障害児と家族に寄り添って
金原先生インタビュー(聞き手 協会幹事 清水 満)

 

金原洋治先生

 
 金原先生、こんにちは。下関市ですばらしい医療をなさっているという噂は前から伺っておりましたが、今日直接にお話しをお聞きできるということで、うれしく思っております。まずは、最初の質問ですが、先生はなぜ小児科医になろうと思われたのでしょうか。

 そうですね。小学生の頃から周りには医者になろうといっていたようです。それはおそらく、僕が一歳のときに小児マヒになって、手術をしたり養護学校にいったりした経験があったものですから、それが一番のきっかけではないでしょうか。ただ最初から小児科医になろうと思ったわけではなく、漠然とただ医者になろうと思っていたような気がします。

 大学(山口大学)で臨床実習をしていた頃は精神科がいいなと思ったこともありしました。耳鼻科とか眼科とか泌尿器科などの、身体の一部を診るのはどうも性に合わないし、基礎の研究室というのも肌に合わないし、臨床の場で人間を幅広く診ることができる科が性にあっているということで、最終的に小児科となぜか整形外科が候補として残りました。それは、きっと私の障害が意識しない形で働いたからだと思います。最終的に小児科を選びました。

 現代は、家庭や地域の崩壊がかまびすしく語られていますが、小児科医というのは、そういう家庭や地域の問題が、間接的に子どもさんの症状などに表れてくることを何となく診ることができる場にいるのではないかと、素人考えながら思うんですが、先生が長年小児科医をやってきておられて、今の子どもの状況、母親などの置かれている立場など、何か気づくことがあればお話しいただけないでしょうか。

 僕が医者になったのは、昭和50年(1985年)ですから、もう30年以上前になるのですが、医者になった当時はまだ、日本の経済は右肩上がりの時代で、多くの国民がまだ明るい未来を感じることのできた頃ではないかと思うんですね。

 医者になって3年目、臨床を始めてから1年経った時、教授から小児科医が足りないからそちらにいってくれと言われ済生会下関総合病院に赴任しました。着任した当時は、小児科医は、小児科医の経験が1年しかない私一人しかいませんでした。今考えると無謀な話です。その後小児科医は5〜6人に増えましたが、小児科のリーダーをずっとやらせていただきやりたいことができましたので、指導医はいませんでしたがある意味ではとても幸せだったと思います。子どもたちや周囲の人たちが先生でした。

 経験が浅いので今ほど周りを見る余裕がなかったものですので、当時のことをよくは覚えてはいないんです。しかも選んだ分野が新生児医療ですから、ER(救急救命)の世界で分や秒を争う医療現場で仕事をしていたので忙しかったため余裕がなかったということもあります。

 開業したのは、平成10年(1998年)で9年前でした。40歳を過ぎた頃には少し余裕をもって、子どものことや親子のことや地域社会のことなどを眺めることができるようになったように思います。

金原小児科の受付

 この20年の間に、かなり社会が変わってきているなということは実感します。10年くらい前、とくにこの4〜5年は心の問題を抱えた子どもの相談が急に増えてきています。子どもの虐待の問題とか、不登校とかいじめの問題、高機能自閉症やアスペルガー症候群、ADHD(注意欠陥多動性障害)などが多いですが、これらは私の関心がそちらに変わってきたということもありますし、こうした問題を抱えている子どもが増えているような気がします。

 増えている原因ははっきりしませんが、原因の一つとして、今のIT化した社会、たとえばテレビゲームとか携帯電話も大きな影響があるのではないかと思います。とくに今の携帯電話は電話というよりも小さなパソコンと同じですから、いろいろな情報が無制限に入ってきますし、昨日も秋吉台の近くの子どもが来たんですが、DS(ニンテンドーの最新小型ゲーム機)をみんなもっているから自分にも買ってくれという話を聞きました。お母さんに聞きますと、子どもはみんなそればっかりやっているというようで、田舎でも子どもたちの遊びの世界があまり豊かではないなということを感じます。

