◆◆◆ 電脳PiCARO ◆◆◆ 第6弾記事

部将(執政官)とその他の人物


ゲームには、執政官としてスキピオ・アフリカヌスを含めて9人、カルタゴには5人が登場します。他にもイベントカードで登場する人物と、名前は記載されていないものの、実は登場している人物がいます。

ゲームに登場するローマ執政官

プブリウス・スキピオ 3−2 (スペインでは戦略値2)
紀元前218年の開戦当時に執政官として、スペインを任地に持ちました。途中のマッシリア(マルセイユ)でハンニバルがアルプスを越えていくことを知り、自身は本国へ戻り、弟がスペインに向かいました。
後にガリアで敗れると、翌年以降から前執政官の資格でスペインの弟に合流。以後、優勢にスペインで活動を行い、ハンイバルの弟達がハンニバルに合流するのを防ぎ続けました。しかし、前述の通り、紀元前211年、弟と共に戦死します。

特殊能力は、スペインで優勢に戦いを進めたことに起因するのでしょう。

ティベリウス・センプローニウス・ロングス 2−1(攻撃側であると、1−2でイニシアチブを取り戻せる)
同じく紀元前218年に執政官であり、シチリアを任地としていました。しかし、第一次ポエニ戦争で戦地であったシチリアではカルタゴの動きが何も無いことを知り、急ぎ北上。
当時は平民の執政官は功を焦る傾向があり、これは貴族に対抗意識が強かったためでしょうが、ハンニバルに挑んでトレッビアで大敗します。以後は参加していません。

特殊能力は、積極的な行動を起こしやすくしているためと思われます。

ガイウス・フラミニウス 2−2(戦闘時の撤退に対する追撃を1−4で行える)
開戦二年目の紀元前217年に執政官に選出されます。平民出身で、護民官の経験があります。当時の平民階級の代表的存在でした。紀元前232年のことで、この時の法案がガリア人を硬化させ、ガリア討伐の原因となります。ハンニバルがアペニン山脈をすぐ越えるのか、アドリア海を南下するのかが掴めず、兵を同僚のセルヴィリウスと分けていたところ、斥候を出していなかったのが災いして挟み撃ちをするつもりが逆に奇襲をされ、トランジメーナ湖畔で壊滅させられます。
ここで、一部の本では戦死していますが、いくつかは、カンネ以後に一軍を率いてハンニバルの後をぴたりと追跡する猟犬の役を果たし、ハンニバルを悩ませています。

特殊能力は、その後者の説でのものと思われます。

ファビウス・マクシムス 3−3(戦闘時の退却を1−5で行える。但し、イタリアを出ることができない)
名門ファビウス家の総帥であり、既に二回の執政官の経験を持っていました。紀元前217年にトランジメーナ湖畔で大敗の後、独裁官に選出されます。ハンニバルを追跡しつつ、会戦は避けるのを基本方針としますが、その消極性からコンクタトール(ぐず)のあだ名をつけられてしまいます。しかし、後に持久戦主義者という意味にそのあだ名の意味が変わっていくのですが。
その年は、ハンニバルが冬営に南下するのを防ごうとしますが、これを抜けられてしまい、解任されてしまいます。
しかし、後には執政官、前執政官の職に常にあり、タランティウムの奪還などを果たし、ハンニバルの孤立化を消耗の立役者となります。イタリアの盾という異名があります。元老院で絶大な威厳を持ちますが紀元前203年に死亡します。ハンニバルのイタリア退去の一ヶ月後でした。

特殊能力は、決定的な会戦を避けえたことに起因するのでしょう。

クラウディウス・マルケルス 2−3(戦役カードで攻城を行う場合、攻城のサイの目に+1できる)
平民出身のマルケルスは、法務官、前法務官の資格で絶対指揮権を持ち、紀元前214年からは執政官、前執政官の資格でカルタゴにあたります。ハンニバルに対しても積極的に戦闘を挑み、消耗させました。
後にシチリアへ向かい、紀元前213年に攻城を開始します。結局苦戦し、211年にやっと陥落させるのですが、以後は本土で最もハンニバルを悩ませ、イタリアの剣という異名を持ちました。しかし、紀元前208年、前線で視察中に敵騎兵に囲まれ、戦死します。

