文壇照魔鏡事件

 明治34年、与謝野鉄幹を個人的に、徹底して誹謗する四六判の本が発行されました。いわば「闇の怪文書」とも云え、発行所、著者共に偽名でした。下に紹介するように内容があまりにひどすぎ、鉄幹は疑惑を抱いた人を告訴する騒ぎとなりました。結果は証拠不十分で、鉄幹は敗訴しました。

 一連の出来事を雑誌「新声」が大々的に取り上げ、「明星」がこれに対抗するという、両者の諍いの様相を帯びましたが、実執筆者は不明で、当時の「文壇」のあり方を含め、長い間論議が続いています。

事件の発端

 明治34年(1901)3月10日、「文壇照魔鏡  第一 与謝野鉄幹」と名付けられた小冊子が発行されました。書店で販売され、一部の文士のもとに送られてきました。

 発行所 横浜 大日本廓清会(かくせいかい)、代表 田中重太郎 
 印刷者 伊藤繁松  三月十日発行 六章 128頁 定価二十五銭
 目  次 序 (武島春嶺 三浦孤剣 田中狂庵) 
       第一 照魔鏡の宣言。 第二 詩人と品性。 第三 与謝野鉄幹。 第四 文筆に於ける鉄幹。
       第五 敢て文壇と社会の諸君士に問ふ。    第六 敢て与謝野鉄幹に与ふ。

でした。次のような見出しで、項目ごとに鉄幹の生活ぶりを説明し、暴露するものでした。

第三 与謝野鉄幹

  鉄幹は如何なるものぞ
  鉄幹は妻を売れり
  鉄幹は処女を狂せしめたり
  鉄幹は強姦を働けり
  鉄幹は少女を銃殺せんとせり
  鉄幹は強盗放火の大罪を犯せり
  鉄幹は金庫のカギを奪へり
  鉄幹は喰逃に巧妙なり
  鉄幹は詩を売りて詐欺を働けり
  鉄幹は教育に藉口(しゃこう)して詐欺を働けり
  鉄幹は恐喝取材を働けり
  鉄幹は明星を舞台として天下の青年を欺罔(ぎもう)せり
  鉄幹は投機師なり
  鉄幹は素封家に哀を乞へり
  鉄幹は無効手形を濫用せり
  鉄幹は師を売る者なり
  鉄幹は友を売る者なり
  
第四 文筆に於ける鉄幹
  鉄幹は詩思の剽窃者たり
  鉄幹は文法を知らず
  鉄幹は学校を放逐せられたり
  鉄幹は心理上の畸形者たり
  中略

第五 敢て文壇と社会の諸君子に問ふ

第六 敢て与謝野鉄幹に与ふ
  「去れ悪魔鉄幹! 速に自殺を遂げて、汝の末路た(だ)けでも潔くせよ」

 というものでした。内容については、渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では

 『この内容には、
 ・同じ徳山出身の前妻浅田某子(信子)との強引な結婚にはじまり、
 ・いまの妻滝野をたぶらかして持参金を費(つか)いはたしたこと、
 ・以前、仕えていた下女サキにいい寄り、犯したあと狂わせたこと、
 ・さらに朝鮮では「官妓(かんぎ)をたぶらかし、無垢の少女を辱め、高官の妻と姦通し、
  只管(ひたすら)獣欲の餓鬼となつて荒淫乱行を重ね」、
 ・日清戦争の折には現地で数えきれぬ暴行を働き、
 ・「彼に強姦せられた処女は内外両国で無量八拾人」
 ・「強盗の列に加はり、韓国政府の財産を劫略(ごうりゃく)せり」
といった過激な文章が続く。』(上 p237)

 と紹介しています。序文には、武島春嶺、三浦孤劔、田中狂庵などの名前が並びましたが、いずれも、架空でした。発行所も代表者も実在ませんでした。しかし、 書かれている内容から内部に通じた者が書いたものと判断されました。

