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一関・中尊寺 05.6.6〜8

保呂羽神社鳥居
北上川
八坂神社夫婦石
達谷窟

 先月北海道の実家に帰った際、父方の祖父のお見舞いとともに、母方の祖父に会いにいったのですが、96歳にして健康で足腰も丈夫であり、かつ目が緑に光るという不思議な人で す。そんなこともあり、兼ねてより母方の祖父の実家岩手の一関市に行って見たいと思っていましたが、なかなか機会がなく、今回の休みでやっと岩手一関市へ向か うことにしました。
 11時過ぎに川崎を出て、都心をとおり、東北自動車道路に乗り、一路バイクで仙台方面へ。最初は3,4時間で着くだろうと考えていたのですが、それが甘かった。福島を越えるあたりからさすがに疲れが出始め仙台に来たときには、まだあるのかというくらい遠く感じました。距離的にも名古屋に行くよりはるかにとおく 感じ、さらに夕方になり気温がさがりはじめるとともに、東北独特の寒さを感じながら、ようやく一関インターについたのが6時ごろでした。日が暮れてしまったので、この日は一関駅前のホテルに向かいました。
 あくる日7日は、朝から祖父の実家へ。一関市街から東方へ15キロほどいったところにある弥栄に向かいました。走っていくと、周囲のお店や看板に母方の姓が 多く見え、この地がその姓の一部落であったことを感じました。弥栄という地名「いやさかえ」と読みます。八坂信仰との関連を想起しながら、祖父の実家を 尋ねてみました。と、実家自体は弥栄でも、その姓の方が多くいるので、実際の実家がどこかわからないのですが、でも尋ねていくうち、出会う方それぞれ面長の顔で長身の祖父に実によく似ており、方言も同じであることに 気づきました。その姓の部落のそばに日吉神社があります。この日吉神社は1348年の建武の中興で北畠顕家に従って戦功のあった藤原朝臣常陸守が、磐井郡高倉庄(今の弥栄花泉地方)を領地として任じられ、富沢邑に館を築き、正平四年九月、近江坂本から山王権現の分霊をこの地に勧請し、富沢邑の護り神としたことに由来があるそうです。中世天台宗の修験道場の拠点となっており、寺子屋などとともに小高い丘にあります。母方の姓の起源は、下野国都賀郡に拠点をおいた将門との戦いで有名な藤原秀郷を祖としており、中尊寺の藤原氏と同じ系統だそうです 。頼朝の欧州征伐の際は頼朝方につき、地頭職を授かり、南朝方としても活躍したそうで、いつごろか仙北方面へ進出したようです。詳細は以下HPで。 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/onotera.html
 その後ある母方の姓のお宅に行き、当地のお話を聴いたところ、当地から北海道へ移住した方が多くいたそうで、きっとその中にうちの札幌の祖父もいたのではと感じました。名前 に使用する漢字も同じだし、顔があまりにそっくりなのでおそらく間違いないと思います。
 さてそこから、すぐ東の北上川を渡り、前九年の役や衣川の戦いの川崎柵で有名な川崎村を通って、284号を東に進み、弥栄神社があるという室根村の矢越へ向かいました。(ちなみにもうすこし東進すると「月山」、「八幡沖」の地名が見えます)その矢越から右折して山間部に入っていくと、山腹に弥栄神社が見えてきます。この弥栄神社には二つの摂社があったのですが、ひとつは 「蚕来藝神社」、もうひとつは「小牛田神社」と言い、「蚕」が「来」る??と八坂信仰と秦氏との関係のようなものを思い浮かべてしまいました。後で調べたところでは蚕飼山も近くにあり、「蚕」とこの地との関連がありそうです。 また「小牛田神社」の「牛」についても後述するように母方の姓と「牛」と渡来系神牛伝承との関連が思い出されます。
 そこからさらに南進し、藤沢方面へ右折して峠道を越えて西進すると、右手に保呂羽山が見えてきます。地図でこの「保呂羽」という地名を見たとき、どこか「伊呂波」を思い出してしまい、行ってみたくなって来たので した。この保呂羽山に保呂羽神社があります。保呂羽神社は山頂にあるのですが、その山腹には当地の地図を見ると母方の姓の方が多く住んでいるようで した。当地の方に話を聞くと、その母方の姓の部落だそうです。その方の顔も祖父そっくりでした。また実際山腹の民家を抜け、砂利道を上っていくと、古風な大きな神社につくのですが、そこの氏子さんの名前にも母方の姓が多く見えました。この保呂羽神社、山頂にあるわりに、かなり大きな 拝殿をもっており、彫刻や建築の繊細さなど、当地での勢力の強さを感じたのですが、この保呂羽山は東北に多く見える「保呂羽信仰」があるそうです。以下のHPから抜粋。
「宮城県の山紀行」http://www.geocities.jp/ishildsp2004/kikou/miyagi.htm#11

