鉄幹・晶子結婚、新詩社隆盛 「みだれ髪」の発刊によって、すさましい反響の中 明治34年(1901)9月中旬、中渋谷272番地から一丁(約100メートル)ほど離れた丘の上 丘の上 『このたび移りし渋谷の新居は高き土地の木立多く、この日頃 朝毎に 二合三合の落粟拾はれ候に、京の北 と鉄幹が書く家です。下の図の2 中渋谷382になります。現在でも、息を切らせて登るくらい高いところです。 長男の「光」氏がその著、「晶子と寛の思い出」で 明治になって開発が進み、道玄坂と大和田横丁の道路沿いに家が張り付いて来た様子が追えますが、依然として382は大きな区域で、「畑」の書き込みの中に家屋が点在しています。木立が多く、落ち栗の実が拾える「山居」の状況の一軒を借りたことが わかります。 鉄幹と晶子結婚 明治34年(1901)9月中旬、鉄幹と晶子はこの家に引っ越し、10月、木村鷹太郎の媒酌により結婚しました(入籍は明治35年1月13日)。鉄幹28 晶子23才です。鉄幹は「武蔵野」で
井桁(いげた)苔に朽ちて とうたい、「夏草」で 鍋洗ふと 君いたましや 井(い)ぞ遠き 戸は山吹の黄(き)を流す雨 (夏草) と詠んでいます。井戸は共同井戸だったようで、山吹の咲き乱れる中、カマドに松の葉や杉の葉を燃やし、手をかざして煙を除ける姉様かぶりの晶子の様子が浮かんできます。 晶子のこの時代を自ら書いた小説「親子」では 『七夫とお浜は笹島の隣りを去って、二町ほども通りから離れた岡の上の一軒屋へ移った。お浜は嬉しかった。七夫の心も何とは知らず嬉しかった。今初めて、この女と一緒に住むような気がしたのである。女の唇は、日となく夜となく男によって潤おされた。』七夫=鉄幹 お浜=晶子(晶子小説集 p187) としています。しかし、みだれ髪の出版によって明星の同人は増加したとはいえ、生活は苦しかったようで、与謝野光 「晶子と寛の思い出」では 『・・・、いよいよ結婚ということになると、堺の僕のお祖母さんが、箪笥二棹に着物を詰めて送って来たそうです。貧乏だから、それをだんだん一枚一枚質屋へ持って行って流してしまって、おしまいになっちゃうんだよね。それも借りるのは嫌だって言って、買ってもらうの。自分が行くのも嫌で、金尾文淵堂という本屋の主人に売って来てもらうんです。渋谷の家のすぐそばに……道玄坂に質屋さんがあったんです。』(p24〜25) と書いています。晶子の 一はしの 布につつむを 覚えけり 米としら菜と からさけをわれ (しら菜=白菜、からさけ=塩鮭) 少しずつの食べ物を買って、ゴッチャにして包んでくる晶子のわびしさが別の実感として偲ばれます。このようにして、明治34年は暮れて新年を迎えます。 明治35年(1902)鉄幹29才、晶子24才です。1月1日付けで「明星」は「第二明星」となり、鳳晶子は与謝野晶子になります。 晶子実家を訪ね、入籍、兄と絶交 明治35年(1902)1月2日、鉄幹と晶子は関西に下ります。 晶子は実家に泊まり、鉄幹は大阪の文学同好者新年大会に出席します。1月13日、婚姻届を出しています。親からの承諾を得た晶子の晴れ晴れとした様子が玉野花子の手紙によって残されています。 『「かねて思ひゐし通りの君、まこと乱れ髪の君にて、されど艶よきおぐしを蝶々にとりあげて、濃紫リボンにしら花かざし、まことお年ほどには見え候はず、御自分には二つぱかりも急にふけしやう仰せられ候へど。 白のお襦袢の上に白茶地のおゑり、金糸も少からずおはして、菊びし更紗がた対のお下着二まいかさね、その上に召し給へるは綾のやうな地に織られて黒に白の二筋縞、名は忘れ候へどこのごろ流行の貴ときもの、くろ厚板の帯高くむすび給ひ、白に紅の小模様ある縮緬の帯上ふさひよく、まこと美くしき方様にて在し候。云々」』(玉野花子から増田雅子宛 中 晧(あきら) 与謝野鉄幹 p97) 身も華やかに飾り、帰途、鉄幹の親の墓に詣でています。しかし、晶子の兄はこれを許さず、長男・与謝野光は次のように書いています。
『渋谷の家で二人が結婚する。そしたら鳳の方では、兄の秀太郎が怒っちゃってね。「けしからん」というんで、東京帝大の学生だったから、渋谷の家へ会いに来たんです。そしたら、鉄幹の方も「帰れ」っていうようなことで、玄関で大喧嘩になる。これ有名なのよ(笑)。 伊藤文友館との不和、「白百合」の刊行 明治35年1月、どうしたことか、これまで、「明星」の発行、販売、「みだれ髪」の発行などに尽力してきた「伊藤文友館」と発売委託を解約します。 明星は明治35年1月から「第二明星」 となり、発行所は新詩社に変わっています。 鉄幹は理由を伊藤文友館側の契約不履行としたようですが、やはり支払いをめぐるトラブルと考えられています。明星はこの年の6月号は「白百合」 と名を変えます。その理由を 『「第二明星」は廃刊せり、新詩社は従来の主張たる新文芸趣味の鼓吹(こすい)を更に拡張して実行せむが為に、新たに機関雑誌『白百合』を出すに到れり。・・・ ・・・西欧文芸の翻訳紹介、新短歌の研究と創作、新体詩の創作と批評、絵画及図案の創作、美文及小説の革新、新俳句の創作、文学美術両界の批評と報道、新進才人の紹介、女流文学の奨励・・・』(「白百合」謹告) として、新たな領域拡大を目指したようですが、実質は「明星6号」と全く同じ内容だったとのことで、不評をかいます。