鎌倉十橋(じっきょう)

鎌倉には昔から鎌倉五山鎌倉五名水鎌倉七口鎌倉七福神鎌倉十井鎌倉十橋鎌倉三十三観音のように名数で数えた史跡が伝えられている。これらの名数は、鎌倉が江戸時代に観光地として繁栄した頃に称えられたといわれている。

旧東海道は、箱根山を越えて相模国に入り、鎌倉を通り抜け、走水から舟に乗り、房総半島の上総に上陸したと言われている。この様に当時は街道の一通過地点であった鎌倉は、滑川(なめりがわ)とその支流が流れ、橋がかけられていた。

いまではほとんど暗渠となって橋の形をとどめないがそれでも橋の周辺は道路が低くなっていて滑川に流れ込む支流は侵食谷を形成していることがわかる。

歌の橋(うたのはし) 筋違橋を過ぎて金沢街道を東に進み、岐れ道を過ぎてしばらく行くと荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)の参道入口に到達する。この参道口の少々先の二階堂川に小さな橋が架けられている、1213年2月、第2代執権北条義時の時、千葉成胤が一人の怪しい僧侶を捕らえた。この安念法師の自白により源頼家の遺児の栄実(頼家の三男で幼名を千寿丸)を担いで将軍とし、執権の北条義時を倒そうとの陰謀が発覚した。この陰謀の一味に、和田義盛の子息の義直・義重及び甥の和田胤長が組していた事から、和田合戦の発端となった。この謀反の一味200人の中に渋川刑部六郎兼守と称す御家人がいた。渋川兼守は捕らえられて安達景盛(筋違橋で始まった宝治合戦の首謀者)に預けられる身となった。いよいよ明日朝に処刑されるとの事を聞き、大変に悲しんだ兼守は十首の歌を詠んで荏柄天神社に奉納した。天神社に参篭していた工藤祐高と称す御家人が、帰りがけに兼守の奉納した歌十首を受取、この歌を幕府御所に差し出した。幼少より和歌に関心の深い将軍実朝が、この歌を見て大変に感動して兼守の罪を直ちに許した。恩赦に感激した渋川兼守は、将軍の恩に報いる為に二階堂川に橋を架けて寄付したのが歌の橋である。2008/1/26撮影
筋違橋(すじかえばし) 筋違橋は、鶴岡八幡宮東の鳥居に有る横浜国大付属小学校正門前の道と、金沢街道との交差点に位置する。筋違橋は宝治の乱の舞台となった。この橋の北側にあった三浦泰村(やすむら)邸に安達景盛の300騎がかぶら矢を放って始まり、三浦一族は滅んだ。 今は暗渠となり橋は無く石碑が立っている。2007/11/10西沢氏撮影
逆川橋(さかさがわばし) 夷堂橋より小町大路を南下し、大町四つ角を横切り、魚町橋(いおまちばし)を渡ると道の左手の路傍に 傾いた橋標が建っている。橋標の手前に左に曲がる小道が有り、そこに平凡なコンクリート橋が架かっている。2008/2/2撮影
裁許橋(さいきょばし) JR鎌倉駅西口より市役所前の交差点を左に曲がり、今小路(いまこうじ)を六地蔵方面に南下する。御成小学校を右に見て進むと、学校の敷地の外れに佐助川が流れ、ここに小橋が架かっている。 付近一帯は低地となっている。佐助川は深い。橋の呼び名の由来は頼家のとき、問注所をこの場所に移したという理由がある。も一つは西行が晩年東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うために陸奥に下る途中、鎌倉に立ち寄り、頼朝に面会した。このときこのあたりを行き来したからという説もある。2008/1/26撮影
乱橋(みだればし) 逆川橋より小町大路を南下し、JR三浦道踏切を渡り、水道道との交差点を横断し、さらに進むと左手に妙長寺が見える。寺の少々先の右に乱橋の石碑が左に橋標が建っている。 川幅は50センチくらい。吾妻鏡には濫橋と書かれており、その他亂橋又は乱橋とも書く。 2008/2/2撮影
勝の橋(かつのはし) 寿福寺の前のJR線路に沿って扇川が流れ、南東の角付近にて東の方に流れを変えて道路の下を横断している。この道路を横切る所に架かる橋を「勝の橋」と言う。徳川家康の側室となった「勝の局」が寿福寺前の小川に橋を架けた事から、この橋を勝の橋と称した。 いまこの橋は暗渠となっている。橋標は大分離れた寿福寺の前の道路際に建てられている。2008/2/2撮影
十王堂橋(じゅうおうどうばし) JR北鎌倉駅を出て鎌倉街道を大船方面に少々進むと、小袋谷川が道の下を横切っている。ここに架かる橋が十王堂橋である。昔は橋の入口付近に晴明石」があった。2008/2/5撮影
針磨橋(はりすりばし) 江ノ電極楽寺駅より稲村ガ崎方面に進むと十字路に到達する、道の下 を流れる極楽寺川に架かる小橋を針磨橋、またの名を我入道橋(がにゅうどうばし)と称す。 極楽寺に我入道なる僧が住み針を作るのを仕事としていた事よりこの名が付くと言う。いまは橋はボックスカルバートとなっている。2008/1/27撮影
夷堂橋(えびすどうばし) 本覚寺境内を抜けて山門を出ると滑川に至る。ここに架かる橋が夷堂橋である。鎌倉十橋は、滑川支流に架かる橋が多くほとんど暗渠になっているが、滑川本流に架かる橋のため、その規模は大きく橋の原型をとどめている。2008/1/20本覚寺を背景に撮影。
琵琶橋(びわばし) 若宮大路を南下し、下馬の交差点を少し過ぎて海岸寄りの歩道に高欄が見える、この場所が佐助川にかかる琵琶橋である。今は、橋の代わりに暗渠を敷設した為に、橋そのものを目にする事は出来ないが、代わりに装飾用に石造の親柱と高欄を設けて橋の存在を示している。和田合戦の戦場となった。 ここより一ノ鳥居をみると佐助川より高まった海岸砂丘の上に建っていることが分かる。2008/1/26撮影

鎌倉の地図

January 23, 2008

Rev. February 5, 2008


トップページへ