崩岸の上に(4)
(東京都稲城地方)

万葉集巻14で 「崩岸(あず)の上に」「崩岸辺(あずへ)から」とうたわれた、歌の故郷を追って
歌の情況が地形・地質・歴史的な背景を通して感じられる
多摩川に面した東京都稲城地方の訪問記です。

  @瓦谷戸窯跡 A大丸遺跡・横穴墓 B大麻止乃豆乃天神社 C六間台遺跡 D竪台遺跡 
  E竪神社 F妙見寺 G妙見尊 H西山の大崩岸 I威光寺・弁天洞窟 J穴沢天神社 
  K寺尾台廃寺 L坂浜・鐙野 M坂浜横穴墓 N高勝寺 OJR南武線南多摩駅 P京王線稲城駅
  Q京王線よみうりランド駅 R京王線若葉台駅 S向陽台団地

@瓦谷戸(かわらやと)窯跡 

 OのJR南武線南多摩駅を降り、川崎街道に出て右側(西)約2キロにあります。一帯は「瓦谷戸(かわらがやと)」と呼ばれ、江戸時代から瓦の破片が散乱して関心を持たれていました。

 武蔵国分寺創建期の瓦、国府の瓦、磚(せん=土+専=煉瓦のような焼き物=床に敷いた)を焼いた窯跡で、8世紀中葉から後半にかけて活動したとされる登窯です。現在2基発見されていますが、東山道武蔵路に直結する位置から大量に生産されたことが推定されます。左画像は1998年8月12日読売新聞

 調査は昭和の初めから行われていましたが、本格的には平成9年度の確認調査から平成10年度にかけて行われました。調査結果は多くの収穫があり、1998年8月12日読売新聞が伝えるように、「馬の絵」や「上申書」の下書きが刻まれたものなどが出土し、注目を浴びています。粘土採掘、大量の薪、焼成技術など、大勢の人々が関わったことが推定されます。

 なお、瓦谷戸窯跡群調査団編集・都内遺跡調査会発行による『瓦谷戸窯跡群発掘調査報告書』が1999年9月発行され、詳細な内容を報告しています。窯跡全体の意義、瓦の同笵関係などが解説され、ゾクゾクします。左 窯跡 右 「上申書」の磚(せん)を伝えるページ。

A大丸遺跡・横穴墓(多摩ニュータゥンNo513遺跡)

  OのJR南武線南多摩駅を降り、そのまま進むと川崎街道で下の画像の場所に出ます。中央の道路は「向陽台団地」に向かう「城山通り」です。右側が城山で現在もほぼそのまま残り、左側は大幅に変わって、奥に見える山の手前に、もう一つの小高い山がありました。それが大丸遺跡(多摩ニュータゥンNo513遺跡)です。「城山通り」は、リヤカーが曳ける程度の道で左右に畑と少しの水田があったそうです。

 「城山通り」を向陽台団地に向かって進むと、左画像のように左側は住宅地になっています。かっては右画像のような小高い山(説明板の写真)があり、多摩ニュータウンの開発により削り取られました。そこにあったのが大丸城跡(多摩ニュータゥンNo513遺跡)です。在来の家とニュータウンとの境の道路を入って行くと、道路の左端に下のような説明板があります。

稲城市教育委員会の実に正確・丁寧な説明板で、半日見ていても飽きません。
まして、近所の地付きのご隠居さんでも一緒なら、みんな揃って遙か古代へ飛んで行きます。

『ここが、おらが(俺の家)でョ、そこに昔の道が残ってるダ・・・』
『ここらへんに(この辺りに)ョ、窯跡があってョ・・・、焼いた瓦は国分寺で使われただと・・・』
『だけんど、まあだ わかんねーことが ごまんと あんらしいぜ・・・』

発掘された遺跡全部が書き込まれています。
赤丸が説明板の位置ですから、現況がほぼ北面であることがわかります。
西面は一部が「城山通り」にかかっているようです。東面は歩くと当時の状況が一部残っています。

中央の細い登り道が、かってあった「白山神社」への参道で
手前の曲がり道が当時から残った生活道です。
『白山神社はョ、天神様(大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)へ合祀してあんだ・・・』
『山はョ、あっちゅう間にシャベルカーで削られたァだ・・・』

 ここで発見された遺構は縄文時代から近世に至る複合遺跡で次のように説明されています。

縄文時代 土壙 15基 集石土壙 1基
古墳時代 横穴墓 2基
奈良時代 瓦窯跡 15基 竪穴住居跡 4軒
中   世 経塚・墓跡 3基 城郭 (物見主郭2〜3郭・空壕・溝) 板碑群 3群 
地下式横穴 4基 炭窯 1基 土壙 2基 集石土壙 1基
近   世 ムロ 6基 神杜跡 1棟 柱穴群 1

