内容をそのまま全て掲載しておりますが、地名・固有名詞等については「太字」にて見易くしてあります。 尚、本ページへの掲載許可に関する要望は出しておりますが、明確な回答を熊野川町教育委委員会から頂いておりません。
熊野川町の歴史を広く知らしむる事は、筆者達及び編者の木村先生も望まれていることではとの思いより、敢えて本ページに掲載することと致しました。
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熊 野 (1) 東阪 良治
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●熊野、木国、牟婁の意義
木を以て国のよび名としたわけは、五十猛命が二人の妹と共に、すさのをの命にしたがい天降った時、木の種を日本の国に播かれた。当地はその三神の鎮座した処で樹木の繁茂が他の国よりも殊にすぐれていたので木の国と名づけたのだろうと紀伊続風土記に出ている。
熊野のよび名についてはいろいろ説があるが、
(1)大熊の故事より出たとするもの
即ち高倉下命が木の国の南方で大きな熊を見た。その熊は金色の光を放っていろいろの珍らしいことを現し、その示 現によって神剣を得て、国中の悪者どもを伏し大衆を安心させた。この時熊野の名が始まったという。
(2)樹木の生い茂ったるによるとするもの
「熊」は「隠る」の意味で、隠るとは木の繁ったようすをいう。神代にすさのをの尊が韓国へ木の種を渡し、子五十猛命に木の種をまかせた。ところが、彼は韓国に全部の種をまかず持ち帰り妹たちと紀州に来て種をまいたので、紀州はいたる所青山となった。故に北部を「木の国」南部を「熊野」と名づけた。木国はその物をもって名づけ、熊野は形状によって名づけられた。「野」は「成す」のつゞまった言葉。
(3)籠居という意味だとするもの
熊野は「こもりぬ」という意味で、いざなみの尊の石陰にあったことに原因するという。
(4)隈野なりとするもの
熊野は隈野で隈取の隈である。隈はもと、物にへだたりがあって裏の見えにくいのをいう。野とは、山でも原でも甚だ広い地をいう。この地は神のかくれます所が多く、人のはかり知りがたき隈々あるので、かく名づけられたという。
(5)神の鎮座したところというもの
「くま」は神である。例えば神稲をクマシネ、神代をクマシロとよむようなもの。熊野はいざなみの尊をはじめ多くの神々が鎮座しましたことより出たという。
(6)土蜘珠という意味だとするもの
「クマ」はアイヌ語の「カムイ」のなまったもので、「カムイ」は土蜘蛛という意味。上代に穴居民族の有ったところから出た名なりという。
(7)熊成より転じたとするもの
日本書記に熊成とあり、これは「クマナス」で「ナス」の約は「ヌ」なので「クマヌ」となったという。「クマナス」は樹木のうっそうとしげっていることより出た名なり。
又三熊野、真熊野というのは美称で、吉野を三吉野といい、ミキ(御酒)マスミ(真澄)というのに同じ。数字の三の意味はない。
牟婁の名についてもいろいろ説があるが次に二三紹介する。
(イ)牟婁は室で地形が湾杉になっているところから出たとするもの。
(ロ)海津の館舎があったので起ったとするもの。
(ハ)温暖という意味で、当地は暖いのでこの名が出たとするもの。大和物語に
きのくにのむろの郡にゆく人は(ニ)牟婁は熊野の神のしづまりおわすところなので御室という意だとするもの。
風の寒さも思いしられし
以上言語学上よりいろいろの説もあり断定はむつかしいが、木々がうっそうとしげっていたところからつけられたと考えるのが穏当かと思う。
その熊野は今の西郡富田板、安居坂、潮見峠の附近から東は北牟婁郡錦村 荷坂峠にわたるぼう大な土地をしめたが、孝徳天皇の御代に、熊野国は廃せられその一部は志摩の国へ、他の一部は牟婁郷と合さって牟婁郡となり、木国につくこととなった。
