1999/3/26
シンプルライフ


 門別から富良野へ向かうために、国道二三七号線を走る。
 沙流川沿いのこの道は、道央で旅程を終えたライダー達がフェリーを利用するために苫小牧や室蘭へと向かう常道であるようだった。この道で何十台ものバイクとすれ違う。五十ccから千五百ccまで、国産外国産を問わず、その種類は様々であった。申し訳程度のリアシートに傍目にも過積載であろう荷物を強引にくくりつけたレーサーレプリカや、誇らしげに重厚な排気音を響かせながら悠然と走り去るアメリカン。この地では、誰もが乗っているバイクの種類に関係なく、ただひたすらに、バイク乗りであることを楽しんでいるように見えた。

 その奇妙な看板を見つけたのは、平取の町に入って暫くしてからだった。最初、何気なく目にしたその看板に書かれた文字の意味を理解できずに通り過ぎてしまったのだが、二、三百メートル程走ったところで引き返し、その看板の前にバイクを停め、改めてその看板に書かれた大きくへたくそな文字を読んでみた。
『円盤空港UFO基地』
 そこには確かにそう書かれてあった。激しく動揺しつつもその基地とやらに行ってみることにした。が、実際には何て事ない只の公園であった。
 それにしても一体どういった意図で命名されたのだろうか。普通に考えれば、その地名を冠したものやその公園施設のポリシーといったものを反映した名前が妥当だと思うし、わざわざ奇を衒って命名したことの意図がその施設からは伝わってこない。名前負けしている、といった感が否めないのだ。要するに、一発芸なのだ。リピーターなど存在する筈もなかろう。まぁ、余所者があれこれ勝手なことを述べたところでどうなるものでもないし、むしろ失礼な話かも知れない。それにしても、『円盤空港UFO基地』か。
 二風谷観光公園やアイヌ文化資料館といったメジャーな施設には目もくれず、ひたすらに沙流川沿いのその道を北上する。岩志内ダムの少し手前の渓谷では、紅葉が始まりかけていた。どうかしている、と思ったが、ここは千葉ではないのだ。『円盤空港UFO基地』もそうだったが、もう少し単純に、純粋に、物事を受け入れるべきではないかと考え始めていた。理屈ではないのだ。頭で考えるよりも、もっとシンプルに感じるべきなのだ。どうかしていたのは、理詰めの日常を送っていた自分だった。感じることは、自分との対話であり、自然との対話である。太古から連綿と引き継がれてきた野生の遺伝子を、活性化させるということなのだ。人間の考える浅はかな常識など、自然世界では到底通用するものではない。シンプルであること、それは今も変わらず俺のライフスタイルである。

 期せずしてライフスタイルを確立してしまった俺は、日高峠を越え、気持ちの良いワインディングが連続する占冠村を後にし、南富良野町のかなやま湖畔キャンプ場に辿り着いた。
 このキャンプ場のテントサイトは、丈の長い芝生で覆われており、寝心地は、この旅で一番だった。しかも、具合の良いことに、キャンプサイトと道を隔てた目と鼻の先に公共浴場を備えた宿泊施設があり、それはつまり、入浴、飲酒、就寝までの一連のルーチンワークを、半径百メートルほどの円の中でこなせる、という有り難い場所であったのだ。唯一の難点は、サイト内にバイクを入れられないことだった。
 取り敢えずテントを設営し、目前の宿泊施設へ風呂を借りに行く。入浴料三百五十円を支払い中に入ると、ここがどうやら老人向けの施設であることが解った。正確には「老人向け」ではなく、「老人向き」の施設なのだが、実際に利用している人達の殆ど、いや、全てが老人であるのだから、こう言って間違いではあるまい。入浴料金も、六十五歳以上は無料、となっていた。
 浴場はそれほど広くはなかったが、湯は熱めで、冷えた体に心地よかった。入浴後に自動販売機でビールを二本買い込み、そのうちの一本を呑みながらだらだらと歩いてテントに帰り着く。
 風呂に入っている間に到着したらしいバイクが二台と、岐阜ナンバーのピックアップトラックが駐車場に停まっていた。二台のバイクは、グループという訳ではなさそうだった。それぞれ、少しづつ距離をおいてテントを設営していた。

 ビールを空けて米を研ぎに炊事場へ行くと、ピックアップトラックでやってきた俺と同年代くらいの男性が、ヴィクトリノックスのナイフを器用に使って、魚のはらわたを出しているところだった。

「綺麗な魚ですね」
「ええ、岩魚です」
「ええっ、岩魚ですかっ」
「この先のダムの辺りにうようよいますよ」
「へぇ、俺にも釣れますかね?」
「はは、そりゃ竿と糸と針があれば、誰にでも釣れますよ」
「いやぁ、なんせ『釣りキチ三平』を読んで釣りに目覚めた世代なもんで、岩魚っていうと、釣るのが難しい魚だっていう先入観があって」
「本州ではそうかも知れませんが、ここでは入れ食いですよ。沢山釣ったんで、後で一緒にどうですか?」
「もちろん、喜んで」
「せっかくですから、他のバイクの人達も誘いませんか?」
「そうですね、どうやら僕らだけみたいですし、ちょっと声掛けてきますよ」

 そうして他のバイク乗りに声を掛けると二人とも二つ返事で参加の意志を表し、めいめいに酒や食材を手に集まってきた。
 炊事場のすぐ隣りに砂利引きの広場があって、そこでならたき火も可であるとのことだった。発起人であるトラックの彼が、常備しているというブロックを数個組み合わせて、即席のかまどが出来上がった。
 自己紹介もそこそこに早速、魚を竹串に刺す係りと、火を熾す係りと、持ち寄った食材で料理をする係りとに作業を分担し、それぞれの仕事に取りかかった。俺は料理を担当したのだが、何のことはない、肉や野菜などの食材を適当な大きさに切り、炒めて味付けしただけだった。
 火が熾り、その火を取り囲むように竹串に刺した魚を並べ、ビールで乾杯した。
 一同がまず感心したのは、トラックの彼の手際の良さと、用意周到さについてだった。ブロックといい、竹串といい、薪や焚き付けなど、いつもそんなに持ち歩いているのか? という問いに彼は、「魚を釣って焼いて食べるのが、この旅の目的ですからねぇ」と、はにかんだ表情で言った。
 釣りもいいなぁと言うと、XLRに乗っているという大学生が、自分も釣りが目的で来たのだと言い、予備の竿も持ってきているから明日一緒に釣りをしませんか、と言うので、彼に甘えることにした。
 VTに乗っているもう一人のバイク乗りは、俺達よりもだいぶ年上だった。四十近いのだそうだ。プロのカメラマンで、報道関係の写真を扱っていると言う。見た目は四十間近とはとても思えないくらい若々しいのだが、発する言葉の重みは、やはりその年代のそれだった。
 現役報道カメラマンの語る事件現場の裏話に聞き入っているうちに魚が焼き上がり、熱々のそれを頬張る。旨かった。ただひたすらに旨いと思った。ビールがいつの間にかバーボンになり、話はやがて人生論になり、誰からともなく懐かしい頃の流行歌を歌い始め、笑い、涙した。俺達は、この日この場所をたまたま一夜の宿としただけの接点によって繋がれていた。その時を楽しく過ごしたいだけの仲だった。ただそれだけだった。でも、それでいいと思った。

 満天の星空を見上げて、誰かが言った。「明日も晴れるだろうか」


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