1999/10/28
階段国道


 何日かぶりで家に電話をした。電話口に出た母親の態度は至って平穏で、愚息の安否を気遣う様子もない。もっとも、この旅に出る前から家にはあまり帰らない生活をしていたから、母親にとっては平時と何ら変わりのない出来事なのだろう。むしろ、夕暮れ時の忙しい時間に何の用だと言わんばかりの口調で、それもやはりいつもと変わらないのだった。
 何か変わったことはないか、と聞くと、あぁそう言えば裁判所からはがきが来ていたよ、と何気なく言う。
 この旅に出る二ヶ月ほど前に、高速道路上での速度超過違反で捕まったのだ。八十キロ制限のその道を、八十キロを遙かに越える速度で走行していて、レーダーによる取り締まりでご用となった。結果、赤キップを切られ、一発免停、簡易裁判所送りとなり、その出頭命令だった。
 出頭日時を聞こうとするのを遮って、母親はさらに喋り続ける。Mさんから電話があって、結婚式に出席できるかどうかの確認だったらしい。そうだった。それをすっかり忘れていた。結婚式への出席通知を出した後に旅立つことを思い立った訳で、その時点で友人の結婚式のことなど、忘却の遙か彼方だった。Mさんは、俺が旅立ったことを人伝に聞き及び、自宅へ確認のための電話を入れたのだろう。
 どちらの用事も、一週間後の一週間の間に済ませることが出来ると判り、来週中に一度帰宅すると告げて、電話を切った。
 取り敢えず一週間かけて千葉まで帰ることになり、函館からフェリーで青森まで行って、そこから日本海沿いを走り、新潟の叔父の家に寄ってから帰宅することにした。
 帯広の町をかすめ、濃霧の日勝峠を越え、千歳空港の横を南下して苫小牧へ出る。一週間という縛りが発生したことで、なんとなく慌ただしい行程となってしまう。本意ではなかったが、結婚式で友人達と再会するのは楽しみだった。何から話そう。そんなことを考えながら、大型トレーラーが行き交う国道脇のパーキングで、夕食の支度を始めていた。

 翌朝、パーキングに入ってくるトレーラーの轟音で目覚め、湯を沸かしてインスタントラーメンで朝食を摂りながら、一週間、つまりは七日間をどう使うかに思いを巡らせた。
 夕方までに函館まで走り、フェリーに乗れば、その日の内に青森までは行ける。新潟から千葉までは走り慣れていたし、高速道路を使わずとも一日弱で辿り着けることを知っていたから、残りの五日間を青森から新潟までの日本海ルートに充てることが出来そうだった。非常に魅力的な日本海ルートの選定作業は、フェリーの中での楽しみにすることにして、まずは函館を目指して走り出す。
 工業地帯の苫小牧を抜け、太平洋を左手に望みながら室蘭を通り過ぎ、昼頃には長万部までやってきた。蟹を売る店が林立する中の一軒の露店に立ち寄り、握り飯と蟹を買って、店の前のベンチで昼食にする。店のおばちゃんがお茶を入れてくれて、蟹をむさぼり食いながら、暫し世間話につきあう。脳天気にげらげらと笑うおばちゃん達に圧倒され、心地よい弾力を伴った毛蟹の身肉を味わうどころではなかったが、それもまた旅の愉しみ方のひとつであることを、俺はもう知っていた。
 立ち去り間際に貰った握り飯を、おばちゃん達の笑い声と一緒にタンクバッグへ忍ばせ、再び走り出す。胸の奥の方がじんわりと暖かくなって、既に秋の気配のする冷たい空気さえも心地良かった。

