与謝野鉄幹・明星創刊の地 しかし、鉄幹を名乗った与謝野寛は、この地で
その旧居跡は学校になっています。
鉄幹が住んだ明治32年当時は、まだ市電の建設段階で、現在とは交通の状況がまったく異なっているため、どこを出発点にしたらよいのか迷います。幸いなことに、主要な旧道の道筋が残されているので、当時の市ヶ谷 停車場(=現在のJR・市ヶ谷駅)からたどれます。なお、この図は市ヶ谷停車場=JR市ヶ谷駅から歩く感覚で見やすいように、南を上にしています。 番町皿屋敷のお菊が帯を引きずったとの伝承を残し、島崎藤村が明治女学校に通った帯坂は、図のように市ヶ谷見付と直結していました。現在では、「市ヶ谷駅」 A1口に出て、一度、靖国通りを渡り、山脇美術学院・日大の方向に出て、最初の細い路を右折します。
「帯坂」の現況で、将棋会館を右に見ながら進み、突き当たれば、二七通りに出ます。水道会館の角を左に曲がればあとは図の通りで、東郷公園、二七不動尊を経て、家政学院前の交差点から右側に、麹町社会保険事務所、東京家政学院と並び ます。家政学院前の交差点の突き当たりは(市ヶ谷方面からの場合は右側)麹町社会保険事務所になっていて、かっては、大橋邸、大橋図書館がありました。
麹町社会保険事務所の左側が東京家政学院です。
明治30年代の状況を復元してみました。上六番町四五番地は図のブルー・鉄幹居住地45になります。相当に広い敷地で、明治初年の地図を見るといくつかの建物が配置されていることがわかり、それらが貸家 となっていたことが頷けます。 現在の家政学院前交差点のある道は明治時代も変わっていないようです。現在は43番地に麹町社会保険事務所 44,45番地に東京家政学院中学校・高等学校があります。 大橋図書館のページに大橋氏が土地を取得した経緯を書きますが、上記地図右から、大橋邸・43番地、大橋図書館・44番地、鉄幹・瀧野の住んだ家・45番地( ブルー)と並んでいたことがはっきりしています。大橋図書館建設地=大橋邸は明治32年に川上操六から買い受け、大橋氏は明治33年12月に小石川から転居して、直ちに図書館建設計画が練られたとされます。 鉄幹は明治34年4〜5月前後、大橋図書館の建設中に、中渋谷272番地に転居します。さてさて、この家での生活と活動は凄いものでした。当時の地図を前にして、年譜を辿ると歌人の繰り広げた猛烈な世界に引き込まれます。 明治32年(1899)10月末、
与謝野鉄幹は林瀧野とここに住み たったの7行ですが、この間に、ここで営まれた生活と鉄幹を取り巻く世界には圧倒されます。 おおまかにその軌跡を追ってみます。
「新詩社」、「明星」創立・創刊の地
経費は瀧野の持参金をあて、資産家であった瀧野の実家が用立てたとされます。
明星5号まで「発行人兼編集人 林瀧野」となっているのはそのあらわれでしょうか。瀧野は鉄幹の二番目の妻にあたります。 明治32年(1899)10月、鉄幹は それまで同居していた浅田信子(徳山町の旧家・資産家)と別れました。その理由は、その年の8月6日に、信子との間に、子供「ふき子」が誕生しました。しかし、鉄幹との結婚を許さなかった信子の親は子供の入籍を許さず、 ごたごたしている間に、「ふき子」は9月17日に亡くなってしまいました。それを機会に親は離婚をすすめたようです。 信子は徳山へ帰郷し、鉄幹は信子の後を追います。信子は応ぜず、親も許さなかったようです。鉄幹が意気消沈の中に向かったのが、 近くに住む、かってのもう一人の教え子・林瀧野の家でした。鉄幹の特性でしょうか、ここで瀧野に突如、結婚を申し込みます。瀧野は四人姉妹の長女であったため、 親は躊躇したようですが、鉄幹が入り婿になり、林姓を名乗ることを約束に同意したとされます。 明治32年(1899)10月、林家の慌ただしい祝福の中で、鉄幹(26歳)は滝野(21歳)と結婚しました。数日を経て、上京します。その際、田辺聖子「千すじの黒髪」では、途中、広島で下車し、鉄幹が朝鮮で借金した仲間 と会い、瀧野の持参金から借金を返済しすっからかんになったことから、もう一度、瀧野が実家に帰って、両親に多額の金を用立ててもらう話がはさまれます。 