ザンジバル Zanzibarについて



タンザニア連合共和国を構成する地域(自治州)。タンザニア北東部のインド洋の沖合約35kmにあり、ザンジバル島(=現地名ウングジャ島=面積1660I)、ペンパ島(984I)と30余の小島からなる。人口は約57万人(1985)*佐渡島は857I。
住民は、最も古く住みついたとされるパントゥー語系のハディーム、トゥンバトゥと、アラブ人、インド人、さまざまな程度のアラブ人やペルシア人とアフリカ人との混血民、それにアフリカ本土からの出身のアフリカ人からなる。
ザンジバルの最大の都市ザンジパル市(人口約7万人)は、ザンジパル島の西端にあり、古いアラブの伝統を残した街並みをみせている。
ザンジバルの名は、アラピア語の〈ザンジュ〉(黒人の意)からきたもので、かつてアラブは東アフリカ沿岸部をザンジュの国と呼びならわしていた。
ザンジバルは、1−2世紀にアレクサンドリアで書かれた≪エリュトラ海案内記≫でメヌティアス島と呼ぱれていたのがそれに当たるとみなされている。
インド洋交易の一つの拠点として発展したザンジバルは、11世紀にはすでにイスラム化した住民が住む交易都市としての機能を果たしていた。13世紀のアラブの地理学者ヤークートも、この町について記録している。
13−15世紀、東アフリカ沿岸部では南のキルワ島が、ソファラ積出しの金を独占して隆盛をきわめ、ザンジパル、その他の沿岸地域、島嶼部の都市とともに都市国家群を形成していた。
16世紀に入ってポルトガルが東アフリカに進出してきたが、17世紀後半になると、しだいにポルトガル勢力は南へ追い払われた。ザンジバル島は1698年にはオマーンの支配下に入る。
19世紀に入って、マスカト・オマーンの領主(スルタン)ブー・サイード家のサイイド・サイードが、何度かザンジパルに遠征し1828年、ザンジバルにオマーンの首都を移し、モガディシュからデルガド岬に至る沿岸部をおさえる国をつくりあげた。
ザンジバルのスルタンはサイードの死後、イギリスによって徐々に傀儡化し、1890年から英国の保護領となる。ザンジパルのスルタンは形式的には1963年12月10日の独立まで残存したが、
64年1月12日のアフロ・シラジ党+ウンマ党による社会主義革命により廃された。
64年4月26日に大陸側のタンガニーカ共和国と合邦し、12月には新しいタンザニア連合共和国となった。
参照文献 「アフリカを知る事典」平凡社他

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