鉄幹の対応

 鉄幹は発行所や著者を調べ、不明であることから黙殺しようとしたようですが、 かねてからの仲間であった高須梅渓や吉蔵(春雨)が、放置は為ならずとして訴訟を勧めたりする過程で、かえって鉄幹に疑惑の念を持たせることになりました。

 一方、各新聞が取り上げて、読者から鉄幹に対する批判の声が上がってきました。新詩社支部の解散の動きもあったようです。これらの動きに乗るように、4月15日、雑誌「新声」が「文壇照魔鏡を読みて江湖の諸氏に愬(うった)ふ」として、鉄幹に攻撃 の追い打ちをかけました。代表は佐藤橘香(きっこう=儀助)、発行名義人は中根駒十郎、記者は高須梅渓でした。

「新声」「よしあし草」「明星」

 ここに名前を挙げた人々は、鉄幹と何らかの関わりを持つ人でした。簡単に追っておきます。

「新声」
 雑誌「新声」は、秋田県角館から上京した佐藤橘香(きっこう)が明治29年(1896)7月(19歳)、 神田一橋通り七番地に、独力で創刊しました。幅広い文芸批評を行い、 若者の投稿場所を提供していました。発行名義人の中根駒十郎は佐藤橘香(儀助)の妻の弟でした。

 明治31年(1898)暮れ頃、「文章講義録」の発行を計画し、大町桂月を中心として、32年3月に発行し、若い読者層から支持されました。この年、大阪で「よしあし草」に拠っていた高須梅渓が佐藤橘香の要請により、上京し「新声」の編集・記者となりました。

 明治32年夏、田山花袋に小説を依頼し、花袋は「ふる郷」(9月出版)を書いています。明治32年9月に、神田錦町一丁目10番地の表通りに、土蔵つき2階屋を借り、「新声社」と「大日本文章学会」の看板を出しました。

 明治33年、佐藤橘香と同郷(秋田県人)の田口掬汀(きくてい)が記者となりました。また、鉄幹の明星に挿絵を描いていた一条成美 が、明星8号の発売禁止処分によって退社した後、高須梅渓の誘いで新声に絵を描いていました。

「よしあし草」
 大阪では、明治30年7月、大阪の文学青年、小林政治(天眠)、高須芳次郎(梅渓)、中村吉蔵らが「浪華青年文学界」をつくり同人雑誌「よしあし草」を創刊しました。主として小林政治が経費を負担したようです。同人の高須梅渓 (芳次郎)は、ここから、熱心に「新声」に投稿していました。

 「よしあし草」には、同人として、鉄幹が小野村安養寺(堺の近く)の養子になっていた頃の親友・河野鉄南がいました。鉄幹は歌を寄せ、 明治33年3月からは、河井酔茗の推薦で「よしあし草」の歌の欄の選者となっていました。

 明治32年、鳳晶子は、「よしあし草」に「春月」を投稿(22才)して当選し、これがきっかけで、晶子は「文学というものに取りつかれ、後もどりできなくなった」(文壇史 5 p122)とされます。

「明星」
 明治32年(1899)11月3日、鉄幹は「新詩社」を麹町区上六番町45番地に創立します。翌、明治33年4月1日、機関誌「明星」を創刊しました。

 明治33年5月、明星2号に鳳晶子 と山川登美子の歌が掲載されます。その他の寄稿者は、高浜虚子、川上眉山、落合直文、佐佐木信綱、正岡子規、薄田泣董、久保猪之吉、服部躬治、金子薫園、高須梅渓、嘉納治五郎などでした。


 このように「文壇照魔鏡」が発行される前後には、各地で機関誌が発行され、それぞれに同人が関係し合っていました。高須梅渓は 鉄幹とは古い知り合いであったところから、明星拡張に意欲を燃やしていた鉄幹に関西行きを勧め、明治33年8月2日〜19日の大阪での講演会や歌会が実現しました。高須梅渓も講演会に出席しています。    