東京に着き、『芝烏山の旅館に落ちつい』て、この地・麹町区上六番町四五番地に新居を構えました。この家についてはいろいろ書かれていますが、鉄幹と別れた後、正富汪洋(まさとみ おうよう)と結婚した瀧野の語りを正富汪洋がまとめた「明治の青春」が最も詳しいので、引用します。明治32年(1899)10月のことです。 『瀧野は云う。「明星」を創刊した麹町区上六番町四十五番地、この同番地内で寛と私と一度転居したことを知る人は少なかろう。移った家は前の通りに近く、その道に接して立派な門があって、八畳一間、六畳一間、四畳半一間、二畳の玄関、これに台所が附いていて家貸は十六円程でその頃は高いと感じた。 この玄関入口の右側に、大橋図書館が建った。図書館の番地は、四十四番地であった。大橋佐平翁がこの邸内に建設を開始されたが、翁は三十四年死亡、開館は三十五年六月頃であった。寛は、三十四年四月末、.豊多摩郡、渋谷村中渋谷二百七十二番地に、新詩社を移したから、図書館開館の頃には、そこに居なかったのである。 中略 ・・・ さて、その麹町の第一の家は、夜十時になると門が締るので、不自由であり間数も少く家賃も安かった。この奥の家に、寛は、出版を企画して前にもちよっといったが、O書店にいたとかいふ 若い男、Oを寄宿させていたが、或事情から、寛が怒って追出してしまった。そのあとに画家の一條成美を寄食させた。この成美と寛とは酒を飲みながら、ゴシツプをかはしたものである。』(正富汪洋「明治の青春」北辰堂版 p74〜75) としています。同じ番地の中で、住み替えているようです。 そして、「河本もよ」という50がらみの婆やを雇います。この婆やは、鉄幹を「相当の遊び人ですれっからし」と評価し、瀧野を大事にします。後に 瀧野が帰郷した後、せっせとその後の状況を報告します。晶子に冷たくあたり、 晶子はやり切れなくなって、「帰すことを」鉄幹に嘆願して、鉄幹が苦労する婆やです。 明星 明治33年(1900)4月1日、明星一号が発刊されました。鉄幹は「長酔」をよせ、島崎藤村の「旅情」が受けて、若者にアッピールしました。
小諸なる古城のほとり かって、麹町に青春を過ごした藤村が、若菜集(明治30年8月29日)、一葉船(31年6月15日)、夏草(31年12月6日)と詩集をあらわし、明治32年4月、小諸義塾に英語・国語の教師として赴任して、秦フユ(明治女学校卒業生)と結婚、新家庭を築いた頃です。 5月、明星二号に初めて晶子の歌が掲載されました。「花がたみ」(6首)で
しろすみれ 桜がさねか紅梅か 何につつみて 君に送らむ 明治33年8月2日〜19日、鉄幹は新詩社・明星の宣伝・拡大のため大阪、堺、京都へ出かけます。 講演会、歌会が開かれ、この時に、明星への投稿者であった、山川登美子、晶子と鉄幹が初めて直接顔を合わせました。 三人で大阪の住吉、堺の高師の浜に遊びます。8月4日から15日の間に、晶子、登美子は鉄幹と5回〜6回行動を共にし、両者とも鉄幹への思慕を深めたとされます。晶子は思いを寄せていた河野鉄南に 「・・・むかしの兄様 さらば君まさきくいませ あまりこころよき水の如き御こころに」 と別れを告げようとしています。 晶子、登美子は鉄幹への恋に身を焦がす出会いとなっていました。そして、この旅の間に、鉄幹は瀧野の里を訪ねたようです。渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では
『十日、鉄幹は岡山へ向かい、ここで新詩社岡山支部の講演会にのぞみ、翌十一日、徳山へ赴いた。ここはかつて鉄幹が十六歳から十九歳にかけて、次兄照幢が経営していた徳山女学校で教鞭をとったところであり、初めての妻浅田信子、さらに現在の妻滝野などと知り合ったところでもある。鉄幹は一旦、照幢が住職を務める徳応寺へ入ったあと、妊娠中の滝野の実家を訪ね、こじれている夫婦間の問題や新しく生まれてくる子供のこ