 このページは万葉の時代を扱いますから古墳時代と奈良時代に限定しますが、瓦を焼いた窯跡が15基発見されていることが注目です。

窯の年代

 焼かれた瓦から次のように想定されています。

 『東斜面の一号窯で最後に焼成された須恵器の年代が八世紀前半の中頃であることから、はじめに焼成された瓦はそれ以前の年代となり、窯体構造の特徴から見ても、七世紀後半〜八世紀初頭の中で考えられる。府中市から白鳳期の八弁複葉蓮花文軒丸瓦が発見されているが、東斜面の瓦とは胎土が異なるようであり、依然として、東斜面の瓦の供給地は不明であるが、須恵器ともども、国府に供給された可能性が強く、国府との関係においてこの地に窯跡群が成立したものと考えられる。

 北斜面の窯の瓦は、多摩川中流域の在地豪族の建立した小寺院に供給された剣菱文軒丸瓦を特徴とする地方色豊かな瓦で、この点で東斜面や西斜面の窯の瓦とは性格が違う。従来九世紀前半の瓦と考えられていたが、国分寺創建と同じかやや先行する時期でとらえ直す必要が生じた。

 北斜面の一一号窯と西斜面の窯の瓦は、武蔵国分寺創建期の瓦であり、国分寺の中でも初期に建立した建物に供給された可能性がある(塔・北院)。やがて、伽藍の全面的建立に伴って、瓦谷戸の奥に窯場が拡がると同時に、北武蔵地方にも国分寺瓦生産が展開していったことが考えられる。』(稲城市史 上 p508)

 国分寺・国府建設前に地方寺院の瓦が焼かれていた

 興味を惹くことばかりですが、説明板にのせられている「剣菱文軒丸瓦(けんびしもんのきまるがわら)」は、武蔵国府の付属寺院「京所廃寺(きょうずはいじ)」の瓦とされ、国分寺創設前に建設された小寺院に供給されたことがわかっています。

 特にこの瓦はこの地域と関係が深いKの寺尾台廃寺(川崎市の寺尾台団地内に復元)に使われ、六角堂の建物の瓦として使われたことが知られています。8世紀前半と考えられ、国分寺や国府が造られる前に、仏教に関連する瓦葺きの建物が存在し、それを造る人々が居たことが注目されます。

 これらは調布市でも発見されていて、稲城市史の云う『多摩川中流域の在地豪族の建立した小寺院』が何時どのように建てられたのか、その人々はどのように生活していたのか、渡来の技術集団か? など様々に問題が広がります。Kの寺尾台廃寺についてはページを改めます。

これらの工人はどこに住んだ

 大丸遺跡の中に、竪穴住居跡 4軒が発見されていますが、平面形が完全に残されていたのは南側の1軒で2.88メートル×2.92メートルの6畳間程度の家でした。到底これでは対応しきれないはずで、その人々や家族が住んだ村がどこにあったのか気に懸かります。

 古墳時代の横穴墓が2基発見されました。出土した土器(須恵器)から7世紀中葉から後半の時代が推定されています。小さな集団の代表、家族墓などが想定されますが、その時代から連続してこの周辺に居住があったのでしょうか?

 いずれにしても、これだけ大規模な遺跡が集中していることは、万葉の時代、この地域にもの凄いエネルギーが満ちあふれていたことが想定できます。少し長居をしました、先を急ぎます。

周辺には拡幅されていますが旧道が残され、谷ッ沿いに辿れば
大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)には、10分たらずで着きます。

B大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)

 OのJR南多摩駅から山崎街道に向かい、画像左の谷の道を進むと天神山があり、中腹にB「大麻止乃豆乃天神社」が祀られています。多摩川のつくった平地と多摩丘陵の接するところで、崩岸の崩れを多摩川石で止めた急な石段を上ると社があります。

 江戸時代には「丸宮明神」といわれていたそうで、もとは@の瓦谷戸明神バケにあったとされます。

「大麻止乃豆乃天神社」、オオマトノ ツノ テンジンシャ
一回では読みを間違えそうな天神様ですが、この地方にとっては重要な意味を持っています。

祭神は「櫛真知命(くしまちのみこと)」で占いの神様です。延喜式内社に記載されている社です。
稲城市では武蔵名勝図会、神祇志料などをもとに、これぞ延喜式内社としています。
青梅市や府中市、八王子市にも対象となる社があります。