 明星に投稿し、鉄幹に親しみを持っていた山川登美子、鳳晶子などを直接、鉄幹に結びつけ、華やかな恋の歌を歌いあげさせた動機は高須梅渓がもたらせたということになります。

「新声」と「明星」の対立

 「文壇照魔鏡」には

 「鐵幹が世に持囃さるるに至つたのは、虎と剣とを引張り出して、頻りに豪宕を衒(てら)った爲である。旧派歌人の優柔不断なる調子に厭きた世に、豪宕らしく雄壮らしく見せかけた爲である。疎放磊落世に容れられず、痛憤のあまり満腔の熱血を吐出したやうに粧つた爲である。 」

 「俳句の方では根岸派(子規)、和歌の方は虎創流(鐵幹)である。其他にも随分あるのだが、之 等は先づ本山といふ資格である。眞面目に献身的に、斯道の爲に尽くして居る子規の如きは、眞の詩 人として予輩の敬重して居る処で、此人に就いては別に月旦する必要はないが(尤も俳句に就いて の意見はあれど)虎剣流の元租鐵幹に到りては、甚だ云はねばならぬ事がある。

  彼は今大いに名が 売れて來たのに乗じて、大いに勢力の扶植に努め、ますます手を拡げむと焦つて居るのである。し かし其運動は歌壇の爲に活動するのなら、予輩も大いに賛同を表する次第であるが、彼が運動の目 的は、餓ゑたる虎(自称による)の餌を得むが爲に、表面は巧みに馴羊の仮面を被つて、真摯熱誠 を粧うて居るが、情火内に燃えて色姻外に表はる、隠し了せぬ陰謀のほのめき出して來たのを見る に及んでは、予輩は之を軽視して置かるべきものでないと思ふのである。彼は文壇に於いて最も温 和なる(否寧ろ活氣のない者)と目されて居る歌人ではないか、それが仮面を被つて猫撫聲になつ て、満天下の子弟を欺瞞せむとする行動を爲すに至っては、予輩は公然彼に封して、汝は良心の賊 なり、社会を腐蝕する兇漢なりと宣言して置くのである。」

 などど書かれています。鉄幹への誹謗、子規への「敬重」とともに、少なくとも、ここには、旧派歌人と子規、鉄幹をはじめとする歌壇改革の動向がとらえられています。それを背景に、明治34年4月15日、今度は、雑誌「新声」が「文壇照魔鏡を読みて江湖の諸氏に愬(うった)ふ」として、鉄幹へ攻撃を仕掛けました。

 鉄幹も「明星」十二号で、反論しますが、心理的には相当の打撃を受けていたことがわかります。

 『如此(かくのごと)き無責任の位地に匿(かく)れて、讒誣捏造(ざんぶねつぞう)の毒筆を逞(たくまし)うし、陰険至極の手段を以て余一身の名誉を傷害せんとした大日本廓清会員の諸氏に、果して文壇の廓清などを論議する資格が有るであらうか。余は本書を以て徹頭徹尾文壇以外の産物であると断言する。

  よしや本書が神田警察署管内に於て常に風気の革新を呼号する某文学雑誌社の秘密出版であるとしても、夫は名を文壇に藉(か)つて私刑を営み私忿(しふん)に報ひやうとする 陋劣(ろうれつ)なる青年の団体から出版された迄で、決して文壇の廓清を思ふ正人君子の筆に成つたものでは無 い。』

 と「神田警察署管内に於て常に風気の革新を呼号する某文学雑誌社」として「新声社」を暗にさしています。文壇照魔鏡に関する各新聞・雑誌の反応は賛否こもごもで、とりわけ、「新声」の文壇照魔鏡に関する記事は厳しいものでした。

 そこで、鉄幹は新声社を相手に訴訟に踏み切ります。「新声」 の高須の文章をよりどころとして、筆者高須梅渓と雑誌発行名義人・中根駒十郎を当事者として告訴しました。結果は証拠不十分で鉄幹は敗訴しました。これに対し、5月15日「新声」は田口掬汀(きくてい)の筆で