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●紀伊の北山と大和の北山今日奈良県吉野郡の北山郷は本来牟婁郡に属すべきもので、大台原山及び姥峰迄通して北山荘の名でよんでいるのは、昔紀州の地だったからで、大和よりすれば南山とよぶべきもので、戦乱の世豪族が互いに掠奪して郡界が乱れ、一荘分れて二国に属することになったのだろうという。
土地の人の言い伝えによると、ずっと古く紀和両国が境界を争い、ついに其の地を紀州四分大和六分に分けた。之が今の北山の地なりという。此め言の信頼性はさておき、右の紛争の地で境界が一定していなかったことがわかる。
しかし地形より之を考えると古紀州の境、北の方祖母峯及大台山に及んだろうという証拠が三つある。
その一は大和北山荘西野村宝泉寺観音大工記に、南帝勅願寺紀州牟婁 郡熊野奥北山内泉村興泉寺永亨九年丁己二月建之閉山車僧とある。
その二は、安永年問北山郷の村民で生活に困って家財を売った者があり之を隣村の者で長持をかった。其後、長持の底が浅いのであやしんで底を破ってみると二重底になっていて、其の中に古文書があり紀和両国の境界の事を書いていた。その文によると、古の紀州の地で今大和に入っているところが多い。
その三は北山という地名は紀州でいえば、北の方め山であるが大和からいえば南山というべきで、北山というべきではなかろう。
又同じ吉野郡の十津川郷も古は紀州に属したこともあるとみえ、後奈良天皇弘治年間の文書には妃の十津川の文字もみえる。
又紀伊続風土記の入鹿荘の記事に荘の中玉置口、木津呂、湯口の渚村と、花井荘九重村との問に、大和十津川組竹戸村乾の方より突入りて、北山川をまたぎ川向の山巽の方の地までを領分とする。古の国界は或は山峯の水流とし或は川をもってした。
今竹戸村の境界は之を異にして玉置口村 九重村の間に突入りたるわけはわからない。十津川の地大和にあるが、十津川の名は熊野川上流の名で大和に限る名でない。
故に十津川の部類にして紀州の地に居る者もあり、大阪の陣の時十津川の者一統玉置大膳亮直虎に従いて戦功をたて、十津川一統の者に褒賞あり。(十津川五十九ヶ村皆租税なし、農民皆苗字帯刀をゆるさる)後紀和の境界を分つ時、妃州の地に居る者も十津川の部類なるは、その居る所の地共に大和に入ったのであろう。それで、入交りの境界となったのではなかろうか。
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●熊野の先住民神武天皇の東征の頃近畿地方に多数の土蜘蚊があり、大和地方に居り、同族は熊野地方より、南方系族にあっぱくされて熊野川をさかのぼり上流の谿谷に逃げのびた。
吉野谿谷に後世まで残存した国栖(クズ)は穴屋の野民で土蜘蛛の同類異族なり。言語学者の研究によると「クズ」は「ク・シ」と同語で、クエ・クシは蝦夷人の他称だといっている。彼等が占拠した地方の呼名に「クシ」の地名の現存したところが多い。
古座地方に串本、くじの川、伊串、楠、下太田の久司坂、同地に久司を名のる者多く宇久井村に狗子の川、大狗子、小狗子、狗子め浦、、串坂あり、四村に串峠、九重村の意味は「クズ」より転訛したものかもしれない。
或研究家の研究によると古座も「クズ」よりきたもの、佐部は「アイヌ語」めサバ(主長)ではないか、又「クシ」「クズ」なる地名の近くには「ツケ」「ツカ」の音を有する地名の接近することも注目すべきことで、くじの川、串本に接近して津荷あり、狗子の川に接して高津気あり、九重に近く小津荷、大津荷、津荷谷あり。「ツカ」「ツキ」などの語は、蝦夷語と親密な関係を有するという。
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