実家の言い分は、婿養子として入籍するという約束も守らず、金だけ持ち出し、家庭をないがしろにするような男は信用できないということであり、場合によっては離婚も辞せずという態度であった。話し合いはすすまぬまま、十五日、鉄幹は再び大阪に戻り、晶子、登美子らと高師の浜で再会した。』
(上 p101) 瀧野の胸の内 この時期、どんなに祝福を受けても瀧野の胸は晴れなかったようです。明治33年(1900)9月発行の明星第六号は、新聞型から雑誌型に変わり、表紙が一条成美(なるみ)の絵で飾られ 、発行部数も増加して、世の中に、注目を浴びてきました。新詩社の支部も増えてきました。
ところが、これまで発行編集人であった瀧野の名前はなくなり、与謝野寛に変わっています。また、新詩社の主張に
一 われらは詩の内容たる趣味に於て、詩の外形たる調諧に於て、ともに自我独創の詩を楽むなり。 などが新しく掲げられ、自我独創と我儘者の集りとする存在の特殊性を主張し始めます。晶子、登美子からはますます激情が詠われ 、鉄幹は心を奪われています。その片隅で、明星発行の実務を切り回し、資金の獲得に実家に迷惑をかける瀧野には、鉄幹と自分の存在に、とまどい、不安、疑いが生まれます。 明治33年(1900)10月29日、鉄幹は山口の瀧野の実家・林家を訪ね、瀧野と長子「萃」(つとむ)親子の 与謝野家への入籍の話をします。林家ではかって約束した鉄幹の婿入りの 実行を主張し 、知らされなかった浅田信子との関係も問いただしたとされます。最終的には、物別れとなり、逆に鉄幹への離縁を申し渡したとされます。この間の事は、渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」で次のように紹介されています。
『のちに滝野は、鉄幹と別れたあと再婚した夫・正富汪洋(まさとみ おうよう)を介して次のように語っている。
登美子、晶子、瀧野の別離 鉄幹(数え27歳)、瀧野(22歳)、登美子(21歳)、晶子(22歳)の四人の間にそれぞれの立場での葛藤がさざ波を立て始めます。 瀧野が冷たく見据えたとすれば、鉄幹が新たにあやつりを始めた三角関係です。
登美子の父は、娘の呼び戻しを図ります。もとメルボルン領事館の書記生で、銀座で江副商会の支配人をしている山川駐七郎に嫁ぐことを決めました。
登美子は、いかに歌と鉄幹に生きたくとも、当時の世相から、武家の子として親の決めたことに随わざるを得ないことを悟ります。ついに、12月
神にそむき ふたたびここに 君と見ぬ わかれのわかれ さ云へ乱れじ があり、鉄幹のもとへ晶子からの数多くの手紙が寄せられます。瀧野は鉄幹と晶子との交流の深さを知り、自らの道の選択と実家の意志を考え、鉄幹との離別 を決めます。その意志を晶子に手紙で伝えたようです。晶子が瀧野に感謝する手紙(明治34年3月13日)が残されています。
うれしく候 み情うれしく候 君すゐ(推)し給へ みたりここちの者に候 やさしの姉君は
何も 何も ゆるし給え このような中に、明治33年11月発行の明星八号が売禁止になりました。 明星8号の発売禁止 明治33年11月27日、明星八号は100ページ近いボリュームで、豪華な装丁によって発行されました。渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では次のように紹介されています。 『上田敏と鉄幹との対談による「白馬会画評」が評判を呼び、さらに「素蛾」と題した短歌欄には晶子、登美子の他に、玉野花子、中浜いと子、増田雅子など、若い女流歌人が華やかな彩りを添えていた。第六号以来続いている一条成美の筆になる半裸の若い女性像を描いた表紙にくわえ、挿絵には前とうしろ向き二様の完全な裸婦が登場し、そのアール・ヌーボー風の華麗な筆致が人目をひいた。明治という、ようやく西欧文明に目覚めた時代に、こうした斬新さは多くの若者に迎えられ、「明星」はまさに全盛期を迎えつつあった。』 (上 p175) ところが、12月6日、内務大臣男爵・文学博士・末松謙澄から、「明星」八号を発売禁止とする通達を受けました。理由は今から考えると全く馬鹿馬鹿しくなりますが、「風俗壊乱」 で、裸婦像(本文中2枚)が、見る者に嫌悪感と劣情を催させる、というものでした。 