98.10.04
「こだわる」に代わる語
論じ尽くされたことかもしれませんが、「素材とだしにこだわる」というような「こだわる」の使い方については、多くの人が不快に思うようです。「こだわる」は、「つまらないことにこだわる」のように、マイナスの意味のときに使うべきだ、という意見をよく目にします。
いっぽう、国語学者の故山田忠雄氏は、『私の語誌2 私のこだわり』(三省堂,1996)という本で、そういう「こだわる」を批判する識者を、逆に批判しています。つまり、この用法はちっとも間違っていないという主張です。
『私の語誌2』は、珍といえば珍な本で、全270ページまるまるを「こだわる」の意味の考察に費やしています。ほとんどは1994年前後の「朝日新聞」の用例に基づき、「こだわる」には
1.それだけを唯一・至上の目標として追求する。若しくは、それを手中から離すまいとする。
2.関心が一定の枠内に限られ、思考・選択の自由が妨げられる。/対象についての思い入れが強く、その心情からなかなか脱却出来ない状態に在る。
3.優先的にその事に関心を持つ。/その物事の良さを見出し、深い奥行を極めたい、微妙な所を味わいたいと強く願う。(同書 p.255を再構成)
という3つの意味がある。マイナスの意味(2番目)もあるが、プラスの意味(3番目)もある、というのですね。
しかも批判ついでに、「こだわる」批判派(?)の大岡信氏や俵万智さんのことを
この自称歌人〔俵さんのこと〕も亦前のso-called詩人〔大岡氏のこと〕と等しく、コダワルの第三の用法に不快感を示す。その根拠を、「本来いいニュアンスのある語ではなかった」ことに求めているが、国語史的に言うと、コダワルは未だ語原の明かならぬ語である。従って、本来的用法が如何なる者であったか、歴史的に溯原することは一朝一夕には容易には成し得ないであろう。(同書 p.264)
とけなしています。「自称歌人」や「so-called詩人」はかわいそうだ。ここまで自信をもってけなしていいんだろうか。
石山茂利夫氏が『今様こくご辞書』の中で、『私の語誌2』の用例は「たかだか十五年ほどの期間のもの」なのに、これで結論を出すのは強引ではないかと言っていますが(p.157)、僕もまあまあ同感です。
かといって、僕が俵万智さんたちの肩を持つかというと、そうでもないです。というのも、「素材とだしにこだわる」の「こだわる」は、他に言い換えることができない重要なことばだと思うからです。
この言い方を批判する人も、じゃあどう言い換えればいいのかきかれると、返事に窮するんじゃないでしょうか。「素材とだしに心を込める」はいい線いっているけど、ちょっと長い。「素材とだしに凝る」ならばなお良いかもしれませんが、「素材とだしへのこだわり」とは言えても、「*素材とだしへの凝り」は無理だ。
いろいろ考えてみると、やっぱりこういうときには「こだわる」が一番ぴったり来ます。僕が思うに、この「こだわる」の用法は、今まで表現したいのにことばがなかったところへ、ある時さっそうと現れて、それまで穴だった部分にぴったり収まり、重宝がられるようになったのではないでしょうか。
……と、ここまでは前置きです。
もしかして、平安時代の人なら、「こだわる」と言わず、別のことばで表現することができたかもしれない、というのが、じつは今日言おうと思っていたことです。
そのことばとは、「まつわれる」。古文ふうに言い直せば「まつはる」です。
さらに一筋にまつはれて、今めきたる言の葉にゆるぎたまはぬこそ、妬きことははたあれ。
〔彼女が古歌の用語にずっとこだわって、現代風のことばに絶対頼らないのは、立派なことだねえ。〕(「源氏物語」玉鬘 日本古典文学全集 p.131)
末摘花という、ひどく古風なお姫様のことを、光源氏がからかう場面です。「あの人の歌の言葉は、どうも古くさくっていけない」ということを、皮肉っぽく、逆にほめことばのようにして言っています。
この「まつはれて」を、日本古典文学全集では「しがみついて」と訳していますが、これ、プラスの意味の「こだわる」ですよ。絶対そのほうがいいと思います。
参考URL 「目についたことば」(岡島昭浩氏)
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