1982年〜1984年当時の厚高

atsuko.gif新聞部についてatsuko.gif

1.当時の活動
2.入部のきっかけ
3.新聞作りは編集会議から
4.真っ白な紙面
5.面担の声は神の声
6.神の声は写真担当にも
7.取材は学校を休んでもいい?
8.図書館でカンヅメ
9.神奈川新聞社へ記事を提出

コラム1.新聞の一行の文字数

特別写真集「新聞部室は今・・・(2000年8月4日)

数年に1つくらいのペースで内容を追加します。超気長にお読み下さい。
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1.当時の活動

 当時の新聞部は、「厚高新聞」を毎年4回(5月、7月、10月、3月)発行していました。1ページの大きさは一般の新聞と同じサイズで、10月号が4ページ、それ以外は2ページでした。
 トップ記事で扱う内容は毎年ほぼ同じで、5月号が大学合格者数、7月号が戸陵祭(当時は7月開催でした)、10月号が生徒会、3月号が卒業式でした。10月号については、その他に修学旅行、体育祭と載せる内容がたくさんあるため、ページ数がいつもの倍になっており、神奈川新聞社主催の新聞コンクールへの応募作品?でもありました。
 この10月号は2年生の引退作品でもあり、毎年部員が総力をあげて取り組んでいました。10月号が発行されると部員は1年生だけになり、3月号は1年生だけで作っていました。引退の時期については、新聞部は特に早い方でした。引退後は、新聞部としての作業はほとんどありませんが、開校記念マラソン(4月)の番号札配りという大仕事?がありました。
 新聞部の正式名称は、「新聞委員会編集部」といいました。活動などについてはその他の部活と同様に行っていましたが、予算や部員の身分?などはその他の文化部とは異なっていたように記憶しています。


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2.入部のきっかけ

 入部のきっかけって何だったのだろう? 2年生と3年生の時に開校記念マラソンを走らなくてもいいから、という人もいたけど、僕に限っては違うなあ。だって、やらなくてもいいマラソンを、3年間も続けてやってしまったのだから。

補足:当時は開校記念マラソンは毎年行われていました。新聞部員は当日、順位札を配るため、1年生以外はマラソンを走らなくてもよかったのです!

 新聞部の他に考えていたのは、吹奏楽やバドミントン、陸上なんかだったんだけど、厚高の吹奏楽は運動部並に厳しそうだったし、バドミントンはほとんど女の子だったし(今なら迷わず入部してた?)・・・・・結局、中学の時に学級新聞作るのが好きだったので、ってなことなんでしょうか。


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3.新聞作りは編集会議から

 新聞発行日の2ヶ月前くらいになると、現役部員が全員が集まって編集会議を行い、各自がどういう役割を果たすか、またどんな話題を取り上げるかを決めていました。主な役割と内容は以下の通りでした。

役割

人数

内容

紙面担当
(略して面担)

1紙面に1人

紙面の構成
各記事の長さの決定
新聞社へ原稿の持ち込み

写真担当

1〜2人

写真撮影、現像、焼き

記事書き

残り全員

取材、記事書き

 一番の人気は、紙面担当(以後、面担と記します)でした。本当は、一般新聞で社説にあたる「論説」の担当者だったかもしれませんが、記事書きが大の苦手だった僕にとっては、やはり花形は面担でした。なぜなら、担当する紙面の構成を行うことができたし、そしてその紙面に関しては絶対的な権限を持っていたからです。独裁紙面だってなんのその。ということで、面担と写真担当は男子に人気で、女子は主に記事書きを担当していました。


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4.真っ白な紙面

 編集会議が終わると、記事書きの人は取材を開始します。とは言っても、部活の記事を書く場合は、担当の部の試合があるまでは何もすることがありません。毎日、毎日、トランプの日々が続きます。ところが面担は大忙し。トランプ大会を横目に、仕事に打ち込む毎日です。

 面担の最初の仕事は、紙面のデザイン。それを紙に書いてやるのではなくて、実際の紙面上に新聞の切り抜きを置いてやるというのが当時の習慣でした。まずは、板に厚高新聞を張りつけます。そして、その厚高新聞の「見出し」や「写真」の部分に、他の新聞から切り抜いた「記事」の部分を張り付けて、すべて記事だけの新聞を作り上げます。このような、見出しや写真が何もない紙面を、「真っ白な紙面」と呼んでいました。

 次に、この真っ白な紙面の上に、これまた他の新聞から切り抜いた見出しや写真を乗せて、紙面のデザインを行います。そのため、様々な見出しを切り抜いて用意しておかなくてはなりません。1段ものから2段、3段、4段、そして1行のものや2行のもの、小見出しが前にあるもの後ろにあるもの、飾りがあるもの、白抜きのものなど・・・。写真だって、いろいろな大きさ、いろいろな明るさ・コントラストのものを揃えなくてはなりません。

 このように苦労して作る紙面のデザインですが、自分が納得したからOKというものではなく、最終的には先生がOKを出してくれないと次に進めませんでした。僕の場合、凝った(ひねくれた?)紙面を作ろうとしていたせいもあって、なかなか先生がOKを出してくれなくて、10回以上も紙面を作り直したことがあります(他の人は2〜3回でOKでした)。

コラム「新聞の一行の文字数」

 2008年3月31日、新聞の文字がまた大きくなりました。そういえば、新聞の文字が大きくなりだしたのって、僕らが新聞部に在籍していた頃だったんだよね・・・

 入部当時、各新聞の一行の文字数は15文字でした。もちろん厚高新聞も一行15文字。ところが各紙の文字が大きくなることによって、一行の文字数が14文字とか13文字に減っていったのです。そして僕らが2年生になった頃、一行の文字数が15文字だったのは厚高新聞と日経新聞だけになってしまいました。