「保呂羽山は東北各地にある。志津川町には2山ある。すぐ北の岩手県の藤沢町にあり、前回登った。保呂羽信仰は秋田県の保呂羽山(大森町)の波宇志別神社が本源のようである。この波宇志別神社は吉野金峰山より勧請されている。鉱山金鉱の守り神であったようで、山を歩く山伏修験者は山師ともいわれ、探鉱、採鉱に大いに関わっていたから、彼らが各地に祀ったものであろう。」

いわゆる山師、鉱山関係氏族との関連が見えてくるのですが、中尊寺金色堂に見えるような鉱山と、この地域の母方の姓に代表されるような藤原系氏族とのかかわりが浮かんできます。 また後で気づいたのですが、保呂羽神社の鳥居の形状が特殊で、鳥居を支える2本柱がさらに3本づつで構成されています。これは後述する坂上田村麻呂創建の達谷窟での鳥居、中尊寺白山神社の鳥居の特殊形状と同じでその起源の古さを感じます。そしてその「蚕」や「弥栄」、「月山」 、「八幡沖」等の地名から、秦氏らの八坂信仰・鉱山関連が浮かんできます。実際その保呂羽神社にも八幡大神と射幸神が祀られており、保呂羽山からさらに西に進むとすぐに藤沢町に入り、その中心部に八坂神社がありました。この八坂・○駒神社には夫婦石があり、その伝説が興味深いものがあります。

二石大明神由来
「昔、二つの石を牛に附けて来た女の人がありました。その石を怪しく思った村人が尋ねてみると女の人は、「この石は八沢本郷の里の長久安全繁栄を願って塩釜宮上方より賜った夫婦石です。村鎮守として泰安崇拝すると村は栄え村人は幸せになります」と言ったかと思うと牛と共に姿を消してしまいました。村人達は早速西口の地にお宮を建て、村名が藤沢となった後も、別当に松尾山円融寺、祭日は九月一日として祭り続けたのです。」

 牛の話はまた殺牛祭神信仰などの渡来系伝承との関わりで指摘されているところですが、「松尾山」の「松尾」も秦氏の松尾大社を思い出しますし、母方の姓の家紋にやはり牛とのかかわりが強くでております。 牛といえば「牛頭天王」も境内に祭られております。藤沢町もやはり母方の姓が多く、八坂神社をはじめとした祇園・八坂信仰がきになります。
 そこから北進して先の川崎村に戻りました。この川崎村には伊吹神社、浪分神社がほかにあるのですが、この浪分神社の「天王祭」、「お鳩取り 」という行事も興味深く感じます。以下HPより抜粋。
http://www.iwatetabi.jp/detail.php?id=03426007
 「北上大橋のたもとにある浪分神社は、通称お諏訪様といわれ、信州の諏訪大社より歓請された由緒ある神社です。7月下旬の例祭には、荒神輿が町内をねり歩きます。伝統の「お鳩とり」は、男たちの熱い闘い。近年、他の町村では見られなくなった行事として在郷の観客が集まります。」
 
 その辺、白山・諏訪の山師・修験道、山王顕源とのかかわりが感じられます。
 見終えてから、一関市街へ向かい、さらに342号西進していくと、「かんぽの宿」があり、そこの温泉でゆっくり疲れを癒しました。日帰り入浴600円で温泉に入れます。夜は一関駅前の 「南部とんかつ」のお見せに入り、柔らかで甘味の豪勢なとんかつを食べたのですが、その味はまったく絶品で750円お勧めです。