 今回はそのことは別にして、この神社と稲城地方の関係を重視したいと思います。稲城市史はこの神社について次のように記します。

 『大麻止乃豆乃天神は、卜占に功績があった神として祀られたのである。そしてト占者の人達が厚く崇敬し、かつ同社を奉斎したものと思われる。当社はもと、現在の社殿の西方約一キロの瓦谷戸明神バケにあったと伝えられている。武蔵国府に比較的近いので、多くの人々がト占のため訪れたと考えられる。

 卜占者の中には、神社に奉斎のため必要な「祝部土器(須恵器)」の製作技術にすぐれた者がいたと思われ、彼らが後の武蔵国分寺瓦製作の際に貢献したものと考えられる。それは近年の東京都埋蔵文化財センター調査の多摩ニュータゥンNo513遺跡(大丸城跡)の東斜面窯跡二基から、武蔵国分寺建立以前の瓦と、須恵器が出土したことによってもうなずける。

 大丸地区の瓦谷戸及び大丸城跡には、十数基の窯跡があって、国分寺瓦その他が多く出土しているのは、大麻止乃豆乃天神社に奉斎したト占者に関連した人達の技術に負うところが大きかったと思われる。』(上巻p520)

 この神が、瓦谷戸(かわらやと)窯跡大丸遺跡・横穴墓と密接な関係があることがわかります。

神社の裏側にアズが露出し、社殿はアズ地質を切り開いて建設されています。

大丸遺跡に祀られていた白山神社は一番左側に合祀されていました。

ここからの道は、城山通りを行って「向陽台団地」へ向かうのも
山崎通りを通って稲城駅へ向かうのも選り取り自由で、それぞれに魅力があります。
途中を省略して、六間台(ろくまんだい)遺跡へ向かいます。

C六間台(ろくまんだい)遺跡

 

山崎通りとSの向陽台団地へ向かう道との交差位置に、稲城市の保健センターがあります。
その裏側は台地を形成し、六間台Cと呼ばれます。

道がわからなくなって、保健センターに飛び込んで聞くと
地元の親切な職員の方が、わざわざ、お姑さんに照会して下さって

保健センタから50メートルほど向陽台団地に向かったところから台地への道があること
台地を最初に開発したのが六軒だったので「六間・六万台」になったこと
など、その由来まで教えて下さった次第です。

現在はほとんどが住宅地になっていますが、この台地に奈良時代の村がありました。
わずかに残された畑から矢野口方面の市街が望め、万葉の時代の人々の交流が想像されるところです。

D竪台(たてだい)遺跡 E竪(たて)神社

 六軒台Cと地続きで、一段低く「竪台」が続きます。台と呼ばれるだけに高台を形成し、日当たりが良く、水を克服した現在では、ほとんど住宅地化されています。ここにも奈良時代の村がありました。

奈良・平安時代の住居址は60軒を越すとされ、大規模な集落が形成されていたことがわかります。

かって鬱蒼とした森に包まれ、この地域の象徴であったであろう「竪神社(たてじんじゃ)」は
今は産土の森も切り開かれ夏の日光に焼かれるようにありました。

創建は不明、本殿土台石に、宝暦14年(1764)の文字が刻まれているそうです。
祭神は雷神です。奈良時代の状況はどのようであったのでしょうか。

竪神社を向陽台団地S方面から見たものです。森になっているところが竪神社です。
この画像からははっきりしませんが、緩やかな台地を構成し、開かれた谷ッの上流に位置します。
水の管理に相応しい場に祀られています。

向陽台団地S側から見ると相当な谷になっていることがわかります。

国府や国分寺の造営に関係しながらここに生活した人々が
多摩川や三沢川にによって削り出されたアズに触れ、あの歌をよんでも不思議がないと
万葉の頃を思いめぐらすとジーンと迫るものがありました。 

F妙見寺 G妙見尊

 京王稲城駅Pの広場から武蔵野線越しに、妙見山が見えます。妙見寺・妙見尊を祀る森です。駅からはどこから降りても、独りでに足が運ばれる雰囲気です。江戸時代の創建が記録に残っていますが、それを遡る実に興味ある伝承を伝えます。 

明治時代につくられた寺院明細帳には
『当寺開基年月不詳 宝永年中晃傳代 観音院を寺格に引直し妙見寺と号す・・・』とあり
江戸時代も1700年代に、近くにあった観音院を妙見寺にしたと伝えます。

そして、妙見寺には五間四面の妙見堂があって、
『本尊妙見 天平宝字4年(760)・・当山に安置・・・』
とします。妙見寺にも妙見尊にも、幾多の変遷があったことが伺えます。