 夕刻までにはまだ少し時間のあるうちに、函館港のフェリーターミナルに到着した。乗客は少なく、すぐ次の便に乗れるようだった。受付で乗船手続きを済ませ、乗船までの時間を、駐車場に停めたバイクに跨り、海を眺めながら過ごす。
 いよいよこの地を離れることに対する感慨は、なかった。まだまだ走り足りないという想いはあったにせよ、特別な感情は芽生えてこなかった。憧れの地を自らの足で踏みしめた瞬間に、そこはもうありふれた場所のひとつになっていた。いつの日か、再びこの地を訪れることがあっても、俺はもう躊躇することなく、その一歩を踏み出すことが出来る。
 またあの油臭い船倉にバイクを乗り入れ、船室に上がる。酷くガランとした船室の窓から夕刻の空を見上げると、夏の名残の太陽が、紅く燃えながら沈んでいこうとしていた。
 四角く茶色いビニールで覆われた船室備え付けのまくらに後頭部をあずけ、地図を広げる。青森市内から内陸を通って日本海側へ出るルートは、なかなか魅力的ではあったが、北海道を走った後では、なんだか物足りないような気がした。
 そう考えて津軽半島のあたりの地図を見ているとき、あることを思い出した。津軽周辺を取り上げたツーリング雑誌の記事の中に、「階段国道」についての記述があったことを。場所は確か、津軽半島の先端、竜飛崎辺りだった筈だ。海沿いを走る国道が、ある場所で行き止まり、そこから先は階段になっていると言うのだ。
 とにかく、この目で見てみよう。そう思うと、もういてもたってもいられなくなってくる。そこから先のルートなど、もうどうでも良かった。今や、階段国道を登る自分の姿を想像することだけが、青森港に到着するまでの長い時間の心の拠り所だった。階段国道を目指すのだ。
 入港してから接岸するまでの、あまりにものんびりとしたフェリーの動きに苛立ちながら、船倉で、固定用のロープを解かれたバイクに跨っていた。やがて、鈍い金属音と共に船倉の扉がゆっくりと開き、暗闇の中にそこだけポツンと浮かび上がったフェリーターミナルへ降り立った。
 すぐさま、北海道に上陸する前日に泊まった健康ランドへと転がり込む。風呂に浸かり、缶ビールで喉を潤してから、仮眠用の安楽椅子に体を預ける。ところが、毛布を被って目を閉じても、一向に眠気がやってこない。悶々としながら何度も寝返りを打つが、その度に頭はどんどん冴えてゆく。一時間ほども、そうして虚しい努力を続けた挙げ句、遂に眠るのを諦め、想像の世界に自らの意識を遊ばせることにして、これから先に訪れるであろうまだ見ぬ土地に想いを馳せていた。

 七時前に目覚め、出発の準備を始める。結局、三時間ほどしか眠れなかった。それでも、階段国道を目指すという素敵な思いつきに抗えるほどの寝不足ではなかった。
 外へ出てみると、空は鉛色をしていたが、ラジオの天気予報によると、それでも降水確率は無視できるほど低かったので、意を決して出発する。
 津軽半島を反時計周りに巡る国道に入ると、途端に朝の通勤ラッシュ(ラッシュと言う言葉を使うのが恥ずかしくなるくらいに小規模であったが)に巻き込まれた。久しぶりに道路が渋滞するのに直面して、少し戸惑う。これよりも数十倍酷い渋滞の中を、車やバイクで職場へと通っていたのかと思い、気が遠くなった。
 渋滞を抜け、道が空き始めると、今度は眠気が襲ってきた。何しろ単調な道なのだ。道幅は狭く、見るべき景色もなく、目の前を走るトラックから吐き出される甘い臭いの排気ガスに酔い、気分まで悪くなってきていた。
 コンビニの駐車場にバイクを乗り入れ、暖かい缶コーヒーを買い、駐車場の輪留めに腰掛けて、煙草をくわえながらプルタブを引き上げる。甘ったるいその缶の中身を飲み下すと、じわーっと胃の中に広がり、気持ちの悪さが少しだけ薄らいだ。考えてみたら、今朝はまだ何も口にしていなかった。どうりで調子が出ない筈だ。すぐさま店内にとって引き返し、サンドイッチを二つ買って、同じように輪留めに腰掛けてぱくつく。
 それからさらに二本の煙草を灰にしてから、再びバイクを北へ向ける。道はやがて海沿いを走るようになり、小さな漁村をいくつも通り過ぎる。さらに暫く行くと、国道三三九号線の標識が見えた。道幅が狭くなっていき、海岸線に沿ってくねくねと複雑にカーブした道になる。この道だ。この道を行けば、階段国道に行き当たるのだ。
 件の雑誌の記事によれば、今では海側に、岩盤をくり貫いて通れるようにしたバイパスがあるので、うっかりすると見過ごしてしまう、と書いてあった。だから気を付けていたのだが、それでもやはり行き過ぎてしまっていた。竜飛崎を過ぎて、道が南下し始めたのだ。慌ててバイクをUターンさせ、それらしき場所を探しながらうろうろしていると、民家に入って行ってしまいそうな道の奥に国道の標識が見え、どうやらそこが階段国道の入り口のようであった。
 バイクを降り、階段国道と対峙する。本当にあった。ちゃんと国道三三九号の標識もある。早速登ってみると、結構な急勾配で苦労する。結局、途中まで登ったところでそれ以上進むのを諦め、眼下に港を見下ろしながら階段に腰掛けて煙草に火を着けようとするが、階段の下から吹き上げてくる強い海風で、なかなか火が着かない。山側に体を向けて、掌で覆うようにしてやっと煙草に火が着いた。吐き出した白い煙が、山の向こう側に千切れ飛んでいった。


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