特殊能力は、シラクサを陥落させたことと、カプア攻囲に参加したことによるものでしょう。

ガイウス・クラウディウス・ネロ 1−2(戦役カードで6マスまで移動できる)
ネロはマルケルウスの副将として戦いに参加し、スキピオ兄弟の戦死後に急遽スペインに送り込まれます。しかしハスドルバルの講和申し込みを信じ、カルタゴ軍を取り逃がして本国へ送還されます。
しかし以後再び執政官に選ばれ、ハンニバルの次弟ハスドルバルのイタリア進入に際して独断専行で北上。もう一人の執政官リヴィウスの救援に向かい、共にこれを撃破。メタウロで勝利を収めます。
しかし、この独断専行やスペインでの不始末からかファビウス一派の不興を買い、以後は財務官職にされ、前線にはたてなくなります。

特殊能力は、ハスドルバルに対して強行軍で北上し、味方と合流、殲滅した事によるものと思われます。この時の行軍速度は長い間、記録となっていました。

クラウディオ・テレンティウス・ヴァッロ 1−1(迎撃を1−4で行える)
ヴァッロは平民出身で、積極主義者でした。紀元前216年の執政官で、南伊のハンニバルのもとに同僚の執政官パウルス、前執政官のセルヴィリウスと共に進撃します。ヴァッロが指揮担当の日、ハンニバルの挑発に乗り、決戦を行いますが、カンネで大敗し、自身はようやく逃れでます。
以後は選出されていません。

特殊能力は、ロングスと同じく、積極主義者であることを表しているのでしょう。

エミリウス・パウルス 3−2(防御側の時、イニシアチブを1−3で奪える)
パウルスは名門貴族出身で、紀元前216年の執政官です。同僚のヴァッロと共にカンネの戦いに参加し、そこで戦死しています。
プブリウス・スキピオによって息子の後のスキピオ・アフリカヌスを預けられていましたが、運良く彼は逃れ出ています。

特殊能力は、慎重で持久戦主義者であったことを表しているのでしょう。

スキピオ・アフリカヌス 1−4(強行軍カードで攻城戦を行うと、二回サイコロを振れ、その双方の結果を適用することができる)
プブリウス・スキピオの次男で、若い頃から民衆に人気がありました。凡庸な兄を、自身が共に立候補して投票を訴えることによって、兄弟ともに按察官という職に選出されたことがあります。
25才にして絶対指揮権を持ってスペインで父と叔父の敵討ちに出撃し、スペインを奪取。後に本土へ戻り、執政官立候補を認めさせ、後にアフリカへ上陸してヌミディアと同盟を確立します。そして引き返してきたハンニバルとザマで決戦を行い勝利。アフリカヌスの称号を得ます。
ファビウスと仲がわるかったのが有名ですが、その死後に元老院で最大の影響力を持ち続けます。しかし(大)カトーから政敵と目されて追い落としにあい、カトー一派によって政治的には抹殺され、後に隠退を余儀なくさせらてしまいます。
ローマの重装歩兵の武器を、スペイン人の武器にヒントを得て、混戦に向く短めのものに改良していたことは知られています。