 現代はIT化した社会、コンビニ化した社会構造になっています。このため世の中全体がガマンということをせずに、いつでも手に入るという社会全体の状況の影響が、子ども達の行動にも影響を与えているなという気がします。

 さきほど見学させていただきまして、この病院が、ただたんに子どもさんの病気を診るというだけではなくて、重度心身障害児の通所施設があったり、子育ての相談に乗るとか、あるいはフリースクールを併設して、不登校など子どもさんの教育の問題にまで配慮されていることがわかったのですが、先生はやはりそういうことまで医療にかかわると思われて、こういうふうになさったのでしょうか。

 学生時代は一応社会医学研究会のサークルに入っていて、水俣にいったり、森永ヒ素ミルク事件に関わったりして社会の問題に関心があったのですが、それほど医療の社会化ということに強い関心はありませんでした。小児科医の経験が極めて乏しい状態で下関に来て、先ほども述べたように、たった一人で小児科の医療を始めたものですから、先輩から学ぶということができなかったんです。

 それで不登校の子どもが来れば僕は一人では対応できないから自分が困るので児童相談所へ親子を連れていかざるを得なかったのです。とにかくいろいろ困ることがあって、自分の力では限界があると感じていましたので、医者以外でもいいから地域の中には自分よりも経験をもった人がいるだろう思い色々なサポートの場へ出向いていったわけです。児童相談所の心理職の方は、今まで医者が子どもを児童相談所に連れてきたのは初めてだと驚かれていました。今も、その話をして下さいます。

 結局、一人で小児科を担当していましたので、自分にできないことは地域の人に託そう、もし地域になければ自分でつくろう、あるいはみんなで一緒につくろうというノリでやってきました。子どもたちが、今置かれている困難な状況よりも少しでも幸せになれるにはどうしたらよいかということについては、他の人よりも少しは考え実行してきたといえるのかもしれないなという気がします。このような実践の積み重ねで少しずつキャパシティーが拡がってきたように思います。

 私の好きな著述家に松田道雄さんがおりまして、彼は小児科医だったからこそ、子どもや母親の側に寄り添う目で社会を見て、弱者の側に立つことができた人ではないかと思っていますが、先生もそういうような経験はありませんか。

 そうですね。うん、あるような気もしますね。というのは、新生児医療を一所懸命やりますと、新生児というのは一番弱くて小さい存在だということを強烈に意識します。子どもは一人では生きられないし、親も子どもが障害をもつと家に帰っても育てるのが大変です。生まれつき障害をもった子や、未熟児で500〜600グラムしかないような子が家に帰ったらどうなるだろうかということを実感することができます。

 僕ら小児科医がいい立場にいるのは、子どもを家にお返しするときに、保健所や保健師さんに連絡して、必ず家を訪ねて様子を見て下さいねと頼むことが日常的な仕事ですので、病院以外の職種に自然に関わることができることだと思います。

 私は、その当時勤めていた病院に理学療法士や作業療法士が一人も居ない時に、小児専門の理学療法士や作業療法士を採用して下さいと無謀にも熱心に院長に頼んだものです。その頃はまだ30代半ばでしたけれど一所懸命訴え、院長は私の申し出に答えて下さいました。とてもありがたかったです。「新生児も障害児も一人だけでは生きてはいけない、家族だけでも育てにくいというところがあるので、何とかしなくてはいけないな」という思いが、新生児医療以外の医療をやっている小児科医の方よりも強かったと思います。当然ですが。

 また新生児医療や障害児医療をやっておりますと、外来でご家族のご相談を受けているときに、虐待の問題にも直面することが多いように感じます。子どもが育てにくかったり、家族も養育力が弱いとか、経済的にも苦しんでいるとか、いろいろなリスクが集まって虐待などは発生しますので、虐待県連のご相談を受ける機会も多いのです。虐待のことをやっていると、今度はいわゆるDV(家庭内暴力)にも出会うことが多いことを感じます。

