崩岸(あず)の上に(3)
(万葉集 東歌 14-3539 14-3541 東京都稲城地方)

崩岸(あず)の上に 駒をつなぎて 危(あや)ほかと
   人妻児
(ひとづまこ)ろを 息(いき)にわがする
(万葉集 東歌 14-3539)

(現代語訳は最初のページに)

崩岸(あずへ)から 駒の行(ゆ)ごのす 危(あや)はとも
人妻児ろを目(ま)ゆかせらふも
(万葉集 東歌 14-3541)

崩岸のあたりを駒で行くように あやうくても
あの人妻をただ みていられようか。 (岩波日本古典文学大系 万葉集 三 p449)

断崖の上を駒が行く時は、はらはらするが、
そんな気持ちで人妻であるあの女とこっそり逢ってみようかな。
(芳賀善次郎 武蔵野の万葉を歩く p159)

崩岸(あず)という、崩れそうな崖を舞台にしての
人妻への危うい恋心を歌ったものでした。

(1)(2)で埼玉県飯能市が設置した歌碑を紹介しましたが
これと類似した景観を示し、万葉の時代活発に動いた地域として
多摩川に接する東京都日野市・国立市・国分寺市・府中市、調布市、多摩市・稲城市・・・
など一帯の地域があげられます。

どこの地域にも歌碑が設置されて当然と思えますが、現在のところ、どの市域にも設置されていません。
どの場所も魅力的ですが、今回は稲城市を中心として訪ねてみます。

JR南武線・南多摩駅には、すぐ南側に多摩丘陵が迫り
駅を降りて、大丸方面・川崎街道に出れば、そこには現在のアズが出迎えてくれます。

川崎街道を隔てて南には、中世の大丸城址が横たわり

一歩中に入れば、丘陵を切り開いて人跡があります。
(大丸・普門庵付近)

多摩・稲城市一帯は多摩川のふちと丘陵の谷に開けた村でした。
現在は、多摩ニュータウン事業で開発が進み、万葉の時代の景観とは全く変わりました。
仕方なく、ごく大まかに当時の地形に主要なポイントを置いて見ました。

万葉の時代、多摩川は太古削った国分寺崖線と府中崖線を残し、流路は別にして
ほぼ現在の位置にあったと考えられます。
ただし、この図の多摩川の流路は江戸時代初期の大洪水後のもので
万葉の時代の古多摩川はずっと北側・府中崖線寄りに流れていたと想定されています。

国分寺崖線を背に武蔵国分僧寺、尼寺がつくられ
府中崖線の上につながる台地に武蔵国府が建設されていました。

武蔵国府の創建は8世紀初頭の簡易なものから、8世紀中葉には国衙建設の最盛期を迎え
後に紹介する瓦谷戸窯跡で750年代に焼かれたと想定される磚(せん)を敷き詰める段階になっていました。

同様に武蔵国分寺の創建期造営の最終段階に至り
完成は天平宝字年間(757〜765)と考えられています。

東山道武蔵路を通じて人と情報と物流があり、官道としての役割が機能していました。
(東海道への転属は宝亀2年(771)です)

一方で、多摩川を挟んでは、多摩丘陵を削る多摩川、乞田川、三沢川などにより
国分寺崖線・府中崖線と同様「崩岸」が形成され
その付近に窯業や鍛冶が行われ、それに従事する工人や家族が生活の場を開いていました。

万葉の時代以前の集落形成、古墳(高倉古墳群)の築造を経て
武蔵国府・国分寺の建設ブームが活況を呈し、中央からの進出、渡来系技術など多くの伝承が残ります。

その場にすべて「崩岸」があります。
「崩岸」の歌は、この地域のどこで詠まれても不思議がありません。
そこには、高麗郡とはまた別の雰囲気があったようです。

丸数字は次の通りです。60%圧縮しましたので読みにくくて申し訳ありません。
これらの場所を通じて、当時の姿を追ってみたいと思います。

  @瓦谷戸窯跡 A大丸遺跡・横穴墓 B大麻止乃豆乃天神社 C六間台遺跡 D竪台遺跡 
  E竪神社 F妙見寺 G妙見尊 H西山の大崩岸 I威光寺・弁天洞窟 J穴沢天神社 
  K寺尾台廃寺 L坂浜・鐙野 M坂浜横穴墓 N高勝寺 OJR南武線南多摩駅 P京王線稲城駅
  Q京王線よみうりランド駅 R京王線若葉台駅 S向陽台団地

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