心ある全国の人々から反発と抗議がおこったようですが、鉄幹は対応に追われ、明星の発行計画は資金を含め混乱しました。この時、挿絵を模写した一条成美は責任を取って退職しました。 結果的には、後の「文壇照魔鏡」事件への伏線となっています。 正岡子規との和歌改革論議(子規鉄幹不可並称説) この時期、鉄幹は歌の面で本質的な問題を抱えていました。正岡子規との和歌の改革を巡る議論です。鉄幹、子規は共に 江戸時代からの伝統的歌(和歌、短歌、漢詩など)の世界から脱皮すべく、改革に情熱を燃やし、鉄幹は新詩社・明星を拠点とし、子規は根岸短歌会・日本によって、それぞれに違った立脚点から己の道を開拓していました。 その両者の間に、子規と鉄幹を同列に置くのはけしからんとする、子規の弟子・伊藤左千夫の発言から論議が起こりました。明治33年(1900) 夏のことです。尾崎左永子「恋ごろも」は次のように紹介します。
『もともと、正岡子規と与謝野鉄幹の間には、和歌を改新するという共通の目的があり、明治二十六年ころから、交際があった。お互いに相手の力量をみとめて、「明星」に子規が寄稿したこともある。『東西南北』の序も書いている。
鉄幹は子規が好きだった。子規の『歌よみに与ふる書』が出たのは、鉄幹の歌論『亡国の音』(明27〕よりも四年後のことであったが、鉄幹はこの書を高く評価した。病身でありながら、背筋をのばしたもの言いをする子規の筆勢を愛した。だからこの手紙に対しても、ごく素直に、それもいいだろう、と、率直に返事をしたのである。 佐々木信綱が発行する「心の華」(明治33年5月号)に 、毎号の選者として、与謝野鉄幹、正岡子規、渡辺光風、金子薫園などの「新派若武者」を依頼してはどうか、との記事が載ったのがきっかけでした。鉄幹、子規を並列して同じ位置に置くことはおかしいとするものです。鉄幹も子規も黙殺していたようですが、他の雑誌に、鉄幹をさらに卑しめる記事が載りました。鉄幹は9月12日発行の明星六号で「子規に与う」を書き、子規に釈明を求めました。尾崎左永子「恋ごろも」から引用します。 『一文壇の礼儀作法を知つている君であるなら、左千夫や坂井に書かせずに、君自身の名で子規は文壇の破廉恥漢でないといふことを弁明したまへ。兜をぬいだの、後輩の鉄幹などといふことは、和歌革新の歴史上、君が健全なる頭脳である以上は、断じて僕にむかつて言はれた義理ではあるまいと思ふ。僕は君の美学を聴くの前に、まづ君が態度の真正の芸術家として、野心以外に立たんことを希望し、その文壇の破廉恥漢にあらざる自白のロ供を要求するのである。』(p150) 子規は9月16日、誤解によるものであろう、として、「ご面会の機を得て申上度候」と書簡を鉄幹に送り、やがて両者が話し合い、歌の本筋でないところの対立の融和を図ったものです。瀧野、登美子、晶子などの関係が云々される中で、鉄幹が最も輝く姿を見せます。 子規は明治34年1月25日、新聞「日本」に掲載した「墨汁一滴」に次のように書きます。
『去年の夏頃 ある雑誌に短歌の事を論じて 鉄幹子規と並記し 両者同一趣味なるかの如くいへり。
乃(すなわ)ち 書を鉄幹に贈つて 互に歌壇の敵となり 我は『明星』所載の短歌を評せん事を約す。
爾後(じご)病牀寧日(ねいじつ)少く 自ら筆を取らざる事 数月いまだ前約を果さざるに、この事世に誤り伝
新年以後 病苦益々加はり 殊に筆を取るに悩む。終(つい)に 前約を果たす能はざるを憾(うら)む。 と書き、明治34年3月28日
『廃刊せられたりと いひ伝へたる『明星』は 廃刊せられしにあらで このたび第十一号は恙(つつが)なく として、病床にあって長文の批評をしています。明星第十一号は第八号の発売禁止の影響や資金繰りから発行が大幅に遅れ、明星廃止の噂が流れました。これに対する子規の安堵感が「恙(つつが)なく世に出でたり」に読み取れます。しかし、批評は厳しく、鉄幹・子規の間に流れる、人と芸術の暖かさ、厳しさを痛感させられます。なお、尾崎左永子「恋ごろも」は、この間の出来事を紹介しています。
