「熊野川町・町史研究資料」  「その一」 熊 野 ・・・

昭和59.03.30発行   熊野川町教育委員会 編   


 
 内容をそのまま全て掲載しておりますが、地名・固有名詞等については「太字」にて見易くしてあります。 尚、本ページへの掲載許可に関する要望は出しておりますが、明確な回答を熊野川町教育委委員会から頂いておりません。
 熊野川町の歴史を広く知らしむる事は、筆者達及び編者の木村先生も望まれていることではとの思いより、敢えて本ページに掲載することと致しました。
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熊    野 (2)          東阪 良治

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神武天皇熊野御巡幸
 熊野から大和へ入らせられたことは衆知の事実であるが、この道筋についても熊野川経由説と伊勢経由説とがあり、之にともなってニシキトベを殺した荒阪津についても熊野川より東の方であるという説と西の方だとする説とにわかれている。
 熊野川説によると、那智より雲取をこえて本宮に出て十津川にはいったとするものと、荒阪津(那智附近の海岸)より再び新宮を経て熊野川をさかのぼり、本宮をすぎて十津川にはいったとするものの外北山及大杉谷を通ったという説などもある。

 荒阪津についても西郡の二色だという説、那智町浜の宮三輪崎等という説がある。今回は十津川経由説によりのべることにする。

 天皇は荒阪津(那智附近) よりヤタ烏の案内で新宮に出、熊野川の川ぞい山路をのぼり本宮に出て大和の十津川をへて坂本に至りさらに天の川をへて吉野の方にゆかれたと思われる。現在五新特急バスの通路と相一致するところが多い。

 もう一説として、荒阪津より那智山にのぼり直ちに大雲取を越えて小口村に下り、また小雲取山を越えて本宮に出、熊野川をさかのぼり大和へ討入られたともいう。大雲取小雲取というのは実は大熊取で、古事記によると熊野村に到ると大熊が出入して云々という文章があるようにこの山中にも大熊などが多かったが、兵士たちは勇みに勇んで討とってこの山を越えたので、この山の名がついたものを後になまったものと思う。
 そこで十津川説を有力とする理由は歴史上より見ると、源平時代より南北朝時代の通路は主として十津川であったようで、勤王の士が常にこの渓谷から起ったのを見ると一考しないわけにはゆかない。

 とに角神武天皇が 「吉野地を省みるを欲す」 といわれたことに注目したい。 之を見れば吉野は神武東征以前より天瀬族に関係がある地ではないか。天武天皇が入ったのも此処であり、南朝のよったのも此の地である。吉野の貴重なる背後に十津川があったからであろう。

 熊野へまわり吉野に出られたとするは十津川の価値頗る大なりとするにある。歴史的にいえば伊勢北山の両路は古来甚だ縁なく史上何等関係なし。大和より新宮間の連絡は常にこの十津川筋にあったことは明らかで景行仲哀日本武等時代の通路が今の通路とあまり差異がないところを見れば、日本の道路は太古に於て大略は形づき居たものと思われる。

 特に熊野本宮は熊野三社の中でも最も古く本宮(もとみや)で崇神天皇の創建という。新宮はその名の如く是よりも新しく景行の時、熊野三社というも那智は全く滝の関係でその社も最も新しく延喜式にも此社は見えない。

 本宮が何故上古において早く開けたか。之は十津川筋にあたることがその一つ、神武天皇より十代の崇神天皇時代に此地に熊野本宮が起ったのを見ると、神武時代に或は通路が開けていたのかもしれない。

 更に注目すべきは本宮背後の高源地である。ここは熊野川より数十尺の上にあって面積も少ないが太古に於ける十津川筋の重要な平地で、後世水流の働きで渓谷を作り平地は分離され縮少されたが、太古は相当広い平地だったと思われる。