特殊能力は、N・カルタゴを奇襲で陥落させたことによるものと思われます。


カルタゴの部将

ハンニバル 1−4(一回の戦闘で一度、探りカードを右翼・左翼・包囲のいずれかのカードとしてだせる)
第一次ポエニ戦争の英雄にして対外派の総帥ハミルカル・バルカの嫡子です。戦役後に父に連れられてスペインにわたり、後を継いだ伯父のハスドルバルが暗殺された後、総帥となります。
父ハミルカルの遺志を継ぎローマ打倒に乗り出し、誰もが考え付かなかった、アルプスを越えての陸路で北伊へ進入を果たし、ローマ連合の解体を狙います。しかし、ローマ連合は思いのほか強固で、かつローマの柔軟な政体に結果的には阻まれ、幾たびもの戦術的・戦略的勝利にも関わらずに守勢に追い込まれてしまいます。
後にスキピオの軍がアフリカへ進入したことによって本土帰還を余儀なくされ、ザマで決戦を挑むものの敗れてしまいます。
以後はカルタゴにとどまることに身の危機を感じてセレウコス朝シリアへ亡命します。その後、ローマと対決するシリアですが、海戦の指揮をとたハンニバルはそれに敗れ、以後はシリア王からも戦線から遠ざけられ、以後陸戦でも勝ったローマからの条約でハンニバルの引き渡しがあったためにクレタ島へ脱出。そしてそこからさらに黒海沿岸の小国ビティニアへさらに亡命します。その6年後にまたも追求の手が伸び、自殺しています。

ザマの会戦の数年後にスキピオとハンニバルは偶然ロードス島で再会し、そこで問答があったといわれています。スキピオが近年の偉大と思う将の挙げるように頼むと、1にアレキサンダー大王、2にエピュロスの王ピュロス(前述の、ターラントに雇われた王)、3にハンニバルを挙げ、ザマの戦いに話を振ると、それに勝利していたら、ハンニバル自身が1番にくる、と答えたといいます。

特殊能力は、騎兵の運用に秀でていたことのを表しているのだと思います。

ハスドルバル 2−3 (なし)
ハンニバルの次弟で、ハンニバルにスペインの守備を任されます。以後はスペインを主にスキピオ兄弟を相手に転戦。しかし、苦戦を繰り返してスペインを危うくし、孤立するハンニバルへは救援を送ることはできませんでした。
しかし、スキピオ兄弟の軍のうち、現地の兵を買収し、脱走させることに成功。これを追いかけてきた兄弟と遭遇するや勝利を収め、スキピオ兄弟を戦死させています。
後に救援のネロに講和を申し込んでおいて自軍を見事に退却に成功させ、替って赴任したスキピオ・アフリカヌスの勢いを知ってスペインの確保よりも自身を救援軍としてイタリアへ向かわせることに成功しました。
しかし、二回目と言うこともあってガリアの原住民がすんなりと通過を許したこともあり、ハンニバルの予測より早く到着してしまい、また使者が捕えられてしまったこともあり、合流を果たせずにネロによって討ち取られます。その首は北上中のハンニバルの陣営に投げ込まれました。

ハンノ 3−2 (ローマの非城塞PCマーカー上で移動を終えると、そのマーカーを取り除くことができる。アフリカを離れることができない)
カルタゴのもう一つの派の総帥で、ローマと事を構えるのに終始反対し続けていました。マゴーネがカンネの大勝後に戦勝報告のため帰国するや、客観的に情勢の報告をもとめ、未だローマ連合を解体できていないことを言い当てます。

特殊能力は、内治能力を表しているのでしょうか。

マゴ 2−2(海上移動時に、海上戦闘の際のサイの目に−1のの修正を行える)
マゴーネ(マゴ)はハンニバルの末弟で、ハンニバルのアルプス越えに同行してイタリアへ侵入し、カンネの会戦まで同行します。カンネの会戦後、戦勝報告の為にカルタゴ本国へ帰還し、後にスキピオ兄弟のスペインでの活躍に危機を感じて増援と共に再びスペインへ送られます。その後、ハスドルバル、ジスコーネと共にスペインを転戦。ハスドルバルがアルプス越えのために別れると、ジスコーネの指揮に入り、その妨害を牽制して成功させます。
後にイリパでスキピオ・アフリカヌスに敗れてスペインを失うと本国へ帰還。イタリアへの増援を指揮してジェノアへ上陸するものの、そこで迎撃にあい阻止されてしまいます。
その後、ハンニバルと前後してカルタゴ本国へ帰還。その途上、船上にて戦傷が元で死亡しています。

