彦とともに、アマテラス系の祭祀信仰だったのではないかと感じます。その丘陵の入り口部には金比羅神社があり、どうも地元の方によると入り口に祀る習いのようです。その後、運転手さんにいろいろ地元のことをお教えいただきながら谷田川駅へ。1時間以内で見終えることができたのは、やはり運転手さんの土地勘と運転技術あってこそ可能であったと思います。バイクで回っていたら間違いなく迷ってたどり着かない場所でした。運転手さんには大変お世話になりました。そして電車がきたので郡山駅に戻り、帰宅しました。

今回の遺跡探索では、うちの母型の祖地一関から、父型の祖地郡山へと、田村氏の移動を中心にその信仰形態を追いかけてみたのですが、坂上田村麻呂への信仰とともに、前回一関探索で見た修験道系の信仰が、猿田彦や岩石信仰、八幡、養蚕信仰などとともに見え隠れしたいたように感じます。そもそも父方の姓の大本である田村氏自体、坂上田村麻呂からの系譜を考える説と、藤原秀衡流を考える説があり、秀衡流は母型の姓の祖でもあるわけです。秀衡流と修験道はひとつのキーワードかもしれませんね。それとは別に田村氏は郡山の守山城から三春城へ移動しており、そこから一関へ移動したわけですが、一関城は母型の祖の姓が領有していたわけですから、両地域にまたがる不思議な流れがありますね。さらにもうすこし追跡してみたいとおもっています。

祥雲寺
田村神社(郡山)
菅船神社1
菅船神社2