 『「與謝野寛対新聲社誹毀(ひき)事件顛末」なる文章を発表した。その冒頭には、「我党、鼠輩鐵幹の如きを眼中に置きて、侃諤の言を爲すに非ず。文芸評論の有する機能は、我國法律の範囲内に於て、如何の程度まで及ぼし得可きかの、大問題を解決し、併せて我党の主張と態度とを表明せむが爲なる也」と書かれてあつた。』
(伊藤整 日本文壇史 6p71)

 と全面戦争を仕掛けています。これに対し鉄幹は次のように書きます。

 『由(よっ)て独り梅渓氏を戒むるのみならず、無責任なる批評を以て他を中傷する近時の似非(えせ)文士を警戒するが為めに、誹毀(ひき)罪を以て司法処分を仰いだ。然るに幸福にも『証憑不充分』(しょうひょうふじゅうぶん)の理由の下に梅渓氏等は無罪と成つた。

 新声社の諸氏は之を以て再び余を攻撃するの材料とし、本月十五日の『新声』誌上に曲筆舞文の手段を尽して、更に魔書の記事を真実なりと断定し、正面より余を文壇の醜類だと宣告して居る。余は最早如此き新声社の態度に就て文筆の上に是非を下すの要を見ない。但だ現今の文壇は此類の操觚者(そうこしゃ)が一部青年間の勢力と成つて居る事を告げて、大方識者の参考に供して置かうと思ふ』 (操觚者(そうこしゃ)=文筆に従事する人)

 こうなると、「新声」と「明星」の紛争の様相を示してきました。尾崎左永子氏は「恋ごろも」で次のように分析しています。

 『世間の人々は、興味本位に鉄幹と「明星」の閨秀詩人たちに注目し、今まで旭日の勢いにあった「新派和歌」のスキャンダルと信用失墜に、ざまみろと溜飲をさげるものたちもいた。

 鉄幹がこれを「私事」として穏やかにおさめようと心がけたについては、その告発が幾許かの真実を含んでいたこともあったろう。しかし、当時の大陸壮士たちの行状は、むしろ野蛮であることを誇るようなところがあったし、「虎剣調」を売りものにした鉄幹が、青年の客気に任せて、多少の逸脱をしたところで、何ほどのことでもない。それをことさら誇張して集中攻撃することには、一体、何の意味があったのだろうか。

 むしろそれは鉄幹が、標的にされるほどに実力をもち、嫉妬を買うほどに「明星」が発展しつつあった、ということの証左でもあろう。そうとすればこの事件は、一条成美や高須梅渓の私怨を利用した新声社の作為、つまり対抗勢力として目障りな新詩社放逐計画があった、としか考えようがない。』(p229)

 鉄幹の指摘する『文壇は此類の操觚者(そうこしゃ)が一部青年間の勢力と成つて居る事』は、当時の現象として注目すべきことと思います。

当時の文壇と雑誌

 当時の文壇と雑誌の状況を伊藤整は手際よく次のように伝えます。

 『この當時、文壇の中心的な雑誌としては、博文館の「太陽」と「文芸倶樂部」があり、春陽堂の「新小説」があり、更に金港堂の「文芸界」が出てこれに加はつた。しかし商業雑誌と同人雑誌と投書雑誌との性格を少しづつ持つものとして、東京帝大の文科大學を背景とする「帝國文學」の外に、佐藤橘香、田口掬汀、高須梅渓等の「新聲」、河井酔茗、小島烏水等の「文庫」、與謝野鐵幹と晶子の「明星」の三誌があつた。

 この三誌は新人の養成機關または投書雑誌として、経営上からは二流の文芸雑誌であつたが、たがひに競争的な立場にあつた。それ故明治三十四年に起つた匿名パソフレット「文壇照魔鏡」事件も、「新聲」と「明星」との間に起つた争ひの現はれだと見られてゐた。若い詩人、歌人、評論家、画家、小説家は、この三冊の雑誌の何れかに属し、色々な事情で離合集散する傾向があつた。』(日本文壇史 6 p230)