 熊野川より十津川の源に至るまでの間で太古平地として、これはどの地積を有するところは他には見られない。これは太古人類がこの川筋に漸次発展するのに唯一の重要な土地だったと思われる。されば、本宮神社が早くも上世にこの地に創建せられたのであろう。

 之即ち十津川は古来行きづまりの地ではなく、太古より大和に通ずる道路あり、古事記にいう「吉野の川尻に出てたまいし」というのは何か符合するものをもつこととなる。

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紀伊の国の設置
 大化の改新の時、国・郡・里・保の制を定め熊野国を廃し紀伊国とし、国造 (クニノミヤツコ) が之をおさめた。外に郡司の制もしかれたが、職名はちがっていても政事を司ったことは同じらしい。郡司の名は史上にあらわれているものは少いが旧家の人が多かった。

 大化の改新の詔の中に 「凡そ五十戸を里となし里に長一人をおく、戸口をしらべ、農桑をすゝめ、非違(よくない行い)を禁じ、賦役を課すことをつかさどる」と。
 白雉三年四月には戸簿を造り五十戸を里となし、戸主は家長をもって之をなし、凡そ五戸を保とし (隣保班のはじめ)長をもって検察すとあります。里は聖武天皇の御代に郷と改められた。
 牟婁郡という名もこの頃はじめて使いはじめられた。牟婁という地名は斉明天皇御紀三年九月の条に「有馬王子性さとし、牟婁の温湯に往きて病を癒す云々」とあり、万葉集にも「紀伊国の室之江」の歌がある。

 郷の名は和銅六年五月の詔に見え、国をもって郡をすべ、郡をもって里をすべたことは前にのべたとおり。牟婁郡をわけて栗栖、岡田、牟婁、三前、神戸の五郷とした。神戸郷は奥熊野一帯の地をさしていい、今の東西南北牟婁郡の大部をいったとするものと、「神戸郷本宮町のことで神武紀の熊野神邑というのは新宮にあたる。即ち三前郷(みくまの)である。神戸郷は山の中で音無の里がそうだ。

 三前郷は今の新宮市及びその附近だろう。岡田郷ははっきりわからないが、推定するところによれば太田下里あたりではなかろうか。(一説に富田方面ではないか)その郷名が鎌倉時代には荘園が増加したので自然とその名を没するに至った。

 その理由は荘園はじめ王公貴族が私有地を開こんして、そこに支配人をおき之を田荘(田所)とよんでいたが、大化の改新から開こん田はそこに住んでいる百姓に限られるようになったので京都の貴族たちは地方人と結託してその占有をはかり、支配人も多くなり、久しくその地に土着する所から、その地方の豪族となり、これらの豪族は郷制をじゅうりんし、ついに国領の公田まで侵略し、甚だしいのは一郡数郡にわたった者もあった。

 こんなへい害が奈良時代の末頃からようやく甚だしくなり、藤原氏の権威がさかんになるにしたがって、東方数ケ国の公田を占有して自家の荘園とし、伊勢神宮をも権勢をもって奪い、神宮の名をかりて自家を 富ますようになった。さらに源氏の世となり武家が守護となり地方の警察権をにぎり、行政権もにぎって郡郷の区劃も全く有名無実となっていった。

 熊野川町に関係のある郷名を紹介すると

三津ノ村郷 所属村凡そ五
 和気(小名下和気)、田長(和気村支郷)、山本(能城村支郷)、能城、日足(小名志古、相須、神丸)

花井荘 所属村凡そ八
 楊技、楊枝川(楊子村支郷)、小船、宮井(小名音河)、相須、四滝、花井、九重(小名大平、百夜月)

小口川郷 所属村凡そ十
 椋井(小名谷口)、赤木、長井(小名小畔、小口)、西、東大山、鎌塚、滝本、北ノ川、畝畑

三里郷 所属村凡そ十一
 篠尾、西屋敷、東敷屋(以下略)

入鹿荘 所属村凡そ九
 玉置口、島津(以下略)

