1999/1/23
あるいは不安と期待で一杯の荷物


 十和田湖を後にし、一路青森港を目指す。
 北海道だ。もうすぐそこに北海道がある。青森までの距離を示す道路標識が現れる度に、その数字はどんどん小さくなっていき、それとともに、遂にここまでやってきたのだというある種の達成感と、これからまた新しい旅が始まるのだという、切ないようなくらくらするような、そんな気持ちがどんどん大きくなっていった。

 バイクに乗り始める前から、月毎に書店に並ぶバイク雑誌は欠かさず熟読していた。どの雑誌も六月頃に出版される号の特集は、「北海道」と決まっていた。バイク乗りにとって、夏と北海道を切り離して考えることは不可能だ、と言っても過言ではあるまい。
 バイク乗りがツーリングを話題にするとき、誰かしらの口から必ず語られるのが、北海道だ。俺自身、北海道の話を始めると時間がいくらあっても足りない。話す方も、聞く方も、そのうちに尻がむずむずとしてくる。いてもたってもいられずに突然、有明や大洗に北海道行きのフェリーを見に行こう、となる。苫小牧や室蘭や釧路行きのフェリーを待つ人々で溢れかえる待合いロビーを後目に、フェリーへの乗船を待つ車の列の端にバイクを停めて、次々に人や車を呑み込んで低いうなり声のようなエンジンを響かせ、時折荒々しい鼻息のような煙を吐き出すまるで巨大な生き物のようなそれを眺めては、やがて北の大地への入り口に接岸するであろうその瞬間に、思いを馳せるのである。
 バイク乗りには、二種類しかいない。北海道を走る者と、そうでない者だ。とにかく、多くのバイク乗りにとって、北海道は憧れの地であるとともに約束の地でもあるのだ。

 やがて、青森港のフェリーターミナルが近いことを示す看板が目立つようになる。意外なほど街中に近い場所に、そこはあった。フェリーターミナルの駐車場には、不安と期待で一杯に膨らんだ荷物を括りつけたバイクがこの季節でもまだ、何十台と出発の時を待っていた。青森から函館まで約五時間。最終のフェリーに乗れば、翌朝早くに北海道へ上陸できる。が、どうやら最終便は混雑するらしい。二等船室で窮屈な思いをしたくはなかった。時間はあるのだ。比較的空いているという翌朝の早い時間の船に乗ることに決めて、乗船券を購入し、来た道を少し引き返したところの健康ランドを今夜の宿とすることにした。
 何日かぶりに湯船に浸かり、ビール二本を夕食の代わりにして、安楽椅子に体を横たえ、毛布を被って早々と寝入ってしまった。遠足の前の晩のようになかなか寝付けないのではないかという不安は、一日の疲れと僅かばかりのアルコールが、簡単に打ち消してくれた。
 目覚めるでもなく眠るでもなく、腕時計で時間を確認しながら何度も寝返りを打っていた。小一時間もそうしていただろうか。出港の予定時刻まではまだだいぶ間があった。しかし、はやる気持ちを抑えきれずに、遂には起きだして出発の身支度を始めてしまっていた。朝靄の匂いに包まれながら荷造りを終え、フェリーターミナルへ向かう。恋人と待ち合わせる時のように胸が高鳴り、こそばゆいようなじれったいような、そんな気持ちだった。乗船手続きを済ませ、出港までの時間を、停泊中のフェリーを眺めながらあれこれと思いを巡らして過ごす。

 この港から、一体どれだけのバイク乗りが、俺と同じようにこうして旅立ったのだろう。一人きりで、二人で、あるいは大勢で。ほんの数時間で手の届く距離を自走できないことへのもどかしさや苛立ち。だからこそ、旅のプロローグとして用意周到に準備されたこの場所に、特別な思いを抱かずにはいられないのだ。
 手軽な手段であれば、こんなにも猛りはしない。少なからずこれまでの道程を誇れるからこそ、それほどまでに彼等は気勢を上げ、満面の笑みをたたえるのであろう。羨ましく思う必要は、ない。ほんの少しの勇気さえあれば、誰にでも翼は用意されている。飛び立つことに臆するならば、少しだけ低い位置から眺めてみれば良い。力尽き、落ちたところで、せいぜいそんな眺めだ。
 人生は満ちてゆき、やがて溢れ、枯れてゆく。どれだけの器に、何を満たすのか。少しづつ溢れ出ていったその後に、胸を張れる何かが残されているか。どこまで走れるのか試してみたい。バイク乗りとして生まれてきたからには。

 やがて、乗船開始を告げるアナウンスが港内に響きわたり、誘導員の指示に従ってバイクを進める。ヘルメットはミラーに掛けてある。髪や頬を、海風が優しく撫でていく。オイル臭い船倉にバイクを乗り入れ、所定の場所にバイクを停める。と、途端に作業員が駆け寄り、ロープを使って手早くバイクを固定していく。タンクバックを肩に掛け、船室への酷く狭く素っ気ない鉄の階段を登る。
 広々とした二等船室に体を大の字にしてくつろいでも差し支えないほどの乗客数だった。甲板に出て出港の汽笛を聞きながら、煙草に火を着ける。その巨体を大きく一度身震いさせてからゆっくりと動き出した船は、やがて進路を北にとり、徐々に速度を上げていった。白くはじける波頭の上を、カモメが追いかけてきた。


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