2001/7/29
最北ときどき北緯四五度のちフェアウェイ


 ハムとチーズをパンに挟み、キャベツスープとともに食う。早朝から漂っていた冷たい霧が晴れて、夏の陽射しが戻ってきていた。ジリジリと紫外線が肌を刺すものの空気は乾燥していて、何故だか吐く息が白い。
 食後にコーヒーを飲みながら、テントが充分に乾くのを待つ。パッキングを始めるとシャツが汗ばんでくるが、日陰に入るとそれがひいていくのがわかる。乾燥した荷物が、心なしか軽くなったような気がした。

 山を下り、中頓別へ向かう。空は快晴。連続するコーナーを抜けてストレートに差し掛かると、そのままどこかへ飛んでいってしまいそうだ。エルトン・ジョンのロケット・マンを歌いながらアクセルを開ける。
 中頓別へショート・カットする道が土砂崩れで通行止めになっており、仕方なく迂回路を走る。多少遠回りをすることになるが、それがどうしたという気になる。すでに、どこまで走ろうだとか、何時までに到着しようだとか、そうゆうことに頭が回らなくなっていた。ただ走り続けるだけ。嫌になったらやめれば良い。俺は自由だ。好きなようにやる。今までもそうしてきたし、これからもそうだ。そしてそれは自分自身によっても邪魔されず、ましてや他人にそうされることもない。勘違い野郎だと嗤われても構わない。不自由であると勘違いし、鬱々とした日々を送るよりはよっぽどマシだからだ。

 中頓別の町で、この旅で初めてホクレンのガソリンスタンドで給油する。もちろんホクレン旗を貰ったのだが、「安全運転宣言書」なる台帳に住所と名前を記入することと引き替えでだった。スタンドの親父が言うことには、道北、道東、道南で旗の色が違うのだそうだ。色はそれぞれ青、緑、黄の三色で、俺達が貰ったのは道北の青旗だった。スタンプ・ラリーもやっているらしい。今更どうということもないのだが、それでもホクレンの旗を貰うと安心する。ひょっとしたら、五月蠅くバイクで走り回ることへの免罪符のようなものなのかも知れない。歓迎してくれる人がいるのだということを確かめたかったのか。ライダーの心理を突いた、上手い企業戦略だと解ってはいるのだが。
 浜頓別の町に入り、コンビニで休憩する。ぶんちゃんが面白い看板を見たというので話を聞いてみると、「土地あげます」というのがあったのだそうだ。それも百坪。でも、ここらで百坪貰ってもな。というか、仕事もくれよって思う。土地と仕事さえあれば、そこにテントを張ってバイクで通勤するからさ。冬は暖かい土地で過ごし、春にまた帰ってくる。そんな人間に……くれる筈もないか。

 再び海沿いの道に出る。猿払村を過ぎる頃から山側の景色が変わっていく。どうしたらこんな風になるのか。まるで子供が砂場遊びをしたところへ草木が生えたような、奇妙な形をした丘陵地帯が続く。
 目前に広がる海へ落ち込んでいくような下り坂を下った辺りで、急に道路が混み始める。と思ったら、少し前にテレビ局の中継車が走っており、そのさらに前を走るスポーツ走行を前提にしたと思われる車椅子が、二三人のランナーとともに走っていた。何かのイヴェントだろうか。
 彼らを追い抜き、そこから少し走るともう、宗谷岬の駐車場だった。相変わらずの盛況ぶりだ。観光バスや車やバイクがひっきりなしにやってきて、日本最北端の地を標榜するモニュメントの前で記念撮影をする人の列が途切れない。あまりにもあっけなく日本最北端に辿り着いたことで、ぶんちゃんはどうやら不満を感じているらしい。もっとこうなんというか、国道を離れて人も滅多に通わないような荒れた舗装路もしくは林道を抜けてようやく辿り着く、いかにも「地の果て」といった趣の場所であると想像していた、と。はぁ、そーですか。
 追い抜いてきた車椅子とそれを取り巻く人達がやってきて、例のモニュメントの前で撮影を始めた。ADらしき若者に檄が飛ぶ。撮影を終えて駐車場の一角でバンザイ三唱を唱え始める。いったい何だったんだ。

