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■江戸時代中期以降、下山口では西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)巡礼が盛んだった。下山口の墓地には数基の西国巡礼供養塔が残されている。それは山口の北部を抜ける巡礼街道があったことと無縁ではない。 |
西国三十三所巡礼とは
西国三十三所は、近畿2府4県と岐阜県に点在する三十三カ所の観音霊場総称である。
西国三十三所巡礼は奈良時代の718年、大和国長谷寺の徳道上人が病気にかかり、生死の境をさまよっていた際、閻魔大王より悩める民衆を救うために、三十三カ所の観音霊場を広めてほしいとの託宣を受けたという伝説に始まる。人々はこの話を信じなかったため、徳道上人は授かった宝印を摂津国中山寺に納めた。
その後三百年近く経った平安時代。花山法皇が霊場を巡行されたことで西国観音霊場が復興された。その後、庶民の煩悩や苦しみを取り除き、救ってくれる観音信仰が広がり、江戸時代には伊勢参り、熊野詣でと並ぶ信仰となり、今日に至っている。 |
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■この巡礼街道は、西国三十三所の24番札所の中山寺と25番札所の清水寺を結ぶ巡礼街道である。当時の丹波(大坂)街道の一部で「平尻街道」と呼ばれていた。平尻街道は、名塩、東久保方面からの街道が船坂川手前で分岐して平尻を通過し 道場平田に至る街道である。現在の国道176号線の赤坂交差点の北側附近から西に向って、かっての大坂街道の名残りとおぼしき畦道@が残っている。更に西に進み中国道の高架下を潜り抜けると生コン工場Aがある。
■そのまま大坂街道を西に進むとすぐに七合橋Bがある。山口の中心部の有馬街道との合流点である明治橋に繋がる道である。大坂街道との分岐点を右方向に工場東の道を北に行くと船坂川に架かる鍋倉橋Bがにある。この橋が実態としては平尻街道の起点と思われる。
■その先を旧道が北六甲台の北側の中国道に沿って続いている。途中、北に入る小道の先に農作業小屋Cがある。平尻街道と山口を結ぶ街道の分岐点だった所で、現在も「平尻」の地名が残っている。過日、この小屋の庭先を訪れた際、小屋から出てきた70歳前後のおじいさんに出会い、話を聞いた。「この辺りは小字を平尻といっていた所で、この小屋は昔は街道筋の茶店だった。旧街道はあの向こうの山の谷間を通り、山中を縫って道場平田の宿までつながっていた。子供の頃は、名来の村で下草刈りをしていて、その街道を行き来していたもんだ。今は通れなくなってしまったが。その三つの墓石も、わしのじいさんとばあさんが倒れていたのを二人で起こして据え直したものだ」と、それぞれ「竹本多賀太夫D」、「宇滴宋圓E」の文字が刻まれた墓石と「蝸牛F」の文字が辛うじて判読できる墓石を指さした。いずれの墓石も建立の年号は見当たらない。この地の所有者でしか語れない貴重な情報だった。小屋の前に西に向って畦道Gが続いているが、その先は林に覆われた小山で阻まれている。 |
■ある日の朝、西宮市立郷土資料館編集の「西宮歴史散歩・案内マップ」記載の名来の山中にある道標を探訪した。かっての平尻街道沿いに建っていた道標に違いない。有馬川に架かる愛宕橋袂に名来神社Gがある。その北側の狭い舗装路を山中に向って東に進む。ゆるい坂道Hを200mほど進むと関電のフェンスで行き止まりとなる。それらしき石碑はないかと周囲を探すが見当たらない。
諦めて一旦帰宅し、郷土資料館に問い合せた。このマップの道標を現地調査したという女性職員から詳しい位置を聞いた。午後、再び探訪に出かけた。半袖シャツの両腕を笹の葉で傷つけられたり、蜘蛛の巣を顔中に浴びたりしながらようやく目的の道標Iに辿り着いた。
