2003/9/23
Wild Life


 朝方の雨が、窓の外の景色を濡らしていた。海別岳も斜里岳もミルクを溶かしたような霧に隠れてしまっている。
 用意されていた朝食を食べ、事務所へ降りてオヤジと奥さんに挨拶を済ませ、バイクに荷物をくくりつける。電機屋の目の前のガソリンスタンドで給油し、西へ向かって走り出す。小清水を抜け、東藻琴村まで来る頃になってようやく、雲が切れて太陽が顔を出す。
 美幌から津別へ向かい、山間を縫うように走る道道を使って陸別まで南下する。陸別駅の駅舎と一緒になった道の駅でバイクを止め、ぶらぶらと見て回る。「オーロラタウン93りくべつ」と名付けられたその施設には、公園や資料館、宿泊施設などが併設されており、この周辺の観光の拠点となっているらしかった。
 煙草と缶コーヒーを自動販売機で買い求め、バイクを止めた駐車場でプルタブを引き、煙草に火を着ける。多少の人の行き交いはあるものの、閑散とした雰囲気は拭えない。果たしてこの場所が、観光客で埋め尽くされるようなことがあり得るのだろうか。などと余計なことばかりを考えている自分に気がつき、気を取り直して再びバイクのエンジンに火を入れる。

 陸別から国道二四二号線を使って足寄まで降りる。足寄の駅前の食堂に入り、やたらと愛想の良い店のおばちゃんに勧められるまま、ジンギスカン定食を食う。
 バイク雑誌で頻繁に紹介されるために、バイク乗りがよくこの店を訪れるのだとおばちゃんは嬉しそうに言い、その一方で、不況のせいでバイクの客が減ったと顔を曇らせる。夏になっても就職の決まらない学生が多いために、学生ライダーの数が明らかに少ないのだそうだ。バブル絶頂の頃に就職期を過ごした俺には想像すら出来ない出来事が、今現実に起こっているのだと実感する。
 そんな話を聞いたせいかどうか、食後に出された茹でとうきびの味が甘しょっぱかった。

 足寄湖を左手に見ながら、国道二七四号線を行く。上士幌の町を抜け、ナイタイ高原牧場を目指す。
 だだっ広い畑ばかりの景色の中を、どこまでも真っ直ぐに道が続いている。然別方面へ抜ける林道が始まる少し手前に、牧舎と看板が立っていて、そこを左へ折れるともうそこはナイタイ高原牧場の敷地内だった。
 牧場内を走り出して少しすると、道の左手の牧草に覆われた山の斜面が、気の遠くなるような広大さで広がっていた。そしてその広大さは、「東京ドーム何個分」であるとか「何平米」だとか、そんな風に数値化して表せるようなものではなかった。
 斜面のところどころに牧牛の群が出来ていて、その牛たちは一様にゆったりと草を噛んでいる。山肌は大きくうねり、幾重にも折り重なりながら地平の向こうまで続いている。あまりの雄大さに人間の小ささと大地の大きさを実感する反面、ジオラマを眺めているような気にもなる。つまりそれは、見たこともないほど十分に広い土地を俯瞰しているからに他ならず、視野に入るもの全ての焦点が無限遠の位置にありながら陰影が明確で、望遠レンズを覗いた時のような圧縮効果を伴っていた。
 バイクをゆっくりと進めながらその景色に目をやると、クレーンやヘリコプターを使って撮影された映画のシーンのように、俯瞰している景色がゆっくりと動いて行く。言葉にならない声をヘルメットの中で発しながら、ひたすらその様子に心を奪われていた。実に、実に素晴らしい風景であった。
 展望台に近づくにつれ、その道路は道の下方に空が見えるような傾斜で上り、そのまま空へ飛び出してしまいそうな錯覚を起こさせる。そしてその頂点の少し先で右に左にうねりながら高度を上げていく様は、まるでジェットコースターに乗っているようだった。
 展望台の、やはりだだっ広い駐車場は、奇跡的な大きさで眼下に広がる帯広平野から吹き上げてくる風が強く吹いていた。バイクと車が数台ずつあるだけで、人の数は多くない。駐車場の平野側に建てられた土産物屋があって、その店のデッキから景色を見下ろし、ただただ呆然と立ちつくす。

 地図で見ると直線距離でホンの六、七キロ西にある然別湖へ行くために、牧場を下り、上士幌の町中で国道を北へ折れ、糠平湖の南側の温泉街を通り過ぎ、さらに幌鹿峠を越えてようやく目的地のキャンプ場に辿り着く。ナイタイ高原牧場から然別湖へ舗装路を使って行こうとすればどうしても、この四十数キロのルートを使うしかない。
 キャンプ場に着くと、すでにカトちゃんが到着していて、俺を出迎えてくれた。
 彼のバイクの横に自分のバイクを止めてヘルメット脱ぐやいなや、たった今俺が体験してきたこの感動を共有したくて、彼にナイタイ高原牧場へ行くように勧める。日暮れまでに往復してくるだけの時間は充分にあった。
 とりあえず荷物だけ下ろしたカトちゃんはすぐに走り去り、俺は自分のテントと彼のテントを設営し、その中に荷物を放り込んで体を横たえた。寒い。煙草を一本灰にしただけでテントに入り、寝袋にくるまって目を閉じると、すぐに幸せな眠りに落ちた。
 目を覚まし、時計を見ると、カトちゃんが出発してから丁度三時間が経っていた。テントを出て空を見上げると、丁度日暮れが訪れようとしていた。カトちゃんはまだ戻ってきていない。そろそろ帰ってくる頃だろうと風呂に入る用意をして、二キロ先の山田温泉までバイクを走らせる。温泉の駐車場にバイクを止めて煙草に火を着け、それを吸い終わると同時にカトちゃんのバイクが戻ってきた。そのまま温泉に入って冷えた体を温め、キャンプ場へ戻る。
 簡単な夕食を昨日から今日にかけての互いの行程を語りながら済ませ、感動を共有し合う。食後の煙草をくわえたまま地面に敷いたシートに仰向けに転がると、頭上の木の枝の間から星の明かりが降ってきた。カトちゃんにそれを言おうと彼の方を向くと、彼もそのことに気づいたようで、一心に空を見上げていた。
 木々の無い駐車場へ出て空を仰ぎ見ると、そこには無数の星が瞬いていた。そして生まれて初めて、こんなにもくっきりとはっきりとした太い帯状の星の川、つまりは天の川をこの目で見た。
 信じられないほどの数の星の群が、空いっぱいに広がっていた。そこには確かに宇宙があった。そして、宇宙船「地球号」に乗った俺がいた。


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