 何の感慨も感動もなく、そこを後にして走り始める。空が薄く曇っていて、気温は十二度。寒い。と思ったらすぐに陽が差してきて、遠く稚内の町を望む宗谷湾沿いの海岸線を快調に飛ばすと、みるみる町が近づき、あっという間に稚内駅前まで来てしまう。
 稚内に仕事でよく来るという部員の彦太郎に教えて貰ったラーメン屋を探すが、残念なことに夜のみの営業らしく、開いていなかった。仕方なく目に付いたラーメン屋の前でバイクを停めてヘルメットを脱ぐと、ぶんちゃんが開口一番「飛ばしすぎだ」と言う。
 実は中頓別で給油した直後に、メーター・ケーブルが切れたらしくスピード・メーターがずっとゼロを指していて、正確なスピードが判らないまま走っていたのだった。もちろん、ギアが何速に入っているかとエンジン回転数から推測することは容易かったが、目視することによる自制が効かない訳で、気持ちの良い回転数を維持して走っていたらそうなっていたのだ。いや、言い訳はしませんです……。

 ラーメンと餃子とチャーハンで腹を満たし、今度は南下を始める。右手には利尻富士、左手にはサロベツ原野が見える真っ直ぐな道を走る。ひたすら真っ直ぐ走る。とにかく真っ直ぐ走る。いつまでもどこまでも真っ直ぐ走る。あとどれだけ走れば良いのか。固定されたまま退屈な右手。為すすべもなくさらに退屈な左手。俺がバイクを走らせているのか、勝手に走るバイクに俺が跨っているだけなのか。こんな時に限って、俺と俺のバイクは黒々とその影をアスファルトに焼き付けている。退屈さに慣れた頃、買い物をしようと決めていた幌延の町への入り口が現れ、漸く暇だった身体の各部を働かす。
 幌延へ向けて原野の中を走っていると突然、北緯四五度へのカウントダウンを始める看板が現れる。あと一キロ、五百メートル、二百メートル、そして遂に北緯四五度。だからどうした。
 国道四〇号に合流して暫く走るとまた、北緯四五度へのカウントダウンが始まる。そして北緯四五度。だぁーっ。拳を天に突き上げてみた。だからどーしたっつーの。
 幌延の町で給油し、駅前のAコープで買い物を済ませてバイクに積んでいると、地元のおっちゃんが話しかけてきて、今夜は旭温泉でキャンプするつもりだと言うと「そりゃ良い」と何度も頷きながら言う。おお、旭温泉のキャンプ場というのはそんなに良いところなのか。期待しちゃうぞ。
 さらに二度ほど北緯四五度をぶんちゃんとともに拳を突き上げて通り過ぎ、天塩町で海沿いの道に戻り、富士見というところの道の駅でソフトクリームを舐め、旭温泉への入り口を左折する。前を走るぶんちゃんのバイクがふっきれたように高速でコーナーをクリアしていく。負けずに着いていこうとさらにバイクを寝かせてコーナーに突っ込む。ステップが接地する。リア・シートで荷物が揺れている。旭温泉の施設の先で道が途絶えていた。

 山間の中にポツンと一軒だけ佇む古びた木造温泉宿の重い木戸を開け、受付のおばちゃんにキャンプ場の所在を訪ねる。が、ここにはキャンプ場など無いと言う返事が返ってきて当惑する。ツーリング・マップルには確かにキャンプ場のマークがあったのに。どういうことだ。
 キャンプ施設は無いが、宿の隣の芝生にテントを張るのは構わないだろうということで、おばちゃんはわざわざ支配人の許可を得てくれた。意気揚々と、宿の裏手の小屋で農機具の手入れをしていた支配人に挨拶に行くと、作業服に身を包んだ日に焼けたおっちゃんがその支配人であるらしく、外の水道と宿のトイレを使わせて貰えることを併せて礼を言う。そして支配人は、冗談を交えながら人懐こい顔で薄汚い俺達を歓迎してくれた。
 宿の隣の良く手入れされた芝生はどうやら非常に小さく簡易なゴルフ場であるようで、本当にここへテントを張って良いものかどうかを再び支配人に尋ねると、どこでも好きな場所に張れ、と言う。芝生の中へバイクを乗り入れるのだけはさすがに気が引けて、宿の横の砂利敷きの場所へバイクを停め、荷物を降ろして芝生の上にテントを張る。
 もちろん金を支払って宿の温泉に入り、手足にたっぷりと防虫スプレィを噴射し、宿の自動販売機で買った冷えたビールを飲み干す。陽が落ちる前に、豚と牛の焼き肉、ホウレン草のおひたし、しめじのバター炒めで夕食を摂り、星が夜空に現れる時間を待つ。
 空が暗さを増していき、宿のガラス越しに宴会の喧噪が聞こえてきて初めて、なんだか奇妙な場所でキャンプをしているのだと実感する。辺りが完全に闇に覆われる時間になるが、山の上から霧が降りてきて空を覆い始める。結局今夜も星は見えなかった。そういえば、北海道へ来てから月さえも見ていない。北緯四四度の夜は明るく、暗かった。


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