 また、和歌の革新を目指す集団として、伊藤整は
  与謝野鉄幹の「明星」
  佐佐木信綱の「心の花」
  新聞「日本」に歌論を書き、歌欄を設けた正岡子規

 の三つをあげて、鉄幹の師・落合直文がとった行動を次のように書いています。

 『・・・・。與謝野鐵幹と鳳晶子の事件が「交壇照魔鏡」によつて醜聞として流布された頃、「日本」の記者であつた坂井久良岐が匿名の文章を毎月佐佐木信綱の「心の花」に寄せてゐたが、その中で手ひどく與謝野寛を攻撃したことがあつた。

 この三派の間には旧派の歌から脱して新風を作り出さうといふ一種の獣解があり、三四年前の明治三十年には、落合直文も含めて、正岡、佐佐木、與謝野、大町、塩井等が新詩曾といふ集まりを作つてゐた。それ故佐佐木の雑誌に與謝野攻撃の文章の載つたことは、落合を激怒させた。落合直文は、そのとき東北地方へ旋行中であつたが、族先から佐佐木信綱に手紙を出した。その中で彼は次のやうに述べた。

 「余は可成我慢して諸君と提携致し和歌の革新に従事せむと思ひしかども忍ぶこと能はず、頑迷なる強敵猶四方に猖獗(しょうけつ)をきはめをる今に、われわれ革新派にて仲間われするは好ましからねど、今はいかにせむ。帰京の上整々堂々弁難攻撃に從事せむと存候。」

 落合直女は東大の古典科で佐佐木信綱の父弘綱に習つたことがあり、信綱もまたその古典科に學んで直文の後輩であつた。信綱は直女より十一歳下であつたから、先輩として封してゐた。直文が旅先から帰ると、信綱はその家に行つて色々読明し、やつと諒解を得ることが出來た。』(日本文壇史 7 p270〜271)

 師弟関係で結ばれていたとは云え、鉄幹にとって、さぞ心強い援軍であったことと思われます。麹町区上六番町45番地の鉄幹が新詩社をおこし、明星を発刊した場に立って、これらのことを振り返ると、様々に彩りを持って伝えられる鉄幹の女性問題もさりながら、子規との関係と併行してこれらの問題に対処した鉄幹の姿と心情が強く胸に迫ります。 

 雑誌「新声」は売り上げが伸び、業務の拡大をします。鉄幹は打撃を被り、明星の発行部数は半減(5000部→2500部)し、会員も脱会する者が多かったようです。しかし、結果的には、その後、明星の結束が固まり、次の活動が飛躍したとされます。

実筆者捜し

 証拠不十分の扱いは、結果として、では、誰が書いたのか?の疑いをそのまま残しました。長い間、実筆者捜しが続いてきました。

 鉄幹や成瀬正勝の言うように、高須梅渓か、
 それとも、田口掬汀(きくてい)か、
 正岡芸陽、佐藤橘香・・・はてまた誰?  
 個人・単独それとも複数(石丸久)?  
 ・・・などなど。

 一時は高須梅渓 が有力とされた気配もありました。しかし、岡 保生の明治文学論集2―水脈のうちそと―「文壇照魔鏡の著者」(新典社・平成9年)では、

 1 当時の「新声」発行名義人 中根駒十郎の証言
 2 新声社の内部事情

から「田口掬汀」を特定しています。

1 当時の「新声」発行名義人 中根駒十郎の証言

 日本近代文学第十九集(昭和48年10刊)に成瀬正勝が中根駒十郎に直接聞いた話として、

 『ふと思い付いたことだが、新潮社の大番頭ともいえる中根駒十郎さんをお呼びして文壇回顧をしてもらったの
もこの頃のことではなかったか。中根さんは漱石をはじめ、蒐集された多くの作家の書を持参して展示された。
その折わたしは例の鉄幹を弾劾した『文壇照魔鏡』事件の渦中の人であったことを想起して、その筆者はだれで
あったかを問うた。中根さんはこともなげに、

