2026.03.28
廃棄する本を選んでいると、ドラッカーの「ポスト資本主義社会」が見つかった。日記を調べると1997年に買った本である。多分会社の研修か何かで買わされたか買ってもらったかしたのだろう。多少反発の気分もあって読んでいなかったようであるが、AI が使われる時代になって、彼の言っていたことが現実となっていることがよく判る。ちょっとだけ読んでみた。
第1章:資本主義から知識社会へ
「知識」の位置づけには古来二つの立場があった。ひとつは哲学的道徳的なもので、自己認識という意味である。プラトン以来の哲学。東洋における道教や禅宗もそうである。もう一つは論理、文法、修辞的なもので、東洋での儒学である。公教育の根幹とされてきた。いずれにしても、人の能力の内で、行動力以外のものとも言える。その意味で「技能」というのはまさに行動力の一つであり、一般化されず、秘伝であり、習うしかないものであり、教養人が蔑んだ奴隷労働に相応しい能力であった。
西洋では18世紀に「百科全書」が作られ、技能が体系化されたことにより、技能を身に付けた人達が増加して、産業が盛んになった。この体系化された技能は「知識」ではあるが、これが新しい知識の生産、つまり「科学」になるのは19世紀である。
知識が技術に応用されるためにはいろいろな条件を整える必要があり、生産の現場が「工場」として登場する。初期の工場は国営であったが、やがて資本家が登場して私有の工場が支配的となった。
工業生産が支配的な産業となる、つまり産業革命が起きると、農村から都市へと人口移動が起きる。マルクスは都市労働者の疎外状況を分析したのであるが、実際のところ農村に残るよりは都市のスラムで労働者となる方が生活は豊かであった。彼の分析した資本主義の矛盾によるプロレタリアート革命は結局起きなかった。これはマルクスの労働観の限界であった。労働の成果、価値の創造は単に労働そのもので生じるものではなくて、それに生産性の因子がかかるのである。そういう意味で、テイラー(1850-1915年)によって提唱された科学的管理法が資本主義を救ったと言える。労働は熟練によるだけでなく、その熟練は労働過程の分析と組織化と教育によって代替発展可能なものである。彼の考えは、労働者側からは自らの技能の固有性の否定と受け取られ、経営者側からは労働過程の解析と改良に労働者の参画を必要とするという意味で経営支配権の否定と受け取られた。
ヒトラーは熟練工の居ないアメリカを見くびっていたのだが、アメリカは小作農民を教育して精密機械を作れるようになった。知識の仕事への適用、つまり教育訓練によって戦後の韓国、日本、台湾、香港、シンガポールは工業国となった。
知識の仕事への適用による「生産性革命」は20世紀の終わりになって、限界を迎えている。もはやものつくりをする人口の割合は20~10% となっているからである。次の段階は知識の知識への適用、つまり、成果を生み出す既存知識を如何に活用するかという知識、いかなる新しい知識が必要か、それは可能か、を判断するための知識、「体系的なイノベーション」の為の知識が必要となっている。これが「マネージメント革命」である。
土地、労働、資本は制約条件にすぎない。資源の中核は「知識」である。その知識とは、今日では道徳的なものでもなく修辞的なものでもない。行動を生み成果を生む知識であり、専門知識である。その専門家たる知識人が社会の基礎となるのであるが、そこで問題となるのが、彼らの在り方である。
第12章:教育ある人間・・・期待させたが、大したことは書いてない。。。
・感想
ドラッカーの本を読んでいると、我々の価値創造(仕事)における重要なファクターが歴史的に大きく変化してきて、現在は「知識」とその革新であることが判る。けれども、創造される価値がどう変化してきたかについては曖昧である。それは多分新たな知識なのだろうが、その価値基準は何だろう?ドラッカーは知識の価値基準もまた歴史的に変化してきていて、我々の行動、成果への貢献度であるという。そして、マネージメント革命後においては、その成果も新たな知識である、という。そうなるとこれは「知識」の自己増殖ということになる。最終的には何らかの物理化学的、あるいは生物学的な成果であるとするならば、どこかで飽和してしまうのではないか?多分そうではない。その成果というのは結局「情報」なのだ。情報というのはそれを担保するための何らかの物理化学的実体(情報担体)を必要とするが、それは本質的ではなくて、主観的(主体的)なものである。個人の扱える情報には限りがあって、不要となれば捨てられる。担体(本とか記録メディアとか)の方の廃棄はまだそれほどの問題にはなっていない。だから、新しい情報をいくら生産しても大丈夫である。つまりファッション情報と同じである。先進国の人々がファッションのように移り変わる目新しい情報に吸い寄せられ、それに伴う物理化学的資源を浪費している一方で、生命維持の為にそれらを必要としている人たちも居ることを忘れてはならない。多分それを考えることが「教育ある人間」(知識人)の備えるべき条件なのだろう。