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熊野三山
 熊野三山が朝廷の尊敬をうけたことは、有名な長寛勘文の按文に「熊野本宮は伊勢内宮なり、新宮は同外宮なり、那智は同荒祭宮也云々」とあり、国家の宗廟伊勢神宮と同体であるという勘文(事実を考えて奉る書)を発表するものがあり、当時の崇敬いかばかりであったかを知る一資料である。

 三山の場所が避遠の地であるので、都に近い諸社のようにはなばなしい活動の跡は残さなかったが、その実 力はなかなか大したものであった。

 後白河法皇が応保元年に熊野の分霊を法住寺殿の近くに祀り新熊野と称し、御崇敬されてから各地に分霊の社が設けられ「今熊野」などもその一といわれる。又京都から攝津、和泉をへて三山への道々に熊野の末社として、又は遥拝所として作られた九十九王子社などは他の大社に比べる ものがない。殊に後鳥羽天皇の建久三年、伊勢神宮の鳥居の柱に 「熊野権現」 の文字を記したという事は熊野三山の神威発揚の盛観を想像してあまりありというべきである。

 桓武天皇の御代に熊野山と南蛮とが乱をおこしたので、熊野三党 (榎本、宇井、鈴木三氏) が征伐した時に榎本真俊の嫡男が比叡山の衆徒で真継といったが、この真継が伝教大師で熊野の出身だという伝説もある。又下太田の大泰寺は伝教大師の開基で、その本尊薬師如来は大師が一刀三礼の作だといわれる。

 蟻の熊野詣という諺があるとおり朝野の尊崇が甚だしくなり、或は行幸に或は単独に、或は家の子女房を従えて熊野詣を企てる者が多くなり、宇多天皇一回、花山天皇二回、白河天皇七、鳥羽天皇十六、崇徳天皇一、後白河天皇三十 四、後鳥羽天皇二十三、後さが天皇三、亀山天皇一回と合せて八十八回もの行幸を仰いだ。
 宇多天皇は十月三日に京都を出て二十八日に京都へ帰られ、正に二十六日間を要せ られた。その間の食糧や調度などなみなみならぬ苦労のあったことであろう。

 天皇の熊野行幸は二週間の精進をしてそれから熊野へ出発されたようで、次のような資料がある。

 「応保二年正月十一日より精進をはじめて同二十七日たつ、二月九日本宮奉幣をす。三山に三日づつこもりて其のあいだ千手経千巻を転読したてまつりき。」

 京都よりの道順にはいろいろあるが永保元年の為房卿の紀行文によると、京都より攝津、三島江、天王寺、和泉、堺、日根王子、紀伊雄、山口、藤代、有田勧学院、鹿背山、塩屋、石代、ここより乗船太刀浦上陸、三栖、滝尻宿内湯川、本宮の道程をへて二十八日かゝつている。

 文武天皇の御代に役小角らの弘布した密教の一種で、いわゆる山嶽仏教(修験道)が頭角をあらわし、葛城山を中心として吉野連山熊野へも勢力を及してきた。かくて彼等は大峯山から北は金峯山を北の入口とし、熊野を南の固めとして修験道をひろめることに心をくだき、熊野三山の神威発揚と共に修験道も勢力を増大し、宇多法皇が金峯山へ御幸せらるるに及び、名門貴紳の尊敬がさかんとなり帝王女院の行幸についで権門勢家の熊野詣となった。

 このように、朝野にわたって崇敬の機運を促進したのは修験者の紹介に因ることが大きく、白河上皇が寛治四年に僧長円の勧誘に従って初めて熊野三山御幸の際一乗寺小闍梨僧誉が御先達の功により、初めて三山栓校に補せられたことは修験道の勢力を公に認められる緒をつくったというべきである。

 この結果、古来の神域は全く仏陀の領地たるの観を呈し、祭神の如きさえ仏語を用うるようになった。熊野権現若王子禅師宮金剛童子等はその一例で、神名は全くうづもれてしまった。

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