  「それは高須梅渓です」と即答された。』

と記されている。しかし、それは記憶違いで、同席していた「岡 保生」は、中根駒十郎が「田口掬汀」と言った。それ以前にも、直接、中根駒十郎から「田口掬汀」であることを聞いている。それは、

 『 わたくしは昭和三十三、四年ごろ、小栗風葉について調べていたとき、中根駒十郎氏が風葉の原稿「恋ざめ」を所蔵して欝られることを耳にし、氏のお宅をたずねて見せていただいた。 ・・・

 わたくしは中根邸での対談の何回目かに、話題が『照魔鏡』に及び、あれはだれが書いたのですか、と聞くと、中根さんはすぐ「あれは田口掬汀という文士で、あのころ新声社にいたんです」と言われたのである。「掬汀」と呼びすてであった。そして、「もういまなら事実を言ってもいいと思いますから」とのことだった。』(p98〜100)

 としています。さらに、新声社の内部事情を考えて、次のように書いています。

2 新声社の内部事情

 『これに加えて、わたくしは『照魔鏡』の執筆刊行当時の新声社の内部事情というものも、あわせ考えられるべきだと言いたい。当時の新声社は、社長の橘香佐藤儀助は別格として、梅渓や奥村梅皐、西村酔夢らは、いずれも大阪から上京して入社した人びとだが、その経歴からみてかつて鉄幹となんらかの交渉があったかと思われなくもない。

 とくに梅渓の場合は、はっきりしていて、『照魔鏡』のなかにも、「其三 罪状の十六 鉄幹は友を売る者也」に、

 青年文士として多少の名ある高須梅渓や河井酔茗なども彼れ(注鉄幹)が網に懸った間抜鳥の一類で、彼れ
が巧言に証かされて、今尚眼が覚めずにゐるのである。

 と書かれている。これに反し、掬汀は、本書刊行の前年、明治三十三年の十二月に秋田県角館から上京して、新声社に入社したばかりであり、これまで『新声』の投書家で活躍していたとはいえ、新詩社や鉄幹とはおそらく直接交渉はなかったはずで、むろん鉄幹に面識はなかったものと思われる。それゆえにこそ、『照魔鏡』に見られるどぎつい表現、

 彼に強姦せられた処女は、内外両国で無量八拾人だと云ふ事である。(P42、罪状の四)
 ああ鉄幹は強盗の列に加はり、韓国政府の財産を劫略した悪人である。(P47、罪状の五)

 あるいは巻末の
 ああ明治の文学史は汝に因つて穢 され、明治の社会史は汝に因つて汚されたのである。(中略)ああ汝の命数は已に尽きて仕舞ッた。社会に棲息する資格を剥奪されて了つた。去れ悪魔鉄幹! 速に自殺を遂げて、せめては汝の末路たけでも潔くせよ。(第六)

 のように、悪口雑言としか言いようのないことばを平然と鉄幹にたたきつけることができたのは、掬汀が地方から上京したばかりで、鉄幹その人をまったく知らず、ただ新声社で揃えあげた資料だけをたよりに、がむしゃらに舞文曲筆していったからではないか。わたくしはそのように想像しているのである。 』(p109)

渋谷への転居

 照魔鏡の影響をまともに受けて、明星の売り上げが半減し、脱会者が増加する中で、鉄幹は借金に追われ、家財道具の競売に迫られます。妻・瀧野は子供を連れて故郷に帰り、 この事件の最中、鉄幹は渋谷村に転居しました。明治34年4月のことでした。

 次は、鳳晶子が上京し、与謝野晶子となり、明星の発展期を迎えます。(2004.12.05.記)

与謝野鉄幹・晶子目次へ

ホームページへ