本名=吉井 勇(よしい・いさむ)
明治19年10月8日—昭和35年11月19日
享年74歳(大叡院友雲仙生夢庵大居士)❖勇忌
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種イ6号4側
歌人。東京府生。早稲田大学中退。明治38年新詩社に入り『明星』に短歌を発表、のち脱会する。41年「パンの会」を北原白秋らと結成、42年『スバル』創刊、短歌、戯曲を発表。43年歌集『酒ほがひ』、44年戯曲集『午後三時』を刊行。『水荘記』『祇園双紙』などがある。

砂山は墓のごとくにきづかれぬ君の墓なりわれの墓なり
人の世にふたたびあらわぬわかき日の宴のあとを秋の風ふく
昨日まで何をかなしみうなだれて都のなかをさまよひし子ぞ
ただひとり机のまへに坐ることひと月にして冬去りにけり
身は雲に心は水にまかすべう旅ゆくわれをとがめたまふな
寂しければ或る日は酔ひて道の辺の石の地蔵に酒たてまつる
床ぬちにあればをりをりうかび来る少年の日のまぼろしあわれ
伯爵の祖父、貴族院議員の父のもとに生まれ育った。幼少期は鎌倉の別荘で暮らした。新詩社同人となってからは啄木、白秋らと競い合って『明星』を発表の場としていたが、早稲田大学を中退後、北原白秋らと「パンの会」を結成。のち「耽美派」の歌人として認められていった。
晩年を京都で過ごし、昭和35年11月19日、肺がんのため京都大学医学部附属病院で逝った。
情痴の歌人であった。伯爵家の跡取りとして生まれながら、遊蕩、彷徨の生活によって磨かれた歌人としての才能は、啄木と、白秋と、茂吉と、享楽に酔いしれた時々も、あるいは悲哀に目覚めた時々も、うつらうつらと余韻を響かせて、熱く、大きく、哀しく、気品をひろがらせて年月を辿っていったのだ。
遠くに雨雲を背負いながら、南青山の墓原を東西に分けた霊園の狭い中道を、ひっきりなしに車が通り過ぎていく。明治以来、元老貴族から、芸術家、文人、実業家など様々な著名人が眠る聖域の古錆びた鉄扉の先には、整然と並んだ六基の墓があった。自署を刻した「吉井勇之墓」は一番手前、ため息のように湿った梅雨の風にゆられる葉陰を拾って、渋く青ずんだ碑面をすこしだけ傾けながら物憂げに建っていた。
枯れていく人の思いは今日とてもままならず、京都を愛し、京都に逝った歌人、華やかな祇園葬によって送られた故人の眠るこの石の下に流れるのは、記憶を照らした年月だけなのだろうか。
——〈かにかくに祇園はこひし寐るときも枕の下を水のながるる〉。
|