The UNPO News July 1997(from UNPO web)

今こそ紛争を解決する時だ。

ザンジバルの人はこう問いかけている。
「国際社会が動くためには、先ず我々が血で血を洗う必要があるのか?」

観光客はザンジバルのアラブ風石作りの建物の込み入った路地を散策し、椰子の木の茂る小さな入り江で日光浴に興じている。この小さい島国国家は、1964年に独立してから2ヶ月ほどで内陸のタンガニーカと連合して、タンザニア連合共和国を形成したのだが、見た目は穏やかで、平和的に見える。

しかし実を言えば、その外見とは裏腹に住民間の紛争は平和をぶちこわし、島民同士がいがみ合いを続けているのだ。本当の危機、深刻な暴力衝突がいつ起こってもおかしくないと、タンザニア政府や首都のダルエスサラームの各国大使館は危惧している。しかし、隣国のザイール(現在はコンゴ民主共和国)での血生臭い戦闘と民間人の虐殺に多くの人の目が奪われている間に、ザンジバルでは政府の野党への抑圧とそれに対する抵抗の危険な循環が常態化していった。

たとえばタンザニア建国の父ジュリアス・ニエレレは彼の外交努力をザイールの問題解決に集中しているというのに、彼自身の国の中(ザンジバル)で起こっている、この重大な紛争の解決には積極的ではないのである。現在の危機は1995年10月に行われたザンジバルの大統領、国会選挙の選挙運動中そして、選挙中に行われた不正に端を発している。これらの選挙は1964年のザンジバル革命以後初めての複数政党制の元での選挙だった(ザンジバル革命政府は、単一政党制を制定し、タンガニーカとの連合を決めた)。

この選挙での主要政党は、革命政権時代の唯一の党CCM(革命党)と新たに作られたCUF(Civic United Front )だった。UNPO(Unrepresented Nations and Peoples Organization=国際機関に代表権を持たない国や人民のための機関)はこの選挙に国連開発計画を含む国際機関同様、選挙監視団を送った。私たち全ての監視団は大統領選開票の時点でザンジバル選管に不正があったことに気づいた。

しかし、ザンジバル選管は僅差で与党候補の勝利を伝えた。
与党CCM候補 Salmin Amour Juma氏が50.2%
野党CUFのSeif Sharif Hamad氏が49.8%
を獲得したという結果をである。

野党CUF支持者は彼らの民主的な勝利を与党に詐取されたとし、非暴力の闘争に入り、非合法の大統領もその政府も認めようとしなかった。この闘争の基本は大統領もその政府も正式なものと認めないという戦略であった。

選挙自体の不正と、その後の政府による野党への弾圧は、いわゆる援助国の「制裁」を呼び起こした(多くの西側諸国はザンジバルを含むタンザニアの発展計画に深く係わっていることは周知である)。西側諸国によりザンジバルに対する発展計画への援助は延期され、ザンジバル政府、特に Salmin Amour大統領との関係は避けられるようにされた。これらの措置は大統領を動揺させ、怒らせはしたが、その政策を換えさせるには至らなかった。野党の戦術は大体において非暴力であり、政府に協力しない(議会に登院しない)、政府の方針をボイコットする、あるいはサボタージュするというものであった。

しかし、この2年間の間何も状況が改善されないのに苛つきはじめた地方の支持者は指導者の非暴力の方針についていけなくなり、より過激な暴力的な解決方法を目指しはじめている。野党CUF指導者が特に政府による野党支持者にたいする弾圧を止めさせる確約をとりつけない限りは、野党指導者の方針に反対する野党支持者によって暴動が今すぐ起こりかねない状況だ。

この2年間に顕著になったのは、民族的、地域的紛争という局面が創設され、強調されはじめた点である。政府CCMの野党に対する政治的ハラスメントは、野党勢力の強いペンバ島住民に焦点を当てて行われている(ザンジバルは、ザンジバル島とペンバ島という二つの主要な島によって形成されている)。ペンバ島住民は政府の仕事から排除され(たとえば閣僚にペンバ島出身者を入れなかった)、教育の機会と、奨学金の支給を拒否され、CCMの私的軍隊による弾圧を受けた。ザンジバル島の住民にはペンバ島の住民に対する憎しみを増やすようなプロパガンダが行われ続けている。こういった状況の中でペンバ島住民はザンジバル島住民への憎悪を持ちはじめ、以前にはなかった「民族的」紛争の要素が形成されつつある。

我々が行動を起こすのは今をおいてない。ひとたび暴力が火を噴けば、どうなるかは日を見るより明らかだ。1996年英国連邦の高官が調停努力を始めた。しかしそれは失敗に終わってしまった。この時英国連邦の公平さを疑問視した者もいたし、彼らが解決を見いだすためにはあまりにも短い滞在だったと考えた者もいた。1997年の4月には the Peace Action Council(注;どういう団体かは未確認)は対話と和解の可能性を探るために目立たない使節を送った。英BBC放送が伝えたところによると、政府役人やペンバ、ザンジバル両島の住民と使節は幅広く対談を行ったが解決の糸口は見つからず、現在もその努力は続けられているという。その努力は有意義に違いない。しかし、それらの努力は援助国のザンジバル政府や、タンザニア連合国政府、特に連合国大統領Benjamin Mkapa氏へのさらなる圧力なしには、効果的ではないだろう。

タンザニア連合共和国政府はザンジバルの紛争を止めることが出来るし、そのために尽力すべきである。連合共和国にとって、ザンジバルのCCM政府を支持することは魅力的かもしれない(彼らは1964年の連合以来の兄弟のようなものだから)が、それは状況を悪化させるだけだ。

タンザニアの全ての政党が認め、国際社会が公然と作り上げようとした民主主義のプロセスの実施を守り続けること以外に、現在のザンジバルの危機を解決する根拠はないのである。そしてザンジバルの失敗はザンジバルの人々だけに禍根を残すだけではないのである。それは非暴力を信じ、それを元に行動する人々への打撃でもあるのだ。

ザンジバルの人はこう問いかけている。
「国際社会が動くためには、先ず我々が血で血を洗う必要があるのか?」

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UNPO Mission to Zanzibar;The Elections of October 22, 1995(日本語訳)
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