左側の鳥居が妙見尊への参道で、正面が妙見寺の山門です。
昭和40年代の写真を見ると、位置関係はほとんど変わらず、手前の道路が一段と低かったようで
妙見尊の鳥居までアズがぐっと張り出し、数段の石段がありました。

妙見尊からお参りします。
妙見尊は北斗七星の星祭りをして、茅の大蛇で疫病退散祈願をしました。
その名残が色濃く残されています。

最初の鳥居から一階段のぼると平場があり、鳥居の手前の門に茅でつくった蛇の大綱がまかれています。
毎年夏(8月7日)に行われる「蛇より行事」で、民俗行事として東京都の指定文化財になっています。

二十三夜塔の前には頭部が飾られています。

これらは江戸時代の名残ですから、今回は割愛するとして、妙見尊に向かいます。

平場からの最後の登りはきつく、参道の左側に迂回道がつくられています。

迂回道はアズを切り開いてつくられたもので、そのまま麓へと崩岸となっています。

妙見損の境内はこんもりと森に囲まれていますが、そこだけ明るく
稲城市内の長沼地域が一望されます。

妙見寺の開創伝承

 妙見寺には興味ある開創伝承があります。直ちに歴史事実とはしかねるでしょうが、高麗郡との関わりが深い事なので長くなりますが引用します。遠藤宏昭氏が稲城市史研究第4号で次のように記しています。

 『百村 妙見寺には開創を伝える史料として、天正十九年(一五九一)十月の年紀を持つ「武州多東郡妙見寺縁起」がある。この史料は補足史料がないので妙見寺の成り立ちを正確に記しているかどうかはいまだ検討の余地があるが、要約してみたい。

 妙見寺の草創は、同史料によれば大炊天皇(淳仁天皇)の御願により道忠禅師が本尊に定光仏、脇士に星王同体の妙見大菩薩を安置したことに始まるという。これにより寺号を妙見寺とし、妙見大菩薩は道忠が自ら彫刻したものであるという。開山道忠は武蔵国埼玉郡笠原郷の人で、天平十二年(七四〇)に高麗郡法光寺の道融のもとで出家、のち武蔵国比企郡中尾寺において衆生を化度したという。

 天長三年(八二六) 寺は火災に会うが、武蔵国守藤原信高が勅願により新寺を建立する。鳥羽院のとき寺院は大破するが、武蔵国守 高階敏信が修復、更に四至を定めたという。治承六年(一一八二)再び炎上するが、本尊は猛火の中を飛び移り難を逃れ、この霊験を聞いた源頼朝は武蔵・相模の御家人に奉加を命じ伽藍の造営にあたらせた。そして頼朝の平家討伐も妙見大菩薩崇拝の利益である、として縁起を結んでいる。

 多摩郡南部に位置する稲城地方の土地柄は古く、多摩に八座あったという式内社のうち、大麻止乃豆乃天神社・穴澤天神社・青渭神社は市域の各神社ともいう(注10)。また、高勝寺には十二世紀前半ごろの作と考えられる一木造りの木造聖観音立像が安置されている(注11)。さらに、常楽寺にはやはり十二世紀前半ころの作とされる木造阿弥陀三尊像が安置されている(12)。こうしてみると、妙見寺が縁起の記するように古代の創建と考えられないこともないが、これについては一層の考察が必要である。また、縁起は鎌倉時代初期を以て終了していることから、その後寺院は一時廃絶したものと思われる。

 妙見寺の裏山に妙見宮がある。同宮は、「妙見寺記録」によれば孝謙天皇の天平宝字四年(七六〇)の創建で、妙見寺と関係深い当麻真人村継が妙見寺に安置したものという。その後稲毛三郎重成が領主のとき、国が乱れて以来修復もなかったが、滝山城主北条氏直が諸堂を修復したという。この後妙見宮は修験東光院が進退を取り仕切っていたが、せがれ民部の代に観音院に譲ったという。

 妙見寺過去帳によれば、この東光院は権大僧都源春(寛文元年二月寂)と称し、「当寺退転之節山伏二相成」とある。つまり、この記載から妙見寺は少なくとも江戸初期頃までは存続し、後に退転してしまったことがわかるのである。山伏となった源春は妙見宮だけは守り抜いてきたのであった。しかし、せがれ民部は延宝五年(一六七七)観音院に譲り渡すのであった。・・・』(p42〜43)

 この事実関係を調べてみるとまた意外なことがはっきりするかも知れません。

現在の妙見寺は凛とした山門を入ると、妙見山に包まれるように建っています。

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