本名=梅崎春生(うめざき・はるお)
大正4年2月15日—昭和40年7月19日
享年50歳(春秋院幻化転生愛恵居士)❖幻化忌
静岡県駿東郡小山町大御神888–2 冨士霊園1区5号206番
小説家。福岡県生。東京帝国大学卒。昭和14年処女作『風宴』発表後徴兵され、暗号兵として終戦を迎える。戦後21年『桜島』を発表、野間宏らとともに「第一次戦後派」の作家と呼ばれた。発表の『ボロ家の春秋』で29年度直木賞受賞。ほかに『砂時計』『狂い凧』『幻化』などがある
。

昏迷しそうになる意識に鞭打ち、私は更に麦酒を口の中にそそぎ込んだ。かねてから私を悩ます、ともすれば頭をもたげようとするのを無意識のうちに踏みつぶし踏みつぶして来たあるものが、俄かにはっきりと頭の中で形を取って来るらしかった。私は、何の為に生きて来たのだろう。何の為に?
私とは、何だろう。生れて三十年間、言わば私は、私というものを知ろうとして生きて来た。ある時は、目分を凡俗より高いものに自惚れて見たり、ある時は取るに足らぬものと卑しめてみたり、その間に起伏する悲喜を生活として来た。もはや眼前に追る死のぎりぎりの瞬間で、見栄も強がりも捨てた私が、どのような態度を取るか。私という個体の滅亡をたくらんで、鋼鉄の銃剣が私の身体に擬せられた瞬間、私は逃げるだろうか。這い伏して助命を乞うだろうか。あるいは一身の衿持を賭けて、戦うだろうか。それは、その瞬間にのみ、判ることであった。三十年の探究も、此の瞬間に明白になるであろう。私にとって、敵よりも、此の瞬間に近づくことがこわかった。
(桜 島)
戦争は終わった。人々は文学に飢えていた。戦後文学が次々と誕生していった。野間宏や椎名麟三、武田泰淳、中村真一郎や福永武彦、さらには埴谷雄高、花田清輝、加藤周一らがいた。そこに梅崎春生も加わった。『桜島』だ。「第一次戦後派」と呼ばれたが、それから20年弱、梅崎春生の天命は50歳の夏に終わった。
最後の作品となったのは『幻化』である。戦争末期に兵士として死と直面した土地を、20年後に再訪する話であるが、主人公と同じようにそのころ彼もまた、神経に変調をきたしてしていたようであった。二度の吐血の後、昭和40年7月19日午後4時5分、肝硬変により東京大学医学部附属病院で急逝。葬儀委員長は椎名麟三、戒名は武田泰淳がつけた。
彼の背には、重く、哀しく焼き付けられた戦争の狂気がのしかかっていたようだった。しかしその作品の中に、戦争に対する激烈な憤怒や、死生観はまったく感じられない。諦観であったのかもしれないが、もの静かな視線によって淡々と、あたかも日々の営みのごとく描かれている。水彩で風景を描いたように。それが梅崎春生特有の怒りや決断の表現だったのだろう。
年に400回以上も噴火するという桜島から遠く隔たった富士の霊峰は一筋の煙のあともなく。その懐にある霊園の黒い火山砂利の上に据えられた「梅崎春生之墓」の碑文字(武田泰淳の筆)。朝日は肩越しに射し込み、墓地という特別な場所にもノスタルジックな匂いが漂っていた。
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