 まあ14文字だろうが15文字だろうが我々には関係ない、と最初は気にしていませんでしたが、上に書いてある”真っ白な紙面”を14文字の新聞で作ってみると、どうもしっくり来ない。結局、日経新聞を読んでいる友達を捜して、古新聞を持ってきてもらう羽目になったのでした。


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5.面担の声は神の声

 先生のOKが出ると、紙面の構成は完成です。紙面構成の完成とは、見出しの位置がすべて決まることを意味します。見出しの位置が決まると、当然各記事の長さが決まります。ここで面担から、神の声が下るわけです。

「あー、キミキミ! キミは何の記事の担当だったっけ?・・・えっ、体育祭? ええと体育祭は100行キッチリで書いてね。見出しは3段、記事は4段だよ。改段は各段30行だから、そこで文章を終わりにしないでね。」ってな具合に。

 おまえ××行で記事を書け!って人に命令できるなんて、面担ってなんてステキなお仕事なんでしょう! それまでの苦労が吹っ飛んでしまう瞬間です。ちなみに、上で述べている記事を書く時の注意事項についてですが、改段するところで文章を終えてしまうと、そこで記事が終わっているように読者に誤解されてしまうので、禁止事項となっています。


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6.神の声は写真担当にも

 面担から神の声が下るのは、記事担当者だけではありません。紙面に載せる写真にも、いちいち注文を出すことができます。

「えー、体育祭の写真ね、記事が右スミだから、左向きの写真撮ってきてね。あと、明るさは黒っぽくね。頼むよ」ってな具合に。

 新聞の写真は、被写体となる人物や物がなるべく紙面の真ん中を向いているのが理想と言われます。記事が右スミに位置しているなら、被写体は左を向いているのが理想なのです。体育祭であれば、人が右から左へ向かって走っているところをパチリと撮ればOKです。あと写真の明るさですが、紙面が白っぽくなりそうな時などは暗めの写真を載せて、紙面全体の明るさのバランスをとったりします。写真担当が指示を忘れて暗めの写真を撮って来なかった時は、「暗く焼いてこい!」と命令したり(わがままを言ったり)します。


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7.取材は学校を休んでもいい?

 各記事の内容が決まったら、取材が必要な人は取材に出かけます。例えば、○○部の関東大会の記事を書くのであれば、当然ですが実際に試合を見に行かなければなりません。しかし関東大会ともなれば規模も大きく、日曜日1日で競技が終わるなんてことはありません。たいてい土日の2日間となります。そんなとき、新聞部は土曜日の授業を休んで取材に行くことができました(しかも出席扱いの欠席。ラッキー!)。

 でも、授業を休んでまで取材に行くということで、緊張感もありました。競技をちゃんと見て、誰がどの場面でどんな活躍をしたのかをちゃんと頭に入れて、競技終了後に的確なインタビューをしなければなりません。また、そのように競技に集中していると、当然写真を撮ることはできません。だから大きな大会の取材は、写真担当の人と2人1組で行っていました。写真担当になった時は、あまりプレッシャーがなくてもっとラッキーでした。


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8.図書館でカンヅメ

 新聞発行の数週間前になると、カンヅメという儀式が行われていました。日曜日の図書館に朝からみんなで詰めて、記事を仕上げるのです。

 まず、わら半紙に印刷した新聞部独自の原稿用紙に、鉛筆で記事を書きます。マス目は確か、縦15文字、横10文字だったような気がします。これに自分の担当の記事を、縦書きで、面担から指定された行数で書きます。もちろん、改段にあたる行数にも注意します(上記5.を参照)。

 記事が出来上がると、同じく図書館に詰めている顧問の先生に見てもらいます。先生のOKが出れば、新たな原稿用紙にボールペンで清書して、記事書きは終了します。早い人であれば、午前中に担当の記事の清書が終わってしまうこともありました。

 お昼過ぎになると、引退した先輩方が差し入れを持ってきてくれました。大抵は、チェリオでしたが、いつも楽しみにしていました。

 僕はというと・・・、とうとう卒業まで、午前中に先生のOKがもらえることはありませんでした。清書も、すでに記事が終わってしまった人にやってもらっていました。いつも夜まで居残っていたような、そんな苦い記憶です。


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9.神奈川新聞社へ記事を提出

 当時の厚高新聞は、神奈川新聞社で印刷していました。ということで、地獄のカンヅメが終わると、そこで仕上げた記事を新聞社で新聞にしてもらう作業が始まります。

 まず、新聞社に記事を郵送して・・・、という具合に進めば、こんなに楽なことはありません。しかし、これは高校生が作る新聞。そんな未熟なものを送られても、どんな風に新聞を作っていいのか新聞社の方にとってはさっぱりでしょう。だから、生徒自信が記事を持って、横浜の神奈川新聞社まで説明に行っていました。

 説明に行くのは紙面担当の者のみ。顧問の先生の付き添いは無かったと記憶しています。厚高を授業が始まる頃に出発し、横浜に着くのが10時ごろ。横浜の関内駅から県庁の方に歩いていくと、神奈川新聞社はありました。

 新聞社に着くと個室みたいなところに案内されて、そこで一つの面につき1〜2時間かけて説明を行います。「ここに見出しを置いて、その内容はこれで、記事はこの用紙の内容で」という風に。すると新聞社の方が、メモを取りながら記事をクリップしていきます。紙面が二面しかない時は、午前中で終わってしまうこともあったような気がします。

 この作業は「記事出し」と呼んでいたと思いますが、これは紙面担当の特権でした。だって、学校を休んでも出席扱いだし、午後はフリーになる時もあったからです。そんな時は午後何をしてたかって?それは秘密です(笑)


[更新2009.6.30/作成1999.2.13]