 さて3日目の8日は、朝から中尊寺金色堂へ向かいました。だんだん鉱山関連がきになりはじめていたのですが、まずはその中尊寺へ4号線を北上して走りま したが、途中「祇園」という地名があり気になりました。中尊寺の周囲は、玉山金山が奈良時代の天平年間に発見されており、400年後に佐渡金山が発見されるまで、著名な金山だったそうです。玉山金山の黄金は、奈良時代の貨幣開基宝の鋳造、東大寺造仏にも使用され、後代は金色堂に見られる藤原三代の栄華に貢献したそうです。全国から商人が平泉に集まり、金の買占めに狂奔したとか。 今年は「義経」でも中尊寺は盛り上がっているようでした。
 月見坂と呼ばれる坂道を上って本堂へ向かうのですが、途中八幡堂がありました。1057年の源氏の安倍氏追討の際に建てられたのが始まりだそうで、8月15日の宇佐、岩清水、鶴岡八幡と同様の放生会が「吾妻鏡」に記されているそうです。金色堂自体は近代建築の覆堂の中に建物ごと保存されており、その金拍ですべてが塗られている姿は当時の奥州藤原氏の勢力とともに、この地での金の産出量を感じさせるものでした。しかしすべてが金箔で覆われているわけではなく、黒く金との陰影 で表現されているところにも、ある種の芸術性を感じました。その金色堂のそばには、諸堂が並んでいるのですが、個人的に興味をもったのは白山神社の存在でした。白山神社というとご存知の鉱山関連ですが、白山神社のすばらしい能舞台 も有名です。5月4,5日の御神事能、8月14日お盆の中尊寺薪能があり、ぜひ一度観てみたいものです。この白山神社は由緒によると、850年に中尊寺を開いた慈覚大師が加賀の白山を勧請したことに始まるそうです。御祭神はイザナギ ・イザナミ神であります。丸い輪になったしめ縄が特徴的でした。
 帰り際月見坂を降っている途中、目に入ったのは、赤堂稲荷神社への小さな看板でした。気になったので横道に入り赤堂稲荷神社を見てみました。山腹の急勾配に稲荷が建っているのですが、後に赤堂稲荷について検索してみると、赤堂稲荷は3件だけしか見つからずかなりマイナーな神社のようです。「赤堂」で引くと、広隆寺にある京都最古の赤塗りの柱を持つ建造物の講堂のことを「赤堂」というそうです。広隆寺と秦氏のかかわり、伏見稲荷信仰も秦氏とのかかわりで始まっており、「赤堂稲荷大明神」は白山神社とともに、秦氏関連を想起させる感じがしました。
 その後、月見坂を降り、わんこそばをはじめて食べ空腹を満たしました。その後一関方面へ4号線を逆戻りし、左折して平泉駅そばにある3代秀衡の居館・伽羅御所と 、初代清衡の居館・柳御所跡地と資料館を見ました。近くの白山社遺跡、志羅山遺跡と渡来系的な地名が伽羅御所とともに気になります。そこから平泉駅を 越えて東進し、さらに31号を東進して中尊寺と同じころ成立した毛越寺を通り、5キロほど走ると達谷窟に着きます。
 達谷窟は801年に坂上田村麻呂が磐窟にこもる蝦夷を破った際、戦勝祈願として毘沙門天を祀り、京の清水の舞台を真似て断崖に精舎を建てたことに由来するそうです。その後源義家が磨崖仏を断崖に堀り、奥州藤原氏など 代々の権力者に信仰されてきたようです。正月1日から8日までの修正会は中尊寺を開いた慈覚大師以来、千余年続く行事だそうです。
 さて境内に入るとすぐに目に入ったのは、三つの鳥居の特殊形状でした。二本の鳥居の柱がさらに3本づつで支えられているのですが、由緒は以下のとおりです。
「一の鳥居は石之鳥居、二の鳥居は丹の鳥居、三の鳥居は杉の鳥居」と称され、古くから参道にあった。三の鳥居は明治初期に、二の鳥居は昭和三十年に失われたが、平成十年に再建された。二之鳥居、三之鳥居ともに、他には見られない特殊な形式を今に伝えている。一之鳥居は「ひこじうろう、とくぢ、せいのじゃう」という達谷村の三人の石工により、達谷石を用いて江戸時代に建立されたものである」
とすると、二之鳥居、三之鳥居の特殊形状は、江戸時代以前からあったのかもしれず、三と鳥居の意味が興味深い感じがしました。 そしてその特殊形状は先の白山神社、保呂羽神社にも見え、ある種鉱山関連の氏族とのかかわりを感じます。
 その後夜勤があるので探索は終わりにし、そのまま東北自動車道で東京へ5時間かけて帰りました。
 今回の一関・中尊寺を探索してみて、徐々に鉱山関連に携わった諸氏族の流れが見えてきており、源氏・藤原氏などとともに、どこか秦氏 等渡来系氏族の祇園八坂・八幡信仰や、蚕、白山、牛・・・諸伝承が入り混じっている感じが見て取れたように感じます。そしてその中に母方の祖父の家系もあったのかもしれず、この一関から中尊寺の探索は、渡来人研究の中世的視点を開拓するとともに、私自身にとってもルーツをたどる上で意義深い旅であったと改めて感じます。今後の研究課題のひとつとなりそうです。

保呂羽神社
蚕来藝神社
日吉神社
達谷窟鳥居
白山神社
赤堂稲荷神社
柳之御所跡地
弥栄