 実は、今日の診療でもDVの相談があって、午前中はかなりの時間を割いて弁護士さんに意見書を書いたりしました。DVの問題では、一番頼りになると感じたのは、去年から私もその仲間に加えていただいているDVのサポーターのNPOの人達でした。「DVの支援の経験が浅いのでよくわからないから教えて欲しい」と電話すると、すぐに、DVを受けているお母さんを迎えに来て下さったり、一緒に弁護士さんのところにいって下さるなどすごくよくやって下さいます。ネットワークの力というものはありがたいなと今日も実感したところです。

 意見書を書くなんてふつう医者がやることではないような気もしますが。

 いやそうでもないのですよ。このケースは今は離婚が成立して父親とは別に暮らしているのですが、離婚調停通りに父親と子どもの面会を行いました。面会後から、お父ちゃんが恐いとうなされ眠れなくなったり、子どもが母親に暴力を振るようになった(目撃したDVの再現)という相談でした。子どもは、母親がDVを受けていることを日常的に目撃していますのでPTSD(心的外傷後ストレス障害)が起こる事が多いのです。私は、子どもがフラッシュバックを起こすので当分の間は父親との面会は禁止するような意見書を書きました。

 今までは、このような書類は書いたことはなかったのですが、関わることにより、はじめてこのようなこともできるようになるのだと思います。法律家のできることがあるけれど、DVについても医者にも充分できることがあるんだなと言う事に気づくことができました。

 そのような先生の思いが、ここの3,4階にあります重度心身障害児(者)の施設の設置につながったと思いますが、そのあたりの経緯をお聞かせ下さい。

 3、4階の利用者の方は、私がNICU(新生児特定治療集中室)に係りはじめた昭和55年(1980年)から、ずっとつきあいをしている方々が多いんです。

 当時の下関市の障害を持った子ども達は、療育施設がないので海峡を越えて北九州市の市立総合療育センターを利用していたようです。昭和58年(1983年)に高松鶴吉先生(センター長)から、「山口県の障害児がすべて北九州の療育センターに受診したのでは対応できないから、地元でなんとかできるようにしなさい」というお手紙が私のもとに参りました。そこで、医療関係者や保健所,児童相談所や親の会の人たち、ボランティアの方々に呼びかけて運動を始め十年がかりで「下関市こども発達センター」を開設してもらうことができました。市が事業の主体ですので市長が理事長です。僕は理事兼嘱託医の一人ですが、今も診療の合間の昼休みに、センターに出向いて相談を受けたりしています。

 このセンターができた頃には、この施設は就学前の小さな子どもたちが中心の施設ですから、このセンターをつくる運動の中心的な役割を果たしてきた親御さん達は、このセンターは利用できない年齢に達していました。養護学校を卒業した後の行き場がないので、場づくりの検討も始めていました。(私も一緒に参加していました。)また呼吸障害が重い子どもは気管切開を受けたり、自分らでは飲んだり食べたりできない子どもは鼻から管を入れたり、胃に穴をあけそこから(胃ろう)チューブで高カロリーの栄養剤を注入したりするような在宅医療を受けながら家庭生活を受ける人たちも出てきました。

 こども発達センターができた翌年の平成8年(1996年)に横浜の社会福祉法人「訪問の家」(日本最初の重度心身障害者通所施設として知られる)の日浦美智江さん(理事長)をお呼びして下関でフォーラムを開きました。「重症心身障害児を守る会」の親御さんたちが、自分たちの子どもも施設の中ではなくて地域で暮らしていこう、そうするには地域の中に核になる施設がいるねということで新たな運動を始めました。僕も一緒に勉強会に参加したりしているうちに、僕自身も40代の後半になって、新生児医療をするには体力的に厳しい状態にさしかっていました。なにせ目は老眼になるし、週1回あるいは5日に一回の徹夜に近い当直の仕事が体にこたえるようになっていましたし、障害をもった人たちの外来での診察や子どもの心の問題に対応する方が、今後は自分に求められた仕事ではないかとだんだん思うようになりました。