特殊能力は、度重なる海上移動を表しているのでしょう。

H・ジスコ(戦闘回避及び迎撃を1−3で行える)
ジスコーネ(ジスコ)は、スペインのハスドルバルのもとに本国から送り込まれた部将で、以後はハスドルバルと協力してスペイン防衛にあたります。スペインでの戦役に終始参加した後、本国へ帰還。スキピオ・アフリカヌスのアフリカ上陸に対してヌミディア王シファチェのローマへの裏切りを防ぎ、彼と対しますが、奇襲に遭って敗北しています。その後、戦力を回復させて再びヌミディアで再戦を行いますが、やはり敗れています。ザマの戦いには参加せずに、本国の守備にあたりました。


ローマの、その他の人物

ヴァレリウス・レヴィヌス(法務官、前法務官)
ヘレニズム三王朝の一つ、アンティゴノス朝マケドニアがハンニバルと同盟後、その封じ込めを終始行った立役者。一個軍団と50隻、そして外交を駆使して、マケドニアの封じ込めに成功します。アドリア海の制海権という内戦の利を活かしてイタリア対岸のダルマチア地方を守り、プトレマイオス朝エジプトとの同盟とセレウコス朝シリアの中立をとりつけ、マケドニアの南のアエトリア人と東のベルガモン王国と同盟を結び、包囲網をしきます。このためマケドニアは封じ込められ、第二次ポエニ戦争後に征討されます。

ティベリウス・センプローニウス・グラックス(執政官、前執政官)
紀元前215年、カンネの会戦の翌年にファビウスと共に執政官に選出され、翌年からも前執政官としてハンニバルに直接、イタリア本国内であたり続けます。
グラッススは、奴隷を二個軍団に編成することを提案し、戦力不足を補うのに大いに役立てます。同僚のファビウス、マルケルスなどと張り付き続け、またハンニバルが一時分派した軍をベネベントで捕捉して殲滅させたりしています。
しかし、紀元前212年、降伏と偽ったカルタゴの将に騙し討ちに遭い、暗殺され、その軍団も共に霧散消滅してしまいます。

後に息子がカトー一派によるスキピオ弾劾事件の際に救国の英雄スキピオ擁護の発言を行い、スキピオが喚問に晒されるのを防いでいます。
スキピオはこれに対して娘を嫁がせ、その間の子が有名なグラックス兄弟です。
兄が農地法を改革ようとして反対派に暗殺されるや、後に弟も同じく農地法を改革しようとしますが急進的すぎてか、同じく暗殺されています。

マルクス・カトー(会計検査官、元老院議員)
カトーは後に大カトーと称され、演説の最後に「それにしてもカルタゴは滅ぼされるべきである」という一句を内容に関わらずに付け加えたことで有名です。出身は平民で、農民でした。スキピオのコルネリウス一門と対抗するヴァレリウス一門が論客として中央政界へ登場します。スキピオ・アフリカヌスり一つ年下でした。 第二次ポエニ戦争の開始時には16才で、紀元前205年にアフリカヘ侵攻していたスキピオ・アフカヌス軍の会計検査官として選出されます。ここで早くも軍用金の使用方について告発を行っていますが、ザマの戦勝でうやむやになってしまいます。
後に護民官を操ってスキピオ・アフリカヌスの兄ルキウス・スキピオの使途不明金の告発からスキピオ・アフリカヌスの排除にまでもっていくことに成功します。スキピオとは政策から志向まで正反対であったようでした。

グネウス・コルネリウス・スキピオ(ローマ将)
プブリウス・スキピオの弟にあたり、兄が執政官に選出されて軍を率いたのに伴い、共にマッシリア(マルセイユ)へ向かいます。そこでハンニバルのアルプス越えを防げないことを知ると、兄に代って軍をスペインへ入れ、そこで戦闘を開始します。後に兄が再び前執政官の資格で到着すると、それに協力してスペインで優勢に戦闘を進めます。
しかし、前述の通り、兄とともに戦死しています。