文壇照魔鏡事件 君さらば 粟田の春の ふた夜妻 またの世までは忘れゐたまへ 瀧野はこれらを目にし、心を痛めます。そのような最中、2月27日、「日本新聞」に、どうしたことか、明星廃刊の記事が載りま した。
雑誌『明星』は体裁の美麗なる事 普通雑誌中 第一のものなりしが 遂に廃刊せし由 気の毒の 当時、資金難によって、明星が不定期発行になっていたことから、正岡子規が伝聞をもとに書いたものでした。鉄幹は子規にそのような事実がないことを説明し、子規は
○正誤、前々号墨汁一滴にある人に聞けるまま 雑誌『明星』廃刊の由記したるに、廃刊にあらず、只 として、訂正しました。こんな風評が流れ、子規の耳にも、鉄幹を巡る芳しからぬ噂や明星の危機が伝えられたようです。鉄幹は精力的に対応していますが、3月10日、今度は鉄幹を徹底的に誹謗する「文壇照魔鏡 第一 与謝野鉄幹」と名付けられた小冊子が発行されました。
横浜 大日本廓清会、代表 田中重太郎 印刷者 伊藤繁松 三月十日発行 定価二十五銭。 第三 与謝野鉄幹
鉄幹は如何なるものぞ
第六 敢て与謝野鉄幹に与ふ 明星は大きな影響を受け、支部は減り、発行部数も5000〜7000部とされていたものが2500部程に落ち込みました。明治34年3月23日、一ヶ月遅れで明星第十一号が発行されました。巻頭は鳳 晶子の「おち椿」79首が飾りました。山川登美子は「紅鶯」15首を寄せています。鉄幹と明星はこの事件により結束が強くなったとされます。しかし、次の明星第十二号が発行されるのは5月25日でした。 第三詩集「鉄幹子」・第四詩集「紫」の発刊
このピンチの中、鉄幹は明治34年3月、第三詩集「鉄幹子」を、同4月には、第四詩集「紫」を発刊します。 などがその内容です。
第四詩集「紫」(東京新詩社)には 渋谷への転居 鉄幹は文壇照魔鏡事件 の後始末と、資金繰りに追われます。すでに触れたように、瀧野は晶子に鉄幹を任せる手紙を書き鉄幹と別れる覚悟を決めています。鉄幹は負債に追われ、家財道具などが競売に付せられる状況だったといわれます。 瀧野は「萃」(つとむ)をつれて故郷へ帰ります。鉄幹は心機一転を期して東京府豊多摩郡渋谷村中渋谷272番地に転居しま した。 渡辺淳一は、明治34年(1901)5月25日発行の明星第十二号の巻末に社告があり、渋谷転居が触れられているので転居の日を4月末としています。伊藤整 日本文壇史 6 明治思想の転換期では、 『寛と瀧野が大橋家の隣の家に越した明治三十四年の四月、「文壇照魔鏡」事件の騒ぎのただ中で、瀧野は子供の萃を連れて山口縣の實家に帰った。その月の末、寛は一人で東京府下の澁谷村中澁谷二百七十二番地に越した。五月、瀧野は、ちょうどこのとき成瀬仁繁が創立した日本女子大學に入る目的でまた上京し、渋谷の家に来たが、子供が身体を悪くしたので再び田舎へ帰った。』 (p73〜74) としています。正富汪洋「明治の青春」では、4月9日に瀧野が帰郷し、4月末に鉄幹が渋谷に転居したと読み取れます。 田辺聖子著「千すじの黒髪」も瀧野帰郷の日を4月9日としています。(p236) 鉄幹と林瀧野の時代、明星の発展の基礎の時代、鉄幹受難の時代、そして、瀧野との別れ、嫁いだ山川登美子への思慕、晶子との 新しい結びつきが行われたのが、この地・麹町区上六番町四五の地で した。平成の女学生の声高な響きに反響するようにどっと明治30年代初めの様子が浮かんでくるのでした。 前の道は「二七通り」で、当時から祀られている二七不動にお参りして、東郷公園の角を曲がって上人坂を上がると右手に、幾たびかの転居をした後、今度は鉄幹・晶子で麹町に住んだ所に出ます。
浅田信子は鉄幹と別れた後、明治34年、上京して、東京国語伝習所に入り、東京女高師国語科を卒業して、一生独身を通し、教師として過ごしました。林瀧野は鉄幹と別れた後、上京し、樋口一葉の住んだ「水上の上」に間借りをし、そこで正富汪洋(まさとみ
おうよう)と知り合って、結婚します。
田辺聖子著「千すじの黒髪」(文芸春秋社 文春文庫)
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