 開業したのは平成10年(1998年)ですが、ただ開業するだけでは面白くないなあと思い、いきなり大きな施設はできないにしても、みんなと一緒にデイケアのような小さな施設を一緒につくることができればいいなと考えていました。まずはとりかかりやすい県の単独事業でデイケアハウス「きのみ」(1日の利用定員5人)を、クリニックの2階で、仲間の理学療法士さんと一緒に始めたのが第一段階です。

 日本では小児科でデイケアを併設しているというところはほとんどなく、また小回りもききますのでとても家族の方に喜ばれました。でも利用希望者が多くすぐに一杯になっちゃって、「来年か再来年に卒業する人が入れないから、次のステップがいるね」ということで、親の会の方々が土地探しなどを始めました。何万坪もある土地を寄付して下さるというような人も出てきたのですが、いかんせん山の中でした。親の会の方々は、「地域の中がいい、重い障害の子が多いので医療の場がそばになければならない」という意見にみんなの考えがまとまっていきました。

 たまたま、私と家内の名義でクリニックの向かいにある町工場の跡地を駐車場として購入したばかりの時期でした。一階と二階を医療施設、三階と四階を施設にして建物を建てることを国が認めてくれるなら、この土地を提供してもいいなと考えました。もともと将来のことは深くは考えずに私と妻が買った土地なんですけど(笑)。

 それで平成15年(2003年)に社会福祉法人「じねんじょ」を立ち上げて、私が理事長になり、同時に医療的なバックアップをクリニックがするということで、今のような形態になりました。全国的には初めてのケースのようです。というのは、重度心身障害者通園施設A型(利用定員15人)という形式の施設を運営していますが、重度心身障害者通園施設A型は、肢体不自由児施設や重症心身障害児施設のような病院機能を有するような大きな施設でしか認可されていなかったようです。

 クリニックに併設で、しかも入所型施設ではない知的障害者通所更生施設に併設という組み合わせは全国でも初めてだったんです。厚生労働省もよく認めて下さったなあと思うんですが、それは平成10年からの6年間のデイケアハウスの実績があったからだと思います。看護師さんも理学療法士さんもいて、重心施設B型(利用定員5人)以上のこともやっていたので、Bの次はAをという感じで認めて下さったんではないかと思っています。

「じねんじょ」の様子

 なるほど。ふつうよくいわれるのは日本は縦割り社会だから、行政でも医療と福祉が縦割りのためになかなか連携がうまくとれないといわれますが、その点ではうまくいったということなんですね。

 そうですね。私がクリニックの院長であり、また同時に福祉施設の理事長でもありますから、その辺はスムーズにいきました。それと教育とも連携していますけどね。

 
そうですね。この前には「フリースクール下関」もありますからね。

 はい、あれはほんとうに助かります。私の仲間の石川さんとボランティアさんが運営しておられますが、彼は腰が据わっていて取り組み方がすごいんですよね〜。
中学生や高校生の不登校の子どもや「ひきこもり」の支援とかは、医療だけでできることはごくわずかだと思います。病院で臨床心理士さんといっしょに相談を受けて、サポートするには限界があります。とくに、中学生以上にンなると病院に来れない子どももたくさんいます。このフリースクールがあることで、たくさんの子どもたちが家以外にいける場所ができて、それぞれの道を見出して、歩み出しているのをみるのは本当にうれしいことです。

 教育との連携のもう一つは、私が養護学校の医療的ケアの指導医もしていることです。当院の看護師も養護学校の派遣看護師も兼ねていますが、彼女はこの仕事は非常に面白くやりがいがあるといってます。この事業のおかげで別の派遣看護師は、養護学校の担任教師が結婚しました。重い障害を子どもたちが結びつけたのですから最強のペアだし、医療と教育の連携というこの事業の最高の成果だと僕は思ってます(笑)。こういう活動の中で幸せになるということはいいことだと思いますから。


 
今、お話しを聞いておりますと、このかねはら小児科というのは医療施設でもありながら、福祉施設でもあり、またフリースクールを併設して教育の場にもなっておりますし、母親の子育て相談にも乗っておられるというので、何か「パッチ・アダムス」の病院を思い出したのですが、先生が理想とされるような医療のあり方とは、そういう教育も育児も福祉も包み込み、チームワークの中でヒューマンケアを総合的にやっていくというようなものなのでしょうか。

