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ルメイ将軍について(ザ・フィフティーズ)

 「ベスト&ブライテスト」の著者、デイヴィッド・ハルバースタムが1993年に出した本です。これにルメイ将軍の性格がよくでている箇所があります。これを読むと映画「戦略空軍命令」の各エピソードが実際の訓練であることが理解できます。

ザ・フィフティーズ(上巻)

D・ハルバースタム 著

金子宣子 訳

新潮社刊 1997年

P392

24 フーバァーの帝国

 ワシントンの政治バランスが変化し、ストロースやテラーなどの水爆推進派が浮上した頃、戦略空軍(SAC)の重要性も高まっていた。当時は大陸間弾道ミサイルが登場する直前の時代で、ソ連は依然として大量の地上部隊をヨーロッパに駐留させていた。このため、世界に何らかの挑発行勧か起こった場合、戦略空軍はアメリカが報復行動をとる際の決め手とみられていた。戦略空軍を率いていたのは、カーティス・ルメイ将軍−軍関係者なら、誰知らぬ者のいない伝説的人物で、いわぱジョージ・パットンの空軍版だ。目的に向かって一途に邁進し、要求水準か高く、勇猛果敢、しかも創造力に富み、戦略空軍が急速に拡大されることを早くから見通していた。,事実、ソ連の原爆第1号の実験成功からスプートニクの登場にいたる時期、戦略空軍は一気に増強されることになる。戦後の一時期、戦略空軍の任務に航空技術が追いつかない状況が続いていたが、一九五一年秋、ついにBー47爆撃機の一号機が完成した。これは長距離ジェット爆撃機の時代が到来することを予感させる出来事だった。B‐47の登場とともに退くことになつた旧型のBー36は、七千五百マイル(約一万二千キロ)の航続距離を誇る大重量の六発プロペラ機だったが、いかんせん速度が遅く、最高時速はわずか四百三十マイル(約7六百九十キロ)。これとは逆に、B‐47は高速軽量の爆撃機で、最高時速はソ連の最高速爆撃機をはるかに凌驚する六百マイル(約九百六十五キロ)、しかも四万五千フィート(約一万四千メートル)という高高度飛行が可能だった。航続距離は、再給油なしでは、わずか三千マイル(約四千八百キロ)程度にすぎない短距離だが、すでに一九五一年夏には、KC197空中給油機が開発されていた。このため、実質的には六千マイル(約九千七百キロ)を超える航続距離が確保できたのてある。

 一九四九年から一九五五年までに、カーティス・ルメイは戦略空軍の規模を四倍以上に拡充させた。しかも、単に軍機や装備の量だけでなく、パイロットや将兵全体の質も高めた。一九四八年十月、戦略空軍司令官に着任したルメイは、その惨憺たる有様に愕然とした。軍機自体も貧弱だし、平時の安逸をむさぼったパイロットは、誰もかれもでっぶり太り、ルメイによれば、すぺてが「まったくの役立たず」だった。そこでルメイは、直ちに模凝爆撃訓練をオハイオ州デイトンで実施するよう命令を発した。戦略空軍という小さな世界にとって、この訓練は伝説的な大事件、つまり、とんでもない災難となった。というのも、夜間の飛行訓練だったから、レーダ−を使って標的を見定めなければならなかった。しかも戦闘高度での飛行訓練には不慣れで、発進準備が整わず、高高度飛行に必要な与圧状態も得られていなかった。結局、ルメイの命じた訓練に参加した百五十名のうち、指定された任務飛行を遂行できたのは誰ひとりおらず、命中率も想像をはるかに超える低さだった。まさにルメイの睨んだとおりだった。これでパイロットたちも、何から何まで自分たちが最低レペルにあることを自覚したにちがいない。ルメイは密かにはくそ笑み、この日の訓練を米航空史上、最も暗い夜と名づけた。

 着任当初から、ルメイは戦略空軍を米軍最高の部隊に仕立て上げようと考えていた。そこで、まずは実績の低い指揮官を実績どおりの地位に格下げした。次に、だらだらと士官クラブで酒を飲んで過ごす士官か多いと見て取ったので、新たに定めた服務規定の講習を受けさせ、さらに士官の妻たちも召集すると、今後は年功によらず実績による昇進制度をとり、昇進させる場合は、クルーのメンバー全体を同時に格上げする旨を伝えたうえで、妻の務めは、毎朝、二日酔いの夫を送り出すことではなく、その日一日を国家に捧げる覚悟のできた夫を送り出すことなのだと自覚を促した。

