2001/7/23
舞い降りた天啓


 月曜日。俺という人間の動作保証温度を遙かに越えた外気温から逃れるためだけに空調の効いた職場に出勤し、メイルの送受信とホウムペイジの閲覧のためだけにパソコンの電源を入れ、冷たく冷やした茶を啜っていた。月末に控えた職場の引っ越し準備を済ませた今となっては、仕事もなく、ただ淡々と時が過ぎていくのを眺めているだけだった。
 得てしてそんなときに舞い降りてくるのが天啓というやつで、俺はそれに従い、周囲の人間に、俺のこれからの行動とその主旨を伝えたのだった。そして、明確で簡潔なそれは、「暇だからバイクで北海道を走ってくる」というものだった。
 準備らしい準備と言えば、キャンプ道具をバッグに詰め込む作業と船の予約をすることだけだった。荷造りは二時間で終わるし、予約の電話は五分もあれば充分。脳内宇宙ではすでに北海道に上陸してしまっている。諦めにも似た家族の了承も得て、あとはいくらかの金を握りしめて出発するだけだ。
 同じ職場で働いているぶんちゃんが仕事をぶっちぎって一緒に行くと言うので、彼の分と合わせて二名分の船の予約を入れ、土曜日の朝七時、苫小牧行きのフェリーに乗船すべく、俺達二人は大洗港にバイクを乗り入れた。
 乗船手続きを済ませるとすぐに乗船開始のアナウンスが流れ、フェリーの車両積載口の側までバイクを移動させる。ところが炎天下の中、積載口を目前にしたまま随分と長い時間を待たされる。暑い。汗が頬を伝う。船倉にバイクを乗り入れる頃には、シャツが汗でぐっしょりと濡れていた。

 大洗から北海道へ行くフェリーは二航路あって、商船三井(旧ブルーハイウェイライン)が運航している苫小牧行きと、東日本フェリーが運航する室蘭行きだ。苫小牧行きは朝発早朝着便と、深夜発夕方着便の一日二便。室蘭行きの船は深夜発夕方着の一日一便のみが就航している。前回、ツーリング部のイヴェントで北海道へ行くのに使った、有明から釧路へ行く近海郵船のフェリー(深夜発早朝着が二日に一便)が廃止になってしまい、それと入れ替わるように、大洗を朝出発して苫小牧に早朝到着するこの船が就航した。しかし、一日二便体制で運航するために投入された新造船「さんふらわあみと」及び「さんふらわあつくば」は深夜発便に回され、俺達が乗り込んだのは旧態依然とした「さんふらわあおおあらい」であった。
 個人的に旧ブルーハイウェイラインの船には良い印象が無く、むしろもう二度と乗るもんかと思っていたのだが、早朝に到着するという効率の方を選択してしまった。夕方六時過ぎに現地に到着しても、結局その日はそこで泊まるしか無く、走り出すのは翌朝からということになる。そのメリットを享受するためだけにこの船を選択したのだが、やはり今回も「もう絶対に何があろうとこの船には乗らない」と決意を新たにしてしまった。
 この船の何が酷いかというと、古めかしいその設備はもとより、二等船室内に割り当てられた人間一人分の居住スペースの狭さだ。船室内にびっちりと隙間無くひかれた、幅五十センチ長さ二メートルの毛布の上、それがその全てなのだ。俺もぶんちゃんも平均的な日本人の体格からすると大柄な方に属するので、このアウシュビッツの収容所もかくあるやといったスペースに二人が並んで横たわると、吐息がかかるほどに顔と顔とが接近し、腕はぴったりと密着することになる。そしてそれは隣り合ったそれぞれの反対側に位置する他の乗客とも同様な訳で、それが若いおねーちゃんならむしろ歓迎ではあるが、恐ろしいことにそこはむさっ苦しいバイク野郎の巣窟であったのだ。

 帰りの船は絶対に室蘭から乗ろうと固く心に誓い、取り敢えず甲板に出て出航の様子を眺めてみることにした。通常、船が接岸する場合というのは必ず船首からで、つまり離岸するには後進することになる。ただし、これだけ巨大なフェリーが後進のまま防波堤の外まで出ていくのには無理があるように思われ、一体どうするのだろうと興味深く観察していたら、真っ直ぐに後進して離岸した後、二艘のタグボートが船尾両舷からフェリーを押し引きし、狭い港内で見事に首尾を入れ替えてしまった。小さなタグボートが巨大なフェリーを懸命に押したり引いたりする姿にすっかり感動する。か、格好良い。仕事を終えて岸に戻っていくタグボートに手を振ると、向こうも手を振り返してくれた。う〜む、男の仕事やのう。憧れちゃうぜ。日に何度も出動の機会は無いのだろうけれど。

 準備のために前の晩殆ど寝ていないというぶんちゃんは、狭苦しいそのスペースで早々と寝入ってしまった。室内を見回すと、同様に毛布を被って寝ている人が殆どだった。空調は寒いくらいに効いている。俺はたっぷり取った睡眠のおかげで一向に眠くならない。今朝は五時に起きたが、昨夜は十時に寝たのだ。仕方なく喫煙所へ行き、持ってきた北方謙三の文庫本を読み始める。
 昼になってもぶんちゃんは寝たまま。昼飯をどうするかと聞いてはみたが、生返事のまま再び寝入ってしまう。一人で船内のレストランへ行き、エビピラフ八百円也を喰う。これがあからさまな業務用の冷凍食品なのだ。原価はおそらく百円もしないだろう。乗船前にコンビニで弁当を買ってこなかったことを悔やむ。悔やみながら喰う。胃に悪そうだ。
 船室に戻り、体を横たえて本の続きを読み始めるが、五分と経たずに睡魔が襲ってくる。なすがままに本と目を閉じると、次に目覚めた時には船内レストランで夕食の準備が整っていた。
 さすがに腹を減らしたぶんちゃんが、今度ははっきりと目覚め、連れだってレストランへ行く。メニューの選択肢は一つだけ。夕食バイキング千六百円。千六百円だ。千六百円という値段は、俺の大好きな一番亭@安食の塩チャーシュウメンが二杯食える値段な訳で、これまた惨めな気分になるほどショボい冷凍食品を前にして、もはや怒りすら通り越して笑うしかなかった。へらへらへら。
 甲板に上がり、落陽を眺める。そしてその後は暇。わかってはいたけれど、全く暇。本も読み終えてしまった。煙草も吸い飽きた。なので、寝ることにする。
 寝て起きると、船室では、下船の準備をする人達が慌ただしく動き回っていた。おー、いよいよ上陸か。それなのに眠い。どうしようもなく眠い。ぶんちゃんも眠たそうだ。いきなりこんなことで大丈夫なのか? 俺達、北海道へ着いたんだぞっ。しっかりしろっ。しっかりするんだー。


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