効果と言える物は思い当たらない。
項目名とはズレた内容になるが、顕微鏡の増備が計画されながら実現しなかった経緯をここに記す。
2000年8月、協力隊調整員が百色農業学校を視察に訪れた。そして校長らと話す席で、隊員支援経費の使い道の話が出たのである。
1号報告書でも触れた通り、元々学校側の希望としては、牛乳処理設備一式(3万ドルだという)を援助して欲しいと言っていた。これは目的の面からも価格の面からも論外。
そして日本側から出された案が、顕微鏡やオートクレーブといった実験機器を整備することだった。
学校側、特に調整員の視察に同席していた校長と二人の副校長らは、顕微鏡を買うという案に乗り気だった。正確には「援助が受けられるなら何でもいい」というところなのだろう。牛乳処理設備にもまだ未練があったようだ。
また、学生に見せるビデオやスライドの教材も欲しいと言われていたが、これは私自身が学生時代にビデオやスライドを見せる授業が嫌いだった(正確には、教室が暗く静かになるとすぐ寝てしまっていた。生きている先生は寝ている学生を起こしてくれたりもするが、ビデオは無視して続きをしゃべるだけなので安心して寝られる)ために断り続けていた。ビデオを見るより手を動かした方がいい、という意見の半分は、授業中に寝ていたことの言い訳だが。
とにかく、学校の首脳部としては顕微鏡の導入に前向きだったのだが、「顕微鏡?、それでもいい」という反応と、「うまくいけばよいが、ダメでも気にしない」という言葉が気にかかる。「ダメでもいい」って、その程度にしか必要じゃないのかい。
獣医科の教師には話がほとんど伝わっていなかった。考えてみれば、調整員が視察に来たときにカウンターパートたるべき獣医科の教師が誰一人姿を見せなかったのもおかしな話である。
顕微鏡を増やそうというこの話も、私が「先日、校長達とこんな話をしたんだが」と話すまで知らなかったようだ。そして話した後も、一応賛同はしてくれるのだが、私に話を合わせているだけという印象だった。
私は今ある分に新しい物を足して、一班の全学生に1台ずつ行き渡るようにしたいと考えたのだが、獣医科の先生は新しく高性能な物を使いたいと考えたようだ。「数」が必要と考えた私と「性能」を重視した先生達の意識にズレがあった。
「申請するに当たって、利用計画や見込まれる効果などを書いて提出しなければならない」と言って作文を頼んだが、何日経っても返事がない。やっと書いてくれたものは、文例として渡した物のほとんど丸写しだった。ひいき目に見ても内容に説得力がない。
現在学校にある顕微鏡だが、整備状態は大変悪い。油浸レンズを使った後の油がきちんと拭き取られていないなど、簡単な手入れの問題もあるし、ステージが動かない、絞りが動かないといった機械部分の問題も多い。とはいえ、レンズは拭けばいいし、機械部分も新たに買うよりはずっと安い費用で修理できるだろう。
それなのに、一度顕微鏡を買う(学校にとっては「もらう」と言うべきか)となると、古い物はもういらないという。
今ある物を上手に使うとか、大事に使うという意識に欠けるという印象を持った。であれば、もし新たな物が入ったとしても有効に利用されない恐れが多分にある。初めは新しくてもすぐに「今ある物」になるのだから。
学校の上層部と教師と私、それぞれの考えにズレがあり、しかも相互の意志疎通が十分ではない。これもまた不安材料である。一堂に会して話し合うという機会はなく、校長副校長や各教師の間を私が回って話をするので、秋が過ぎて冬になっても話は進展せず、先行きの不安は増す一方。
そして2001年2月、2000年度の予算を利用できる最終期限の頃、私はこの顕微鏡の申請を白紙に戻す決断をした。隊員である私自身が不安と疑問を感じている申請を、年度の変わり目と予算の残りという事情に追われて、焦って進めるべきではない。
この時点では、学校側と相談し直した後に改めて機材の申請をする事も考えていた。しかし、私の不安はむしろ大きくなる一方で、再び話が具体化することはなかった。そして、今に至る。
この決断は今でも残念だったと思っているが、間違っていたとは思わない。むろん、きちんと話し合って考えを理解してもらい、疑問や不安を解消した上で計画が実現するほうが良かったのだろうが。
2001年の1月末頃、計画の撤回に心が傾きつつも迷っていた私に最後の決断をさせたのは、春節(旧暦正月)後に、ある教師に「顕微鏡の申請の事なんだけど」と話しかけたときの「ああ、忘れてた」という反応であった。冗談だったとしたら、悪い冗談だ。
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