 在任期間中、ルメイはパイロット像そのものを近代化させた。第二次大戦当時のパイロットは、派手な英堆たちか多かった。威勢がよくて喧嘩っ早く、酒と恋が大好きで、常習的に規則を被り、ときには軍法会議で処罰される寸前のところで出撃し、日本軍の戦闘機を数多く撃墜し、あるいはドイツに生烈猛烈な空襲を敢行して、何とか執行猶予を勝ち取るといったタイプの者たちだ。かつての幸やかな時代を知る軍人たちは、ルメイが育てた新種のパイロットを軽蔑の目で桃めていた。早寝早起きの真面目人間、必需品は計算尺とブリーフケース、雲間に入った敵の戦闘機を発見するより数学のほうが得意な連中と思えたのだ。たしかに、これには一面の真実かあった。新鋭機はますます複雑な機械装置と化し、パイロットにも高度な数学能力が必須になっていた。従来とは比べものにならない高高度を飛び、爆撃にコンビューターが介入する度合いも高まっていた。爆撃飛行のみならず、十四、五時間も延々と続く退屈な訓練飛行もこなさねばならず、大変な体力を消耗した。このためパイロットは、十分な睡眠をとり、体調を常に整えておく必要かあったのだ。

 たとえルメイ将軍や新種のパイロットに対する批判か囁かれていたとしても、それを正面きって口にする者はいなかった。ルメイがあまりにも偉大な存在だった。第二次大戦中、ドイツ空襲を前にして、ルメイは市街地の航空写責を綿密に調べるよう指示を出し、これが命中精度の飛躍的な向上につながった。東京など、日本の諸都市に対する空襲でもさらに名を上げた。機銃や射撃要員を外した身軽な爆撃機で低空飛行を敢行させ、焼夷弾による夜間の空襲を行なわせたのだ。ルメイは低空攻撃が命中製度を高め、航空機の軽量化は航続距離を伸ばし、エンジンの負担をも軽減させると確信していた。低空飛行を行なえば、自軍の爆撃機の七○%を失うと反対する者もいたが、委細かまわず強行した。たとえ撃墜されることがあったにせよ、被害は五%程度で収まると踏んでいたのである。

 日本空襲の第一波は、驚異的な成功をみた。アメリカ人のなかで、この日のことを記憶に留めている者は少ないが、日本のある世代の人々にとっては、長く忘れられない夜となった。あたかも巨大な手が伸びて火を放ったかのように、小さな木造家屋のひしめく東京が炎上した。火の手は狭い道路を超え、さらに火勢を増して広かった。東京大空襲では、最終的に八万三千人の死者と四万人の負傷者か出ているが、のちの報道によれば、この半数は窒息ないしは呼吸困難による死傷者だった。すさまじい猛火が大気中の酸素を奪ったということだ。日本側の対空砲火、あるいは戦闘機による反撃は徴々たるもので、東京一帯約十七平方マイル(約四十四乎方キロ)か焦土と化した。一都市を破壊しつくした稀にみる完壁な作戦だった。ルメイの伝記作者、トマス・コフィの記述を借りれば、「ルメイはわずか十四機のB29を犠牲にしただけで、日本の戦争遂行能力を壊滅させる方法を発見したのである」。その後も、日本各地の産業都市は次々と空襲を受け、東京同様の壊滅的な被害を被った。

  ルメイか成し遂げたことをルメイほど巧みにやってのけた者はいなかった。複雑な分析を要する改治状況から、ルメイほど素早くすり抜けた者もいなかった。もっとも、空軍の誰もかルメイに好感を抱いていたわけではなく、多くの将官たちからみれば、まともな礼儀もわきまえず、洒落た会話もできず、食事中に葉巻を吸う権利を認めろと主張して譲らない無作法な男だった。ルメイは極限まで世界を単純化して眺めていた。何らかの争いかあれば、敵と味方の一方しかなく、自分の側についた者は、敵方をことごとく倒すまで戦うぺきだと思っていた。大方の政治家は、この考えに恐れをなした。そんなルメイに皮肉をこめてつけられた仇名は「外交官」で、これは空軍の将官たちも愛用した。戦略空軍司令部がオマハに置かれることか決まり、司令官のルメイが初めて現地を訪れたとき、地元の記者か司令部の設置がオマハ経済に活気をもたらすのではないかと質問した。「将軍、これはオマハにとって素晴しいことだと思われませんか?」だが、ルメイの答えはにべもなかった。「オマハとは何の関係もないし、わしにとっても何の関係もない」

 政府と軍部との関係か複雑化し、ときには徴妙なバランスをとることも必要になっていた。ルメイはこうした時代にふさわしい男とはいえなかった。一九五二年の大統領選挙で、ルメイは初めて政権改党のアドレイ・スティーヴンソンに投票するのはやめ、共和党のドワイト・アイゼンハウワーに一票を投じた。だが、たちまちアイクには失望させられた。ルメイか期侍したほど保守色が強くなく、アカの驚異を憂慮する姿勢に欠けていたからだ。

