内容をそのまま全て掲載しておりますが、地名・固有名詞等については「太字」にて見易くしてあります。 尚、本ページへの掲載許可に関する要望は出しておりますが、明確な回答を熊野川町教育委委員会から頂いておりません。
熊野川町の歴史を広く知らしむる事は、筆者達及び編者の木村先生も望まれていることではとの思いより、敢えて本ページに掲載することと致しました。
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熊 野 (3) 東阪 良治
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●熊野別当熊野別当は熊野別当代々記によると、第一代快慶、嵯峨天皇の弘仁三年十月十八日に補任とあり。一方中右記によれば堀河天皇の寛治四年四月白河上皇熊野より鳥羽殿に還御、はじめて熊野詣をとげられた恩賞として熊野別当長快 を法橋に叙せられるとあり。別当の名が初めて史上にあらわれ、熊野別当は長快よりはじまったとするのを正当とすべきか。
熊野三党は熊野の政治にあずかっていたが、之を統轄する者がないので白河院熊野詣の時別当を任命した。長快は藤原実方中将の子。実方は奥州に左遷された時、その地で一女に通じ一男を挙げた。実方は大へん熊野権現を信じ生前に許されて熊野へ参詣しようと嘆息されたが、ついに配所に歿したので母子相たずさえて父の生前の信願を果さんと熊野に詣でこの地に留った。
三党の一人榎本氏その子を養いて女に妻わすとある。奥州にあった実方の子、長快が熊野別当となった縁により熊野と奥州の関係が密接となり、昔の奥州人は一度熊野に参詣せぬものは男子にあらずという位だったと聞く。
陸奥の鎮守府将軍藤原秀衛夫妻が熊野参詣の途次、西郡栗栖川村王子社に於て和泉三郎を出産したこと及び野中村には桜樹(ひでひらざくら)を植えたことが旧記にみえる。
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●源平二氏と熊野との関係行幸が盛となり、文武百官の従うものも多くなり熊野は京都の休息地となるに至り、そのころ源為義は熊野別当の娘の田鶴原女房に通って一女をもうけたのが丹鶴姫で、後に鳥居禅尼と称した。又そのころ平忠盛も同じく別当の娘浜の女房に通って一男をもうけた。薩摩守忠度がその子だという。
(近衛天皇の天養元年に九重村大字宮井 音川にて生まる。平家物語にも薩摩守は聞ゆる熊野そだちの大力とあり)かくて偶然にも源平二氏の血統が熊野に相対立する有様となった。
忠度は、別当湛増の妹をめとり、湛増は平氏の熱心なる味方であった。が一方為義の末子十郎義盛は即ち新宮十郎行家で丹鶴姫の弟に当る。新宮で成長した。平氏の熱心な協力者だった湛増が心かわり平氏につかんか源氏につかんかとまよい田辺の新熊野に七日間参籠し、神楽を奏して権現へ祈請し、白旗につけとのお詫宣を得たが、尚疑いの心より白き鶏七羽、赤き鶏七羽を権現の前で勝負をさせたが、赤い鶏は一羽も勝たなかったので源氏につこうと決心した。と平家物語に見えている。
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●平重盛と熊野重盛は父の横逆に心を痛め、この上はとて本宮の宮に死を祈りしことが平家物語に見えているが、史家は之を否定しているけれども熊野詣のあったことは事実である。又平家物語に次の文章も見えている。
その頃熊野詣の事ありけり。本宮證誠殿の御前にて、静かにはっせ参らせて終夜敬白せられけるは、親父入道相国(清盛)の体を見るに悪虐無道にして、ややもすれば君をなやまし奉る。そのふるまいを見るに一期の栄花尚危し、重盛長子としてしきりに諌をいたすといえども、身不肖の間、彼もって服ようせず。枝葉(子孫)連続して親を顕し名を挙げん事難し。 この時に当りて重盛いやしくも思えり、なまじいに列して世に浮没せんこと、あえて良臣孝子の法にあらず。
しかず、名をのがれ身をひきて今生の命望を投げすてて、来世の菩提を求めんに。但し凡夫白痴、是非にまどえるが故に志をなおほしいままにせず、南無権現、金剛童子、願わくは子孫繁栄絶えずして、仕えて朝廷に交るべくんば、入道の悪心を和げて天下の安全を得せし給え。栄燿又一期を限りて後混恥に及ぶべくんば重盛が運命をちぢめて来世の苦輪を助け給え。
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●熊野行幸の目的後鳥羽上皇がしばしば熊野三山に行幸なったのは、単に御崇敬の聖慮だけでなされたのではなく、当時の衆徒や神人の勢力が大きくてややもすれば反抗を来たす恐れもあったので其の制御の策という意味もあった。しかしその大主要なる目的としては、この強大な勢力を利用して討幕の大事を決行しようとする予備的行動だったと思われる。
上皇は二十三回にわたり熊野に行幸され、途途王子社で和歌の誉高かりしばかりでなく、武技の術迄精通され熊野の如き嶮岨なところの茅屋に宿られ悠々と歌会を催すなど人をして無量の感をいだかせた。西郡栗栖川の滝尻王子で催された時の懐紙は、滝尻懐紙として前田侯の所蔵となっている。
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