 そう思います。クリニックだけでできることは非常に限られたことですし、医者だけでできることは一人の患者さんの相談を受けることくらいで、非常に限られています。障害を持った人や慢性的な疾患を持つ人の場合にはとくにそうですね。ですからパートナーシップを組んで、お互いのいいところを出して、自分のできるところをやっていこうというわけです。

 実は今日も診療終了後の6時半から、学校の先生方、スクールカウンセラー、児童相談所の方々あるいは保健師さんとかと、月一回のカンファレンスをもっているんです。この月一回のカンファレンスの中で、事例の検討をするなかで、お互いのできることや限界を知っていくことができます。

 自分の力が足りないと思ったときは、外から指摘されるのではなくて、自らその力を高めていくエネルギーが働くようになれば、最高のネットワークかなと思っています。そもそも自分にも力がないのだから、人の批判をしてもしようがないのですよね。ああ下関にはまだこういうところが足りないのだなと誰かが感じて、誰かがそれをカバーしてくれれば、下関全体の地域の力というか、子どもたちが育つ環境が最終的にはよくなっていくのかなと思います。

 僕は「小児科医は子どもにとって最高のソーシャルワーカーだ」と若い医者たちによくいいます。でもそういう意識をもつ小児科医は少ないのですが、でも前に比べるとだいぶましになってきたかなと思います。

 今、若い医者という話が出ましたが、最後に医療の道に進もうとする若者たちに先生から何かメッセージがあればお願いします。

 今もちょっと話題にしましたけど、どんな場で働くにしてもソーシャルワークするという視点がものすごく大事だと僕は思います。このことは医者としてあたりまえのことでもあるのですが、目の前の患者さんや子どもが、どうしたら彼らが幸せになるかを考えること、それが一番大事なことだと思うんです。医者であれ、誰であれ、専門家は自分の持てる力を最大限発揮できるように磨いていきます。しかし、それには必ず限界はあります。限界を感じたときには、自分のできない部分を誰かに託していかねばならないのですが、託していける人がたくさんいればいるほど、託せる人を沢山知っていればいるほど、その医者の実力になるのではないかと思うんですね。

 そういう視点がないと30年、40年小児科医をやっているのに、自分は市内に児童相談所がどこにあるのかもわからない、そこがどういう役割をするのかもわからないという医者にしかなれないことになります。でも、ソーシャルワークする視点があれば、若くてもそれを知ることは当然できます。そして自分だけがそれを知っていてもいけないし、かねはら小児科にきている人だけが幸せになってもしようがない、どこの小児科にいっても同じようなソーシャルワークを受けることができるといいなと思います。

 僕自身山口県の小児科医師会の副会長をしていることもあり、みんなで一緒に勉強して高め合う必要があると思っています。それは医者同士だけではなく、教師も児童相談所の職員や保健師の場合でもそうであればいいなと思うんです。地域のネットワークというのは、ただ名前や形を知っているだけでは役に立ちません。子どもの周囲の人達は、地域の中にどういう人がいて、どういう場があって、どのようなことが得意分野なのかをきちんと知る必要があると思います。

 最後にもう一ついえば、感性の問題です。感じる力が大事と思います。たとえば、30年、40年小児科医をやっているのに自分は児童虐待などを見たことがないという人も結構いるんです。それは見たことがないのではなく、そういう眼で見ようとしていないのではないか。子どものウツなんて見たことないという人もいますが、それはきちんとそういう眼で見ないと見えてこないことではないかと思うんです。『星の王子様』ではないんですが、ほんとうのことはボーッとしていても見えてこないもので、そういう感性をどう磨くかが大切だと思います。だから専門分野だけでなく、幅広い勉強、医療の分野以外にも哲学だったり文化だったり、幅広い勉強をするといいなと思いますね。

 
今日はほんとうによいお話しをありがとうございました。

(2007年2月27日インタビュー)

  <前に戻る>