 空軍力を増強し、ソ連の空軍力を決定的に抜き去る仕事を完壁にやってのけただけに、ルメイはこの空軍力を使ってソ連の兵器や軍事施設を一撃のもとに壊滅させる機会を心侍ちにしているらしかった。一九五○年代半ばに至るまで、ルメイは戦略空軍をもってすれば、「たとえ反撃を喰らおうと、一名の兵士も失うことなく、ソ連のすべてを(むろん、ソ連の戦争遂行能力という意味だが)壊滅させられる」と確信していた。ソ連に先制攻撃をすべきだと進言こそしなかったか、この種の戦略を立案できない上層部の無能ぶりを日頃から憤慨していた。「わが空軍にも、先制攻撃を仕掛けるより、待ちの姿勢をとるほうか得意だと考えるような連中かいるからな」

 ルメイか何より恐れていたのは、逆にソ連に先制攻撃を喰らうことだった。これこそルメイの描く最悪の悪夢だった。そこで、戦略空軍の計画全体を練り直し、先制攻撃を受けた場合には、瞬時に爆撃機を発進させ、報復攻撃が確実に行なえる態勢を整えた。第三次大戦も十分に想定できる状況だと考えていたルメイは、戦略空軍を常時、警戒態勢に置いていた。たとえ戦略空軍を指揮する立場になかったとしても、潜在的な敵国、とりわけ共産主義諸国に対しては、常に警戒を怠らなかったろう。米国軍部にジョゼフ・マッカーシーの同志かいるとすれば、それは紛れもなくカーティス・ルメイだった。当時、ルメイほどの高位にあった米改府要人や軍幹部のなかで、彼ほど共産主養に強烈な敵意を抱いていた者はほかにいなかったろう。ルメイはソ連の脅威自体が心配なのではないと言っていた。ソ連など一撃で叩き潰すことができるが、心配なのは、国内の反乱分子だ。共産主義の細胞がアメリカの何らかの組織に手を伸ぼすとすれぽ、標的になるのは戦略空軍をおいてない。彼はそう確信していた。しかもルメイに言わせれば、戦略空軍機を防備するはずの基地保安組織は、目も当てられない状態にあった。「わか空軍の最低の間抜けどもが陸軍憲兵(Mp)に回されてるからな」。そこでルメイは、配下の空軍憲兵隊を昇格させ、基地の警備に当たらせた。ベレーと白のぺルトを着用させ、拳銃も与えた。これで士気も高揚するはずだと彼は考えた。さらに服務規定も改定し、戦略空軍に属する者は全員、少なくとも空軍将官は、常時、拳銃携行することか義務づけられた。空軍憲兵隊は、装弾ずみのカービン銃を持ち歩いた。地上要員が軍機の整備をする際にも、拳銃を手放してはならなかった。あるとき、地方の戦略空軍基地を視察したルメイは、昼食中の整備士が銃を脇に置いいているのを目ざとく見つけると、地上要員を緊急召集し、こう注意を垂れた。「つい先ほど発見したのだが、ある隊員はハムサンドを武器に格納庫を守っていた。何をか言わんやだ」。さらにルメイは、破壊分子の侵入を防ぐ訓練も実施すべきだと決意し、これは間もなく公安ゲームという形て実現した。特殊訓練を受けた空軍隊員が公安テストを行なうのだ。念入りに扮装したテストチームが戦略空軍の各基地に飛び、基地内にこっそり忍び込んで高官を誘拐し、あるいは偽装爆弾を仕掛けるというテストである。あるチームは、基地の警備員に何とミッキーマウスやヨシフ・スターリン名義の通行証を提示して難なく基地内に侵入し、あとで偽装爆弾と分かる仕掛けの缶コーヒーを士官に手渡すことに成功した。一方、このチームの別動隊は、ずらりと並ぶ戦略爆撃機に次々と忍び込み、「これは爆弾です。あと十五分で爆発します」と記したトイレットペーパーのロールを吊るしていた。この訓練結果にルメイは烈火のごとく怒り、部隊の指揮官は解任され、部隊全員か朝五時から始まる五日間の特別公安訓練を受けさせられた。

 ルメイ自身を「捕獲」する計画も実施されたが、あえなく失敗した。ある隊員が電話の修理工に扮したものの、軍用の作業ズボンをはいていたためルメイに見被られ、逆にあっという間に拳銃を突きつけられたのだ。ルメイ邸の警備を命じられた下士官が、裏庭に出ていたルメイ夫人のヘレンに身分証明書の提示を求めたこともある。庭に出るのに、いちいち証明書なんて持ってこられないわと夫人は言い返したか、ルメイ夫人よりその夫のほうかはるかに恐ろしかった下士官は、それでは警備員詰所にお連れしなけれぱなりませんと通告した。激しい押し問答の末、ついに夫人は家に戻って身分証明書を持ってきた。

つづく