そして、7月からは、また「明星」に戻 っています。この辺の鉄幹の行動は不思議です。 明星と対立、敵対する出版 いずれも鉄幹批判と中傷で、晶子には好意的な面もありました。これらに対し、鉄幹はあまり騒ぎだてをせず、無視する態度をとったようです。 長男「光(ひかる)」誕生 『妊娠の煩い、産の苦痛(くるしみ)、こういう事は到底(とうてい)男の方に解る物ではなかろうかと存じます。女は恋をするにも命掛(いのちがけ)てす。しかし男は必ずしもそうと限りません。よし恋の場合に男は偶(たまた)ま命掛であるとしても、産という命掛の事件には男は何の関係もなく、また何の役にも立ちません。 これは天下の婦人が遍(あまね)く負うている大役であって、国家が大切だの、学問がどうの、戦争がどうのと申しましても、女が人間を生むというこの大役に優るものはなかろうと存じます。昔から女は損な役割に廻って、こんた命掛の負担を果しながら、男の方の手で作られた経文や、道徳や、国法では、罪障の深い者の如く、劣者弱者の如くに取扱われているのはどういう物でしょう。・・・・ 私は産の気(け)が附いて劇しい陣痛の襲うて来る度に、その時の感情を偽らずに申せば、例(いつ)も男が憎い気が致します。妻がこれ位苦んで生死(しょうじ)の境に膏汗(あぶらあせ)をかいて、全身の骨という骨が砕けるほどの思いで呻(うめ)いているのに、良人は何の役にも助成(たすけ)にもならないではありませんか。 この場合い、世界のあらゆる男の方が来られても、私の真の味方になれる人は一人もない。命掛の場合にどうしても真の味方になれぬという男は、無始の世から定った女の仇(かたき)ではないか。日頃の恋も情愛も一切女を裏切るための覆面であったか。かように思い詰めると唯もう男が憎いのです。・・・』(岩波文庫 与謝野晶子評論集 p32〜33) として、男が「切端(せっぱ)詰まった人生」などと云うことがどれ程のことかと論じます。 石川啄木来訪 明治35年11月10日、17才の石川啄木が来訪します。11月1日 、午前10時、上野駅に着いた啄木は、その夜、中学の先輩、細越夏村(ほそごし かそん)の小日向台の下宿に泊まり、11月2日 、夏村の下宿から1町(約110メートル)ほど離れた、小石川区小日向台町(こびなただいまち)3丁目93番地大館光(おおだてみつ)方に宿を定めます。 中学校を中退しての上京のため、5年生への編入を目指し神田付近の中学を訪ねますが、叶いません。11月7日、朝、鉄幹のもとへ手紙を投函し、11月9日 、牛込神楽丁二丁目22番地の城北倶楽部で開かれた「東京新詩社 」の会合に参加します。 鉄幹と啄木は初めて会いました。相互に深い印象を与えあったようです。翌日、10日、光を生んで10日ばかりしかたっていない、ここの家を訪ねてきました。啄木の印象は非常に強いばかりではなく、文壇照魔鏡やその他の非難に傲然として立つ当時の鉄幹や晶子を的確に捉えています。11月10日の日記に
『先づ晶子女子の清高なる気品に接し座にまつこと少許にして鉄幹氏莞爾として入り来る、八畳の一室秋清うして庭の紅白の菊輪大たるが今をさかりと咲き競ひつ玉あり。 又云ふ、人は大なるたたかひに逢ひて百方面の煩
雑なる事条に通じ雄々しく勝ち雄々しく敗けて後初めて値 又曰く、古来日本の詩に最も不完全なり
しは比喩の一面にあり、泣董氏の如きは今までの詩界に最
も多く比喩を用ゆる人也と。又云ふ、白星林外諸氏に交は
れ。と。 17才の啄木の面目躍如たるものがあります。訪ねた道筋や前後の様子は「石川啄木」のページにまとめてあります。明治35年1 2月 鉄幹は歌集「埋木」を刊行します。小説、美文、長詩、短詩などで一冊にまとめられています。 こうして明治35年は暮れ、明治36年、37年は新詩社の隆盛期を迎えます。その家の跡を訪ねたいと思います。 中渋谷382番地の家
272番地の家の入り口に立つ標識から、マークシティの方向に進みます。
道が二方に分かれます。上記概略図の数字3の辺りです。右の道を進みます。
二つ目の路地を右に曲がります。急な坂道になっています。
坂は急なカーブとなり、なお、登ります。 登りは続き、左右ともビルで埋められています。強いて云えば ここからは宮益坂が手に取るように見えたと知人は云います。このページ最初の復元図から見ると
さらに、蕎麦畑であったところに立っても、現在では全く展望がありません。 昼休みの時間は多くの人通りがありますが 鉄幹と晶子、そして新詩社、それを取り巻く様々な人々の その後
明治36年から明治37年にかけての動きは下の通りです。晶子の父、鉄幹の師・落合直文、山川登美子の夫が死去します。新詩社は隆盛を迎え、山川登美子、増田雅子などが活躍します。そして、明治37年5月、丘の下の中渋谷341へ転居します。 これらの出来事は、いずれページを改めて書き込んで行きたいと思っています。 5月 中渋谷341へ転居
それは中渋谷382番地から、地続きの坂を少し下ったところでした。
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