■道標にはお地蔵さんを挟んで両脇に「右 清水道/左ハ在所道」Jと刻まれている。なぜか道標の前の道だけは整備され、いかにも旧街道を思わせる風情Kである。清水道とは25番札所の「清水寺への街道」のことだ。まさしく巡礼街道である。だとすればこの道をそのまま東方向に進めば以前確認した平尻の茶店前の街道に通じている筈である。
腹を括って前進した。関電の工事道を左に見ながらフェンス沿いに進むと左に折れる。笹や倒木と格闘しながらひたすら進む。ようやく木の間に平尻の水田Lが見えた。その手前はぬかるんだ谷間になっている。構わず進むと最後に猪避けの低いトタンが遮断している。トタンを乗り越え畦道に出る。右手東方向には平尻宿の茶店跡の小屋が見えるM。ヤッタ!何とか旧街道を踏破した。
■帰宅後、再び郷土資料館の女性職員に連絡した。無事確認できたことと平尻宿の街道まで踏破できたことを報告。彼女からは「道標に刻まれた方角が間違っているのは設置位置が移動したため。以前は真向かいに反対方向に向いていたと地元の紹介者に聞いた」との情報を得た。確かにお地蔵さんは東を向いて建っていた。とすれば右は南方向で清水寺とは逆方向だ。反対位置に建っていたとすれば納得がいく。いずれにしろ平尻の茶店前の旧街道がこの道標とつながっていたことがあらためて確認できたことの収穫は大きい。 |
■道標前の旧街道から三田に抜けるルートが確認できていない。それを三田側から探訪しようと思った。名来墓地横の地道Nから東に山道Oに入る。途中から緩やかにカーブして南の山中に入る地道Pがある。軽トラックに乗った農家のオジサンと出合った。早速、平尻方面に抜けるルートを尋ねると、数年前に辿ったことがあるということで、詳しく教えてもらえた。「途中に竹薮や谷があるものの今も何とか抜けられる筈だ」とのこと。
狭い山道にトラクターのタイヤ跡が残っている。熊笹の迫る湿地の道を進むと竹薮に辿り着く。竹薮は右の斜面と左の谷に分れている。谷方向に進むが道らしき地形は見当たらない。逡巡の末ひとまず撤退することにした。道を尋ねた地点で先ほどのオジサンに再開した。「谷方向で間違いない。谷の西側に流れている小川に沿っていけば抜けられる」とのこと。
■折り返して山道を戻ると彼方に平地が見えてくるQ。今は畦道でしかない旧街道沿いの道場平田方面に、緑の繁る二本の樹Rが見える。その先には三田盆地を形作る山並みに囲まれた田畑と家並みの、のどかな田園風景が広がっている。名来の樹木に覆われた山道を抜けたばかりの地点である。山中を抜けて旅人たちは心和む思いで平田ののどかな田園風景を眺めたはずだ。
■正面の田圃に挟まれた畦道を進むS.道なりに有馬川の土手道をしばらく歩む。落合橋を少しすぎた辺りから土手を下りて平田宿の中心を走る旧街道に入る(画像21)。左には古い薬師堂が見える。旧街道沿いに昔の宿屋の様式をとどめた民家や茅葺屋根の古民家が今も残されている(画像22)。ここ平田が平尻街道の終点であり、かって平田宿があった所だ。
古民家の前でデジカメを構えていると、家からゴミ出しに出てきた70歳前後のオジイサンから不審者を見るような目つきで見つめられた。思わず「この道沿いに昔は宿場があったんですね」と声を掛けた。意表をつかれた質問に怪訝な顔つきが緩んだ。「向こうの古いお堂はいつ頃建てられたものですか」「お堂の中へは入れないんですか」と矢継ぎ早の質問にオジイサンの舌が滑らかになっていく。「子供の頃は有馬や三田に行くのはこの道しかなかった」「あのお堂は専門家の話では相当古いようだ」「毎月8日にお堂の中で村の人がお参りする」などの話しが次々出てくる。
現役引退後の長い人生が徐々に出番をなくさせていく。お年寄りにとって昔のふるさと話しは自分の世界に戻れる格好のテーマに違いない。そのふるさとは開発や近代化の波に呑まれて、風景だけでなくカルチャーまでもがどんどん変質してしまいつつある。ふるさとの風景や伝統や文化を守ることはお年寄たちの出番を促すことでもある。 |
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