その他の登場人物

フィリップスV世(アンティゴノス朝マケドニア王)
アレキサンダー大王の正当なる後継者の自任するマケドニアの王で、ハンニバルに同盟を持ちかけ、ローマを東から脅かそうとします。しかし、先手を打たれて封じ込められてしまい、実質的にはハンニバルの助けには寄与しませんでした。
後にローマの征討にあい屈服。その死まで結局、忠実な同盟国でありつづけます。しかし、その死後に嫡子が挙兵。ローマに征伐され、今度こそマケドニアは滅ぼされ、属州とされます。

マッシニッサ(東ヌミディア王)
地中海世界の二大騎兵の生産地の一つであるヌミディア(北アフリカ中西部)の王子として、スペインのカルタゴ軍に参加。プブリウス・スキピオを討ち取る功をあってます。イリパの戦いで甥がスキピオ・アフリカヌスに捕えられますが、ヌミディアの離反を狙ったスキピオによって解放されます。
以後、本国へ戻りますが、ローマへの離反を思いとどまったもう一人のヌミディアの王シファチェによって攻められ、国を失ってスキピオのもとへ赴きます。
以後、スキピオのアフリカでのカルタゴ戦に忠実に協力し、ザマの戦いの勝利に貢献します。
その後、統一ヌミディア王としてローマの忠実な同盟者でありつづけることになりました。長寿で知られ、90才以上まで生きて、30人以上の子供がおり、80才代の時にも陣頭にあったといいます。

シファチェ(西ヌミディア王)
カルタゴ側の同盟国としてポエニ戦争に参加。後に反旗を翻すや、ジスコーネの息子ハスドルバルによって打ち破られるます。しかし、後に再起すると、カルタゴもこれを許して再び同盟関係を結びます。スペインを制したスキピオ・アフリカヌスと密かに会見を持ち、ローマへの離反を約束しますが、カルタゴの繋ぎ止め策によってそれを思いとどまり、ジスコーネと共にスキピオ・アフリカヌスに対しますが、奇襲を受けて本国へ敗走。その後、ジスコーネによって出兵を促されてしぶしぶ出陣するものの、やはり敗北。マッシニッサの捕虜となり、国をすべて失います。

ソフォニズバ(ヌミディア王妃)
カルタゴの将ジスコーネの娘(一説にジスコーネの息子ハスドルバルの娘)で、絶世の美女といわれていました。元々はマッシニッサの婚約者でしたが、シファチェの離反を防ぐために破棄してシファチェの元へ嫁ぎます。
後にヌミディアでシファチェが捕えられると、マッシニッサが本城へ進撃してソフォニズバと結婚します。しかし、スキピオ・アフリカヌスにソフォニズバは捕虜としてローマへ連れてかえる必要がある、といわれて、マッシニッサから毒を送られ、それによって自殺します。

ヒエロンII世(シラクサ僭主)
シラクサの指導者で、第一次ポエニ戦争の起因となりました。その後、ローマに組することに決め、90才で紀元前215年に死ぬまでローマに忠実でありつづけます。明主だったと言われています。

アルキメデス(学者) 高名なギリシャ人の学者で、ヒエロンに招かれてシラクサにおり、新兵器を考案して攻城軍を散々悩まされました。正確で射程距離の調節が行える投石機、巨大なブランコ状の船崩し。起重機と鉤を組み合わせた船を吊り上げる器具、反射鏡による目くらましなど、ローマ軍はそのシラクサの要害の地形とあいまって、非常に悩まされました。 一説では、陥落時にも幾何学の問題を一心不乱に解いていて、ローマ兵が邪魔をしたのに腹を立てて彼らにそれと知らずに殺されてしまったといわれています。そして、マルケルスはその死を嘆き悲しんだと言うことですが、実際はアルキメデスの存在に将兵ともに腹を立てて抹殺指令が出され、マルケルスの命令で見つけ次第殺されたようです。

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